呉ノ朱

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  六.  

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翌日の教室は、羽柴と千鶴が別れた話がもう広まっていた。
千鶴が目を腫らしていたので、周囲は羽柴が千鶴をふったのだと勝手に思っているようだった。
「千鶴……大丈夫?」
マリが振り返って千鶴をのぞきこんだので、千鶴は精一杯、微笑んだ。
クラスメイトが自分たちを見ていることを感じたけれど、千鶴はもう、そんなことはどうだってよかった。
昨日の槇の家でのことが、心に残っている。どうして自分はあんなことをしてしまったんだろう。槇を誘ったのは自分だ。そのことを千鶴は恥じていた。
「席につけ」
槇が教室に入ってくる。千鶴と目が合ったが、すぐにそれは逸らされた。そのことに、千鶴は自分でも驚くほど傷ついて、いた。
ホームルームの間ずっと、槇は千鶴のことを見なかった。



放課後、いつものように化学準備室へ行くのは少しの迷いがあったけれど、罰として言いつけられていた2週間は、今日で最後だった。
「……驚いたな」
ドアを開けた千鶴に、槇は目を見開いた。
「もう来ないと思っていた」
「だって、今日までの約束でしたから」
千鶴はごく自然に、微笑む。
「そう、だったな」
槇がいつもと同じように、椅子に座る。取り繕って見せても、胸の中は震えていたけれど、まだ唇には昨日の槇の感触が残っているけれど。
槇は相変わらず、千鶴のことを見なかった。槇もまた意識しているのかもしれない。
化学室はいつもよりずっと静かだった。けれど最初の頃のように、その沈黙にもう緊張はしていない。むしろ、槇と同じ部屋にいること、それだけでも嬉しいと思っていた。気持ちは変われば変わるものだ。
しばらくの静寂の後、先に声を発したのは槇だった。
「……羽柴と別れたそうだな。俺のせいか?」
槇が自分の隣へと、来ていた。千鶴は思わず心臓が止まりそうなほど驚く。
そして、首を振った。
「昨日のことが原因じゃ……ないです。昨日、先生と会う前に別 れました」
「そう、か。喧嘩でもしたのか?」
千鶴は少し黙った。そして、槇を見上げる。
「……好きなひとが、いるんです」
一瞬、眼鏡の中の槇が千鶴を見て、そして、スーツの内ポケットから煙草を一本取り出して、くわえる。
その仕草はごく自然なもので、千鶴は驚いた。
「先生、煙草吸うんですね」
「本来は家でしか吸わない。……嫌か?」
首を振った千鶴に頷いて、火をつける。昨日槇に触れられた時といい、こうして見ると、ごく普通 の大人の男のように見えて、千鶴は戸惑う。鼓動が少しずつ、早くなった。
「手紙を、拾ったんです。私の靴箱の隣に入っていて、誰からかわからなかったんですけど。そのことが気になって……先生の授業で寝てしまったり、しました。すみません」
ふぅ、と、槇が紫煙を吐き出す。空き缶に灰が落とされた。
「その相手が好きなのか?」
「そう思って……いたんですけど」
昨日までは、そう思っていた。槇の筆跡ではないと、気づくまでは。
けれど気づいてしまった今、あの手紙とは何も関係なく、槇に惹かれていたのだと千鶴はわかってしまう。
可笑しいと笑われるだろうかと槇を見たが、槇は空き缶に煙草を置くと、眼鏡を片手で外して、もう片手で目元を揉んだ。
「――やはり若名が受け取っていたのか」
その言葉に、千鶴は思わず身を乗り出した。槇が眼鏡をかけ直す。
「先生、だったんですか……!?」
「いや。俺が書いたものじゃない」
確かに筆跡は槇とは違ったが、どういう意味だろう。
眉を顰めた千鶴を、槇は真っ直ぐに見て、そして立ち上がった。引き出しから古びたノートを取り出す。そうしてそれを机の上に開いた。
「2年前の卒業生の化学のノートだ」
開かれたページは、ところどころ破られている。千鶴は自分の胸ポケットに入れてあった例の手紙をその破られた箇所にパズルのようにはめた。ぴったりと合ったその文章は、一連の詩のように見えた。

君が好きでした、とてもとても。
けれどもう、忘れてしまおう。
いずれ誰かのものになってしまう君を、美しいとそう思うのに、
心からそう思うのに、僕はもうどうすることもできない。
この手紙を、君はきっと読んでいないだろう。
だから今日も、こうして君を想う。
ただひっそりと、君を想う。
君が好きだ。君が好きなんだ。忘れられない。
忘れられないのは、誰かのものになってしまった君。

「どうして槇先生が……これ……」
こうして通して読むと、書かれているのは男の気持ちのように思えたが、字は女の字に見えた。
槇は空き缶に置いたままの、長く灰のついた煙草をまたくわえる。
「俺のクラスの生徒だった。その時のクラスは40人で……これを入れた靴箱を使っていたのが、このノートの持ち主だ」
千鶴はノートを一度閉じる。表紙に、鷲尾美奈子、と、書かれていた。
「――彼女は、俺のことが好きだと言っていた。だがそれは、高校という閉鎖空間での一種の熱病のようなものだ。勿論それ以上は何もないんだがな」
槇はどこか遠くを見ていた。その表情は知らない男のもので、千鶴はなんだか悲しくなってしまった。
「熱病……ですか?」
「ああ。証拠に、そう言ったところで卒業してしまえば、電話や手紙のひとつも来なかった。そういうものだろう」
本当に、そうなんだろうか。じゃあ今、こんなに胸が痛むのも、槇のひとつひとつの仕草に胸がときめくのも見とれてしまうのも、熱病なのだろうか?
「先生は、どうしてこれをあの靴箱に……」
「単なる、気まぐれだ。――訃報があってな。それで処分しようと思ったんだが、なんとなく、そうしたくなったのかもしれない」
訃報。槇の目が一度伏せられる。亡くなったのだ、この手紙を書いた彼女は。
千鶴はずっと槇を見ていたが、槇は千鶴を見なかった。
「返事が入っていた時はどきりとさせられたな。幽霊から手紙が来たのかと思った」
目を細めて、微笑んだ。それは千鶴に対しての笑顔だったのに、あまりに切なくて、千鶴は制服を握りしめる。
「先生は、その人のこと好きだったんですか……?」
槇の表情は、口振りは、まるで傷ついているように見えた。だからこんなに切ないのだ。
「良い生徒だったからな。誰からも好かれて……丁度、羽柴のような。好きか嫌いかと問われれば、好きだったのかもしれない」
胸を痛ませているのは、焦がしているのは嫉妬だった。自分とはきっと全然、違うタイプの人だったのだろう。
そのことが、こんなにも悲しいのは、槇を好きだからだ。
あんなことをされても、怖い思いをしても、それでもこの気持ちは少しも萎えてなどいない。
槇は煙草を空き缶に落として消す。ジュッという音。
一度空を見て、そして千鶴に目をやった。
「死んだと聞いて、悲しくはある。それが果たして教師としての感情なのか、恋愛感情だったかどうかは、俺自身よく解らない。……救いなのは、恋人と一緒に事故で死んだらしいということだ」
千鶴は俯いた。鼻の奥がツンとする。ようやく、理解した。
あの手紙は、千鶴に宛てたものじゃなかった。
槇であればいい、槇からの恋文であればいいと、いつしかそう思っていたのに、あの手紙は、槇からの、もういなくなってしまった彼女への手紙だったのだ。

――君が好きでした、とてもとても。
けれどもう、忘れてしまおう。
この手紙を、君はきっと読んでいないだろう。
君が好きだ。君が好きなんだ。忘れられない。
忘れられないのは、誰かのものになってしまった君。

好きだった。忘れてしまおう。もう絶対に読まれることのない手紙。誰かのものになってしまった、いまはもういない君。忘れられない。
あの靴箱を使っていた美しい字の彼女は、誰かと一緒に遠いところへと行ってしまった。あの手紙は、槇からのはなむけだったのだ。死者を悼むための。
――千鶴が、触れていいものでは、なかった。
「なぜ……若名が泣く」
「え……」
槇に言われて、千鶴は自分が泣いていることに気づいた。
涙が流れるのは、槇が涙を流さないからだ。そして悲しいからだ。槇を好きだと気づいてしまった。あの手紙は、自分のためのものではなかった。
「あの手紙が……先生からだったらいいなって、思ってました」
こんなに悲しいのは、報われない自分の恋が哀れだからかもしれない。
槇が立ち上がる。無言のまま、千鶴の隣に座った。噛みしめた唇がぶるぶると震えて、嗚咽が声に混ざる。
「槇先生が、私のこと好きだったらいいのにって……思っていました」
無言で、槇の手が頭に乗せられた。初めてこうされた時、もしかしたらあの時、千鶴は槇を好きになり始めたのかもしれない。
「――悪かった」
低くそう言って、いつかそうされたように、片腕で寄せられる。
ぎこちなく、肩に寄りかからせる手はやっぱりとても暖かくて、息が詰まるほどに胸が苦しい。
千鶴は槇の胸にしがみついた。シャツにしがみついて泣く。
謝らないで欲しかった。謝られることで、本当に自分の恋が死んでしまったことを思い知らされる。
羽柴も、こんな風に苦しかったんだろうか。自分を好きだと言ってくれた羽柴。それでも彼は、最後まで笑ってくれた。笑っていてくれた。
千鶴は槇から身体を起こした。両手で顔を拭う。きっとひどい顔をしているだろう。それでも顔をあげて、槇を見上げた。
「先生が悪いんじゃ、ないです」
精一杯微笑んだつもりだった。けれど自分を見る槇の瞳は心配そうに細められている。千鶴は袖でもう一度顔を拭って、手で髪を整えた。
――オレ諦め悪いから、まだ若名のこと好きでいるかもしれないけどさ。それくらい、いいだろ?
不意に、羽柴の言葉が浮かぶ。
思いは槇には届かなかった。けれど、だからといって千鶴の初めての恋が消えてなくなってしまったわけでは決してない。
千鶴は、微笑んだ。
「卒業しても、先生のこと好きだったら……その時はちゃんと、恋愛対象として私のこと見てください」
槇の表情が固まる。きっと意外な言葉だったに違いない。千鶴は元々積極的とは言い難い。
「おまえはほんとうに、おもしろいな」
ふ、と、槇は微笑んだ。優しい笑顔。あまりにも優しい笑顔で、胸が苦しい。
今日が終われば、もう二度とこんなふうに笑い合うことはないだろう。
槇の笑顔ももうきっと見られない。
胸が苦しくて、笑うことを突然やめた千鶴に、槇もまた真剣な顔になった。
「どうかしたのか?」
「いえ。今日で、最後だったなって思って」
窓の外はもう赤い。終わってしまう。あの手紙を失い、槇との時間まで千鶴はなくしてしまうのだ。
俯いて、一度ぎゅっと唇を噛む。見上げると、眼鏡の向こうの双眸が怪訝に千鶴を見ていた。
その言葉を伝えるのは、勇気がいった。けれど今言わなければ、きっともう一生、伝えることはできない。
「明日からはちゃんと、生徒に戻ります。だから、だから最後に……もう一度だけ、キス、してください」
最後は消え入るような声だった。頬が熱い。
沈黙が怖くて、顔を上げた千鶴の熱くなった頬に、大きな手があてられる。
「せんせ……」
槇の顔が再び近づく。
優しく、そっと押し当てられるだけのくちづけ。
触れたか触れないかのうちに、すぐに体温が遠くなる。頬から手が離れていった。涙が出てきてしまいそうだ。
きっともう二度と、こんなことはない。明日からはまた先生と生徒でしかない。
槇の腕が、千鶴を抱いた。抱きしめられた。
耳元で、槇の声がする。
「お陰で随分進んだ。礼を言うのはおかしいが……ありがとう」
頭に槇の手がのって、くしゃ、と髪が撫でられる。
千鶴は頷いた。もう泣かないと決めたから、必死で唇を噛んだ。
「それから……。昨日は、すまなかった」
くぐもった声でそう言われて、必死に堪えていた涙がぽつりと少しだけ、制服のスカートに染みてしまった。
覚えておこう。いつか槇のことを好きでなくなっても、他に誰かに恋をすることがあっても、この教室で、初めて恋をしたこと。
忘れたくない。
あなたのことが好きでした、とてもとても。
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