呉ノ朱

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  最終話.  

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「千鶴、元気ないよ?生きてる?」
「うん……ダメかも」
千鶴はぐったりと、机に顔をつけていた。マリがどんな話をしても、何も考えられない。放課後に化学室に行くことがなくなって以来そんな状態で、もう数日が経っている。
いっそのこと、また槇の授業で居眠りしてしまおうかと思っていた。
そうすればまた2週間、ペナルティで槇といられるかもしれない。そんな馬鹿馬鹿しい考えが浮かんでしまうほどに、千鶴は何もかもがどうでもよくなってしまった。
朝と夕方のホームルームで顔を見ることはできたし、廊下ですれ違って挨拶することもある。けれど、それじゃ何の意味もないのだ。
槇は教師で、千鶴は生徒。そのことしか、自分と槇を繋ぐ言葉がない。
「学校……辞めちゃおうかなあ……」
「はあ!?まさか羽柴ファンの女に虐められでもしたの?」
マリがしっかりしてよーと千鶴の身体をがくがく揺する。千鶴は微笑んだ。勿論本当にそんなことをするつもりはなかったけれど。槇にとって生徒でなくなっても、学校で会えなくなっては意味がない。
「でも若名、ちょっと雰囲気変わったな」
「あ、私もそれ思った」
羽柴が微笑む。千鶴は机に顔をつけたままでそうかな、と呟いた。
「悔しいよなー。なんか急にオトナになった感じ。オレが変えたかったのに」
羽柴がふざけて笑う。千鶴も笑った。
笑えるんだ。胸には虚ろな場所があるのに、ちゃんと笑える。
あの手紙を書いた槇を好きだと言っていた美しい字の人も、こんなふうにゆっくりと、槇から遠ざかってしまったんだろうか。
いつまでも槇のことを好きだ、とか、卒業しても好きでいられる自信は正直言って、ない。初めてちゃんと恋というものを経験したように思うけれど、小さい頃に淡い初恋のようなものはそれなりにあったような気がする。
でも今では、その好きだった気持ちも、顔も思い出すことができない。
千鶴に限らず、誰もがそうなのかもしれない。けれどそんなの、厭だ。
「忘れたくない……」
ひとりで呟いた声に、マリが聞き返してきたが、千鶴はただ首を振った。



階段を降りながら、千鶴は2階の踊り場で少し立ち止まった。奥には化学室と化学準備室が並んである。きっと槇が一人でいるだろう。
けれどもう、そこに入るべき用を、千鶴は持っていない。それなのに毎日、同じように、なんとなく、この踊り場で立ち止まってしまう。
偶然、槇が出てきてくれたらいいのに。
一瞬でも、言葉を交わしたい。姿が見たい。
だがその願いは、もう、届くことはない。
一度息を吐き出して、そして昇降口へ向かう。
ちら、と、隣の靴箱が気になった。スチールの扉を撫でる。
何人の生徒が今まで、この一番端、一番下の使いづらい靴箱を使ったのだろう。自分があの日、間違ってこの扉を開けなければ、槇を好きになることも、こんな風に夕陽を切なく感じる気持ちも知らなかった。
それを知ることができて良かったと千鶴は思う。
隣の自分の靴箱を開けて、そしてふと、気になった。
槇が入れていたのだとわかってから、一度も開けていない。もう入っているはずなどない。けれど……。
ガコッという重い音をして、横に扉を開く。
――白い紙が、あった。
千鶴はとうとう幻覚が見えるようになったのかと、目をこすった。けれどそれは確かに、がらんどうのその靴箱にそっと置かれている。

伝えたいことがある。
これを読んだら、いつものように来なさい。


それだけ書かれていた。
字が違う。丁寧だがあの手紙ではなく……大人の男の、槇の字だ。
千鶴は脱ぎかけていた上履きのかかとを踏んだまま、昇降口を飛び出した。手の中に初めての、槇から自分への手紙を握りしめて。
伝えたいことがある。まさか愛の告白だとは思わなかったが、それは手紙というよりも単なるメモだったが、それでも槇から自分への言葉だ。
化学準備室が、とても遠く感じる。槇はまだいるだろうか。この手紙は、いつから入っていた?
――もうずっと、見なかった。見なかった。


「槇、せんせ……っ」
息を切らせて化学準備室のドアを開けた千鶴を、槇はパソコンに触っていた手を止めて驚いた顔をして見上げた。
千鶴はドアを閉めて、何か喋らなければと思うのに、舌がもつれてうまく言葉にできない。必死に、手の中のメモを見せる。
ああ、と、槇が苦笑した。苦笑、した。
「たいしたことではない。若名に手伝ってもらった例の研究論文の話だ」
槇が片手で眼鏡を持ち上げる。千鶴の息はまだ収まっていなかった。やっぱり愛の告白なんかじゃなかったけれど、それでもまたこうして槇とこの部屋に二人でいることが嬉しくて、鼓動はきっと、鳴り止まない。
「あれを送った母校から打診があってな。……俺は3月で大学に戻る」
「え……!?」
槇は嬉しそうだった。表情はそんなに変わらないが、それでも槇を見続けてきた千鶴には、その微かな変化がよくわかるようになった。
それなのに、千鶴の目の前が暗くなっていく。
3月で、槇がいなくなる。
大学に戻るということは、教師を辞めるということだ。
「若名には、伝えておいた方がいいと思った。伝わらなくてもいいとも思ったからあの靴箱に入れたんだが……おいっ!」
千鶴は足から力が抜けて、思わず倒れ込みそうになった。その身体を、槇が咄嗟に手を伸ばして支える。が、少し遅かった。
槇をそのまま倒すようにして、ふたりそろって床に転んだ。
「おい、若名!」
槇が身体を起こして千鶴の肩に手をかける。横になった千鶴の目の端から、つ、と涙が流れた。それを見て槇が目を開く。
「……先生、ひどい」
千鶴は両手を上げて、目の上に乗せた。泣き顔を見せたくない。
「私が卒業するより早く、先生がいなくなるなんて……そんなの卑怯です」
槇が自分を好きでなくても、学校で姿を見られるだけでいいとそう思っていたのに、それすらもう叶わなくなる。自分を知り、きちんと恋愛対象として好きになってもらう機会さえもなくなってしまう
「卑怯、か。その程度のことで、諦めるのか?」
隣に槇が座ったままで自分を見下ろしている。ずれた眼鏡を直して、スーツの袖を払った。床に仰向けに寝たまま、首を振る。
「こうして学校で会うこともなくなる。4月には新しい化学の教師が来て、担任も替わるだろう。そのうち俺の顔も忘れてしまう。……そんなものだ」
「そんなものだ、じゃないです」
声をあげたが、心の中が散らかって何と続けていいかわからない。
槇が大きく溜息を吐きだした。槇が立ち上がり、椅子に腰掛ける。
「そうか?」
「そうです。そんな風に簡単に忘れられるくらいなら、初めから好きになったりなんか、しません」
ぐい、と、顔を袖で強く拭った。泣いている自分が悔しい。諦めないと、忘れないと決めたはずなのだから。

――君が好きでした、とてもとても。けれどもう、忘れてしまおう。

あの詩を思い出す。忘れてしまおうなどと思うくらいなら、恋なんてしなければいいんだ。
……私は忘れない。忘れてなど、やるものか。
「先生が全部、初めてでした。好きになったのも……キスとか、そういうのも、槇先生だったから……。だから一生、忘れてなんか、あげません」
涙の混ざる声で口早にそう言って強く睨んだ千鶴を、槇は険しい顔のまま見つめていたが、急にそれが崩れた。
槇が笑う。破顔の笑みと呼ぶに相応しい、笑い方だった。
以前なら、奇跡的にしか見ることのできないその笑顔に喜びもしただろうが、今は笑えない。どうして槇に笑われなければならないのかわからない。
「どう言っても、諦めるつもりはないということか」
「だって……傷が残ったら、先生に責任とってお嫁さんにしてもらわなくちゃ、ならないです」
怒った顔のままで尚も槇を睨む。槇が片眉を上げた。笑っているような怒っているような、奇妙な表情をして、千鶴に手を差し出す。
「立ちなさい」
千鶴はその手につかまって、立った。そうして椅子に座った槇を見下ろす。
槇が手を伸ばして、千鶴の頬を拭った。大きな手のひら。こんなふうにまた槇に触れてもらえるなんて。
「おまえのそういうおもしろいところが、気に入っているんだ」
ぐっと顔が寄せられる。槇の顔が瞬時に近づき、そして、くちづけられた。
薄い唇に包まれるようにして、いつかと同じように触れられた唇は、ほんのりと煙草の香りがした。
「――忘れないでくれ」
離れた先の唇が動いて、槇の真摯な瞳が千鶴を真っ直ぐに見上げている。くっとそれが苦しげに閉じられる。
「他の誰に忘れられても、おまえにだけは憶えていてほしい」
感情のない、冷たいばかりの瞳だと思っていた。けれどいまや千鶴は、別の色をそこに見ることができる。
「鷲尾の訃報を聞いた時、俺はいつもただ忘れられていくだけの人間だと思い知らされた。けれどそれは……俺が自分から動かなかったせいなんだろう」
槇は淋しそうに微かに瞳を細めた。これは微笑だ。
腕が千鶴の腰に回された。そのまま引き寄せられて、抱きしめられる。
「俺を動かしたのは、若名、おまえだ」
「私……?」
心臓が鳴っているのは、もう走ったせいじゃない。
「――あのな。誤解がないように言っておくが、俺に大学に戻る決心をさせたのは、おまえだからな」
槇は複雑な顔のまま、困ったように眉根を寄せて、千鶴から視線を外す。
「生徒に手を出すわけにはいかないだろうが。それとも俺が何も考えずに誰彼構わずあんな行為をするように見えるか?」
千鶴は槇の言葉の真意が、わからなかった。わからないまま、首を振る。
「おまえの言った通り、俺は卑怯だったな。あの手紙を入れたのは……おまえに気づかれることを期待していた。おまえが自分で、俺の手の中に来ることを望んでいたんだ。あれは、俺からお前への手紙だ」
千鶴は目を見開く。槇は困ったように眉をしかめて、千鶴から視線を外した。
「卒業したら卒業しても、なんて勝手な理屈だよな。おまえ達は毎日変わっていくのに」
この2週間。たった2週間で、羽柴やマリに言われたように、千鶴は随分と変わったと自覚している。何も知らなかった。眠れない程の胸の切なさも、愛しさも、あんな熱が自分の中にあったことも。
「俺はいまの若名が、欲しい。1年先、卒業後のおまえじゃなく、いまのおまえが欲しい」
それは槇らしい、愛の言葉だった。
返事をするかわりに、千鶴は身体を屈めて、椅子に座っている槇に手を伸ばした。そして抱きつく。槇の肩口に顔を沈めた。一昨日、槇の部屋で強く爪を立てた槇の肩。
「頼むから、もう爪は立ててくれるなよ。傷が残ったら責任を取ってもらうからな」
顔をあげたすぐ隣の槇は、微笑んでいた。槇もこの2週間で、変わったと千鶴は思う。こんな風に笑うなんて知らなかった。
「先生も……あんまり、他の生徒に、そんな風に笑わないでください」
「笑う?」
槇のがぴくりと顔を上げた。そして千鶴の腕の下から手を伸ばして、自分の顔に触れる。そして息を吐き出して、いつもの憮然とした無表情に戻った。
「――これもおまえのせいだ」
その言い方があまりに槇らしくて、千鶴は苦笑する。けれどすぐにその笑顔を止めた。こうして槇にまた触れることができたのに、槇はすぐ、いなくなってしまうことに変わりはない。
「そんな顔をするな。……また妙な気分になる」
縋るように槇を見下ろした千鶴を、槇が抱き返して、膝の上に乗せた。
強く抱きしめられる。制服がくしゃりと皺を作った。
槇の頬が、千鶴の頬に触れた。ざらりとした髭の感触。眼鏡の冷たい温度。
「不安なのならば、俺の大学を目指せばいい」
「でも、まだあと1年以上あります。それに勉強だって、私大ならお金だって……」
槇の膝にまたがったまま、千鶴は槇を見た。
槇がまた少し、目を穏やかに細める。
「担任ではなくなるが、家庭教師にはなれる。それに」
家庭教師。毎日槇と会えるならばそれは嬉しいが、槇の授業の厳しさを身をもって知っている千鶴にとっては、それは魅力的とは言い難い。
顔をしかめた千鶴をよそに、槇は言葉を続ける。
「あの大学は、教員の子供は学費免除だそうだ。配偶者の場合は解らないけどな。……せいぜい教授でも目指すさ」
「ハイグウシャ、ですか?」
槇の言っている言葉がうまく飲み込めなくて、いっそう怪訝な顔をした千鶴を一度見て、槇は呆れた顔をした。
「まずは国語の強化が必要なようだ」
溜息混じりにそう言って、そして笑う。槇の顔が、近づいた。
千鶴は静かに瞳を綴じる。けれど唇が触れるか触れないかの瞬間に、あ、と短く声をあげた。
「先生、私、制服を着ています……けど」
「こういう時は、黙るものだ」
薄い唇がそっと千鶴の言葉を奪っていった。瞳の奥に映る夕焼けが、とろりと赤く溶ける。
槇がこの学校からいなくなってしまっても、自分がこの制服を槇の前で着ることがなくなっても、きっとこの夕陽の色を忘れない。
千鶴はそっと、槇の肩をつかんだ。
――傷が残ったら、責任取ります。
千鶴がそう言うと、槇はまた、おもしろいと、笑った。
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