呉ノ朱

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  三.  

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「あまり見ない方がいいと思うが」
求める気持ちのままに長いとは言い難かった行為の後、ブランケットをまくろうとしていた千鶴に槇が忠告した言葉を、千鶴は聞こえないふりをした。
「――--!」
「だから言っただろう……来なさい」
シーツに付着したであろう血液に青ざめた千鶴を抱き寄せて、槇はその髪に口づける。穏やかな温もりだった。
抱いてしまった。生徒であった千鶴を抱いたことへの後悔は、ない。けれど罪悪感が完全にないかといえば嘘になる。
彼女と決定的な関係を結ぶ、ということ。
それは、彼女がこの先出会うかもしれなかった恋や男たちを総て殺してしまうということに他ならない。それを許せるほど、自分は独占欲が薄いわけではないのだから。
おそらくは海原のように皓然と広がっていた彼女の未来を、溢れていた可能性を、奪ってしまった。
彼女の身体は傷つき、血を流して――――-。
それでもその罪悪感に目を瞑るに余りあるほどの満たされた体温が、槇に穏やかな呼吸をさせていた。
千鶴は槇をまっすぐに見上げて、目が合ったことに気づくとはにかんで目を伏せた。
見覚えのある表情。懐かしくさえ思う、今はもう通わなくなったあの教室で、いつも千鶴はこんなふうにして自分を見ていた。
ホームルームのたび、授業のたび、廊下ですれ違うたび。
最初は自分に怯えているのかと思った彼女の態度が、そうではないのだと悟ったのをいつだったか、そしていつしか自分の視線が自然と雑踏の中で彼女を見つけだすようになったのがいつからだったか、もう槇は覚えてはいない。
覚えていないといえば、槇はもう、千鶴とこうなるきっかけをくれたあのノートの持ち主である彼女の顔も、思い出せなくなっていた。
忘れてしまう。こうしてひとつひとつ、年を経て無意識下で忘れてしまうことがある。
それでも、決して色褪せない、忘れることなどできない存在が、いまこうして、腕の中にある。
――--槙にとっては、それだけで十分だった。
「……まだ痛むか?」
「もう大丈夫です」
行為の最中、よもや死んでしまうのではないかと槇は危惧したが、千鶴はいまのように無理に笑って槇を促した。
その笑顔に愛おしいと、息が詰まる。けれど生憎元来、槇にはその思いを表情にも態度にも表すことができないのだった。
「できうる限りの努力は、することだな」
「え?」
呟いた槇の言葉に、千鶴が聞き返す。槇は無言で机の方を見やった。
おそらく、千鶴はどうあがいたところで、自分の大学に入ることは叶わないだろう。それでも自分との関係を、彼女の逃げ場にはさせたくはなかった。
「その努力如何によって、若名に相応しい進学を、考えさせてもらう」
「それって……頑張らなかったら、先生のお嫁さんにしてもらえないっていうことですか……?」
泣き出しそうに顔を歪めて千鶴が言う。
思わず吹き出したくなる気持ちを必死に抑えて、冷静な表情を保とうとした槇に、千鶴は指を一本一本折り曲げながら、更に続けた。
「でも先生が30歳で、私が10浪してもええと……28歳だから、うん」
「なんの、計算なんだそれは」
隣にいた千鶴は、きらきらとした目で槇をまっすぐに見つめている。
「私が先生の年になるまでにはきっと、12年必死で勉強すればきっと、先生の大学に入れるくらいまでにはなりますから、それで卒業できたら……さっきの永久就職の話、相応しいって言ってもらえるくらいになりますから!」
「……っ」
無茶苦茶な理論だった。ついには堪えきれずに吹き出した槇を、千鶴が唖然とした顔で見ている。けれど槇は、笑った。
「あははははは!」
こんなに大声で笑うのは随分と久しぶりだ。
「おまえはほんとうに……かわいいな」
まだ残る苦笑混じりに槇が言って、唇をまた寄せさせる。
そうして軽いそれを交わして、千鶴の表情が固まっていることに気づいた。
「ん?」
「――先生、私、あんまりこれから先生に笑われないように、頑張りますね」
なぜだ、という問いに千鶴はいいえ、と微笑んでみたが、槇の満面の笑い顔と笑い声はあまりに怖いのだ、と言うことは、ついには出来なかった。
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