呉ノ朱

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  五.  

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校内は、もう誰の姿もなかった。
ぽつんと、2階の奥の化学室の電気だけがついていた。
ドアをそっと開ける。槇の姿はない。
音を立てないようにして、机の上を見た。いくつかの実験記録が記されたノートと、パソコン、ビーカーなどが混在している。
胸から手紙を取り出して、実験記録のノートの文字と照らし合わせた。
心臓が、痛いほどどきどきと鳴っている。
指で、ノートの槇の文字をなぞった。急いで書いたような、荒削りだが美しい日本語。
そして、千鶴は息を吐いた。

――明らかに、筆跡は違っていた。

槇が書いたものでは、ないのだ。
そのことに、千鶴は自分でも驚くほど落胆していた。手紙を胸にしまう。
あんなに大切だったこの恋文が、途端に色褪せてしまうような気さえする。
「若名……?」
ドアが再び開いて、槇が立っていた。
「あ、あの、すみません。忘れ物を……」
声をかけられたことに驚いて、咄嗟に手をついた実験棚で、何かに触れた。
ガラスがガシャン、と落ちる音。
「危ない!」
「きゃ……っ!!」
制服の胸部分に、棚から落ちる時に零れた液体がついた。槇が俊敏な動きで千鶴に駆け寄る。瓶は床に落ちて砕けた。ツンと鼻につく刺激臭。
槇は素早くしゃがんで、その薬品のラベルを確認すると千鶴の腕をつかんだ。
「早く水で流せ!」
制服の胸についてしまった液体が染みこんで、肌に触れる。チリチリという刺激があった。奥の水道へと引っ張られる。
槇が制服のリボンを乱暴に解き、ワンピースのボタンを胸あたりまで外した。
ブラジャーが露わになったが、そんなことを気にする意識は、千鶴にも槇にもない。
肩口まで肌を露出させられて、流水に押しつけられる。
「つめた……っ」
「我慢しなさい」
立ったまま、水道に身体を突っ込むようにして肩口から、胸へ、そして制服を濡らしていく。太腿にまで水が伝った。
「……もういいだろう、見せなさい」
蛇口をひねり、槇が千鶴を自分の方へと向かせる。その時初めて、千鶴は自分の上半身がほとんど裸のような様子であることを思い出した。
白いブラジャーは濡れて透け、肌の色が浮き出ている。
けれど槇はそんなことに構う様子もなく、冷たく濡れた千鶴の鎖骨の下あたりに顔を近づけた。
ごつごつとした指が、肌を滑る。触れられて、軽い痛みがあった。軽度の火傷をした時のような痛み。
「赤くなってしまっているな……」
「せ、先生、恥ずかしいです」
薬品がかかったワンピースの制服の上着はおろか、スカートまで片側はじっとりと濡れてしまっている。そして裸の肌を見られ、撫でられている。
こんなことは今までなかった。
紅潮し、俯いた千鶴の言葉に、槇はようやく悟ったようだった。
「……仕方がないだろう。それよりも、硫酸や塩酸でなくて良かったと思いなさい」
そんな薬品はあんな場所には置かないが、と続けて、槇は後ろを向いた。
千鶴は濡れた制服を持ち上げる。いまは冬ではないとはいえ、こんな格好では電車に乗って帰ることなどできない。何より風邪をひいてしまいそうだ。
槇が、千鶴に背を向けたまま白衣を手渡した。
「とりあえずこれに着替えなさい。風邪をひく。……一旦、俺の家に寄って服を乾かしてから帰ればいい」
「先生の、家ですか?」
槇は立ったまま、こちらを向こうとはしなかったので、千鶴は急いでもう片方の肩も制服から抜くと、白衣に袖を通 した。前のボタンを止め、そして足から制服を抜き取る。
素肌に白衣だけを着た状態では、どうにも心細かったが、風邪をひくよりはずっとましだろう。
「御両親には俺から連絡する。それより、何もなくて良かった」
槇の声が優しかった。その槇にしては珍しい優しい声に、千鶴は胸が痛い。
あの手紙をくれたのは、槇じゃない。どうしてそれがこんなにショックなのかわからないけれど、胸がどうしようもなく痛んだ。



槇の家は、学校から車で10分ほどのところにあった。見知った街の景色。千鶴と同じ街に、槇は住んでいるのだ。
2LDKのマンション。通されたリビングは、いかにも槇らしい、モノトーンの殺風景な部屋だった。蛍光灯ではなく、所々に置かれた間接照明の灯りだけでぼんやりと暗い。
「そこのソファーに座っていなさい。俺は洗濯して乾燥機にかけるから」
「はい」
白衣のまま、黒い革張りのソファーに腰を下ろす。槇が自分の制服を持ってバスルームらしき場所に行くのを見て、千鶴ははっとした。
「先生、待ってください!ポケットに……っ」
駆け寄って、槇の背中にぶつかる。槇の大きな手の中に、あの手紙があった。
槇はそれを開いて、そして千鶴を振り返った。
「これは」
「あの……」
何て説明すればいいだろう。千鶴は白衣をぎゅっと握る。
黙ったままの千鶴に、槇はその手紙を渡して、制服を洗濯機に入れた。ゴウン、と音がして、洗濯機が震える。
「1時間ほどかかる。ソファーにいなさい」
千鶴は頷いてリビングへと戻る。ほどなくして、槇もリビングへと戻ってきた。
「念のため、手当しておいた方がいいだろうな」
キッチンの上につけられた戸棚から、小さな箱を取り出す。救急箱のようだった。そしてそれを手に、ソファーのところまで来て、跪いた。
「……見せなさい」
身体を強ばらせた千鶴に反して、槇は表情を変えずに白衣に手をかける。別におかしなことをされるわけではないのに、身体が熱くなった。
白衣のボタンが二つほど外されて、さっき、化学室でそうされたように下着が見えるほどに開かれて、槇が顔を近づける。
「火傷には至らなかったようだ。今後、気をつけなさい」
「すみません」
千鶴は羞恥から、槇の顔が見れない。いま触れられたら、きっと大きく鳴っている鼓動が解ってしまうだろう。顔を曇らせている千鶴を、槇が見上げた。
「そうじゃない。身体に傷でもついたら、嫁の貰い手に困るだろう?」
ふ、と、視線が和らぐ。その微かな笑顔に緊張がほぐれて、千鶴もつられて微笑んだ。
「そうしたら、先生に責任もって、お嫁さんにしてもらいますから」
「――俺の?」
冗談のつもりで言った言葉だったのに、槇が驚いた顔をする。そして視線を降ろし、救急箱を開けた。中から精製水のボトルと脱脂綿を取る。
「好きでもないが嫌いでもない相手でもいいのか?」
濡らされた脱脂綿が肌に触れて、その冷たさに身体がびくりと震えた。
「好きでもないとは、言ってませ……んっ……」
うっすらと赤くなってしまった肌は熱を持っていて、その冷たさが心地良い。けれどその心地よさよりも、槇に触れられていることに身体が震える。
槇が顔を上げた。千鶴と視線が絡んで刹那、槇の指がブラジャーを摘んだ。
「これも濡れてしまっている。脱ぎなさい、風邪をひく」
「でも」
千鶴は冷たいその下着に触れた。白い布は水分をふくんで、肌を透かせている。……これを取ってしまったら、槇に裸の胸を見られる。
ためらいはあったが、身体をひねって槇から見えないように、フロントのホックを外した。
慎重に、白衣の中で肩から紐を外してブラジャーを脱ぐ。それを小さくまとめて、白衣の前を隠しながら槇に手渡した。
槇は無表情のままそれを受け取り、そしてまたバスルームへと消える。
千鶴は白衣の襟を強く握った。裸だ。槇の部屋で、白衣とショーツだけを身につけただけで、槇とふたりきりでいる。
そのことが、部屋に響いているのではないかというくらい、自分の鼓動を大きく鳴らせる。
タオルを手に戻ってきた槇がまたすっと自分の目の前にしゃがんだ。下から見上げられるガラスの向こうの視線は、学校で見せるものと変わりがない。
そのことが、悔しい。
自分はこんなにも胸を高鳴らせているのに、槇にとっては結局、生徒以外の何者でもないように思えて。
「……そんなに緊張するな。ただ治療するだけだ」
槇の手が、白衣の襟を掴んで開いた。裸の胸が露わになる。濡れタオルが、肌に押し当てられる。冷たい。
「あ、ん……っ」
「そう変な声を出さない」
自分の胸のすぐ前に槇の顔がある。少し身体を傾ければ、あたるほどのすぐ近くに。タオルが離され、指が肌に沈む。
「せ、せんせ」
「しばらくは少し痛むかもしれないが、劇薬ではない。病院に行くほどではないだろうな」
違う、千鶴が思っているのはそんなことではない。もっとずっと、性的な考えが、あまりに早い鼓動に混ざってぐるぐると浮かんでは消える。
触れられたい。
「せんせい……やらしい……」
「あのな」
いやらしいのは自分だ。呆れた声を出した槇が、顔を歪める。
「言っておくが、この家に入れたのも、こんなことをしたのもおまえだけだ。それに何かするつもりならとっくにしている。人聞きが悪い」
槇がすっと手を引いた。その熱が去るのが惜しい。千鶴はもう、白衣の襟を寄せなかった。裸の胸が槇の前で露わになっている。
「何もしないのは、私が生徒だからですか?」
「そうだ。――俺だって男だからな」
含みのある言葉だった。千鶴は喉がからからに渇いてしまっていることに気づく。握りしめた手は、汗ばんでいた。
「でも、でも私、いま、制服を着ていません」
何を言おうとしているんだろう。槇に。槇の部屋で。けれど口をついて出る言葉は止まらない。
「ここは学校じゃなく先生の家で……私は、生徒なんて名前でも、ないです」
小さくそう言って、槇の手を見つめる。この大きな手がさっきまで、慎重に自分の肌に触れていた。触れられたい。もっと。
「そういうことを、他の教師の前では言うなよ。これは忠告だ」
しばらくじっと千鶴を見たまま、一度息を吐き出して、槇は救急箱に精製水をしまう。視線を外してしまった。
生徒、教え子、担任、教師。そんな記号のような、使い古された言葉で簡単に片づけられてしまう自分が哀しい。
千鶴は立ち上がった。そして、白衣の裾をそっと持ち上げる。
太腿が露わになったあたりで、怪訝に見ていた槇がまたぱっと顔を逸らす。
何を考えているのと、頭の中で声がする。それでも指は止まらない。
白衣の下で、ショーツを降ろした。ショーツもまた、さっき水道でかかった水で湿っている。
それを足から抜き取る。そしてまた、ソファーに座った。
「先生、これも一緒に洗ってください」
手の中に握りしめたそれを渡そうとしたが、槇は受け取らない。
「自分で入れてきなさい」
冷たい声。きっと呆れられてしまった。胸の中がどろどろと渦巻いている。こんな感情、知らなかった。
「きゃ……っ!」
再び立ち上がったところで、震えていた足がもつれて、槇にぶつかって床に転んだ。カシャン、と、槇の眼鏡が床に落ちる。
「ご、ごめんなさい」
慌てて手を伸ばして、眼鏡を取る。割れてはいないようだった。
顔を上げたすぐ近くに、覆い被さるようにして槇の顔があった。
初めて見る、眼鏡をかけていない槇の素顔。
見とれるほどきれいな顔だと、千鶴は思わず我に返る。なにを、考えていたんだろう。はずかしい。ようやくいつもの理性が戻って、千鶴はカッと顔が熱くなった。
「本当におまえは……」
低い声でそう言った槇の視線が、千鶴の胸あたりでぎくりと止まった。
大きく開いた白衣の胸元から、裸の身体がのぞいている。千鶴は小さく叫んで慌ててそれを直そうと、した。
その手を槇が掴む。
「――忠告はしたな」
槇の身体が千鶴の上にゆっくりと乗る。掴まれた腕を頭の上へと運ばれた。また眼鏡が、床にあたる。
「せんせ……」
千鶴は急に怖くなった。槇に組み敷かれている。さっきまで触れられたいと思っていたのに、槇の体重に、手首を固定している力に、身体が震える。
けれど槇は険しい表情のままで、片手で千鶴の腕を固定しながら、片手で頭を抱いた。
「こういう時は、黙るものだ」
槇の顔が近づいてくる。千鶴はぎゅっと目を瞑った。
暗くなった瞼の奥で、肌で、体温を感じる。
カチ、と音と冷たい感触で槇の眼鏡のフレームがあたった。
そして、唇に柔らかい感触。
「ん……っ」
ぞくりと感電したような感覚がそこから走る。
薄い唇が千鶴の唇を包んだ。一度軽く開いて、そして下唇を摘まれるように触れる。胸の奥が痺れるように甘い。
千鶴はうっすらと目を開けた。槇の端正な顔が、あまりにも近くにある。教師の顔ではもうない。
きっと誰も、こんな槇の姿を見たことがないに違いない。
それはとても、誇らしい気持ちだった筈なのに。
「や、……っ」
もう一度、槇の唇が押し当てられる。ざらりとした舌が、唇を割って入ってくる。千鶴の舌に絡められ、ねぶられる。
頭を抱えていた手がすっと、首筋に、そして胸へと流れていく。
ぞくぞくと震えが走って、身体が小刻みにわなないた。
「羽柴とも、こういうことを?」
離れた唇が低く言った。千鶴は胸に触れた槇の指の動きに喘ぎながら、必死に首を振る。
羽柴という名前に、千鶴は心が痛む。槇を見た。羽柴に感じる穏やかな気持ちではない、言葉にはできない切ないような感情を、槇を見るたびに感じる。
どうして羽柴ではだめなのか、槇にそれを感じるのか。
キスさえも、初めてだった。その時があるなど、噂話では知っていても想像もできない。
白衣の胸が大きく開かれて、素顔の槇の瞳が左胸の傷で留まった。体温がそこに移動する。舌の先端が、熱を持ったそこに触れた。
「い、いたい……です……」
「警戒心が薄いから、こんなことになる」
ぴちゃ、と、舌が傷をなぞった。こんなこと、というのは、この傷のことだろうか。それとも。
「あ、あっ……」
つぅっと肌を降りて、その下にある突起に達した。唇で覆われる。
乳首を含まれながら、舌で転がされる。軽く歯が立てられて、千鶴は顎を仰け反らせた。
「やっ、やぁ……っ!」
ぞくぞくと身体を熱が走っていく。足の付け根の、自分でも滅多に触れない場所がじんと痺れる。槇の重みで息苦しいのに、その重さが泣きたいくらい嬉しく思えるのはなぜだろう。
「せんせ、い……」
小ぶりな胸は、槇の手の中にすっぽりと収まってしまっている。片方を口で弄ばれ、そしてもう片方を指で転がされる。その指がまたつ、と、下がっていく。
「先生と呼ぶな。生徒じゃないと言ったのはおまえだろう?」
白衣の裾が持ち上げられて、手が太腿に触れる。千鶴は思わず身じろぎをした。
怖い。槇の手が太腿を滑って、裸のままの秘所に伸びてくる。
そして薄い茂みに指先が達した。そこはじっとりと湿って、槇の指を濡らす。
「あ!あっ……」
キスなんか、何の比較にもならない程の強い刺激だった。ぴりぴりと短く繰り返す電流のように、今まで知らなかった感覚が込み上げる。
薄く開けた目で、すぐ下にある槇を見た。槇はまるで千鶴の反応を楽しむように見上げている。その表情にぞくりとした。
こんな目をした槇を、知らない。
「いやらしいのは、誰だって?」
ぴちゃ、と、水が跳ねるような音が聞こえた。それは槇の指が自分の蜜壺に指を差し入れたからだ。
「ひっ、あ、あっ!」
「この音は何だと思う?」
喘いだ千鶴の胸に、槇の熱い息がかかる。指がまたぐっと押し込まれた。
圧迫感と痛みに千鶴は手を必死に抜き取ろうと藻掻く。
「おまえの身体が立てている音だ」
「いや、や、やあっ!」
わざと音を立てるようにして、槇が指を抜いた。その音と、槇の言葉が羞恥心を煽って、千鶴の愛液が付着したそれを口の中に押し込まれた。
舌でそれをしゃぶらされる。自分の体液の、味。涙に似ているようなそれをわけもわからずに舐め取る。
「もう遅い」
熱に浮かされたような槇の顔が、自分を見下ろしている。その唇がまた近づき、千鶴の唇を塞いだ。
少し口腔を舌が撫でていってから、槇がシャツを乱暴に脱ぎ捨てた。薄暗い間接照明の中で裸になった槇の身体は、想像していたよりもずっと逞しい。
そのまま槇がスーツのパンツに手をかけた。ジッパーの下げられる音。その隙間から、槇が何かを取り出す。そして千鶴はひっと叫んだ。
身体を少し起こした槇が、片手でそれを握る。そして千鶴の足の間に近づいて来る。
「いや、いやっ……!」
初めて見るそれはあまりに大きくて、突然恐怖に襲われた。あんなもの、入るわけがない。身体をひねるが、体格が違いすぎてとても逃れられない。
槇の手が、千鶴の手を離して、口を塞いだ。
「んっ!んんんっ!」
自由になった手で、槇の肩を押す。それでも槇の肩は少しも揺るがなかった。
さっきまで指が触れていた秘所に、指ではない、熱いものがあてられる。
叫びたくても、槇の手は強く千鶴の口を押さえていて、どうすることもできない。
ぬる、と、スリットを槇のものが滑った。茂みに隠れるようにしてあった突起を撫でられる。その度に、恐怖とは裏腹の快感が千鶴を襲う。
「ん、あ……んっ」
触れられたいと思っていた。槇の指が肌に乗るたびに気持ちが良くて、もっと、と。けれどその先に何があるかなど、千鶴は知らなかったのだ。
槇の手が千鶴の膝を掴んで広げた。そしてぐっと腰が近づけられる。槇のそれが、強く、押し込まれてくる。
「ひっ、ひ……っ!!」
千鶴は思わず槇の肩に爪を立てた。無理矢理に自分の身体が開かれる痛み。
「まだ、先端だけだ」
槇もまた苦しげな表情をしていた。言葉に喘ぎが混ざる。
千鶴の目の端に、涙が浮かぶ。槇の手が千鶴の身体の横に置かれ、そして近づいてくる身体が黒く影になる。
「ま、き……せんせ……っ!」
思わず名前を呼んだ。すると、もう一度押し込まれようとしていた槇の動きが止まる。千鶴はそうっと目を開けた。槇の表情から、熱が失われていく。
「…………」
槇が身体をひいた。自分の身体の入り口にあった痛みを与えていたそれが抜かれる。
「先生……?」
突然放り出されて、千鶴は槇を見上げた。ジッパーの音。そして槇は床にさっき投げ捨てたシャツを羽織った。
「――これに懲りたら、もう二度と、他の男の前であんな顔をしないことだ」
ふ、と、槇の顔が唐突に上がった。転がっていた眼鏡を拾い上げて、身体を起こす。白衣の前が、さっと閉じられた。
「傷が残ったら、羽柴にもらってもらえ」
槇は床に寝たままの千鶴を残して、立ち上がる。そして振り返らずにバスルームの方へと歩いていってしまった。
あまりにも突然に解放されて、千鶴もゆるゆると身体を起こす。眼下に、さっき自分が脱ぎ捨てたショーツが転がっていた。
それを見つけた途端、急激に羞恥心が蘇って、千鶴は慌ててそれを拾った。
痛いのは怖い。さっきまでの槇も知らない男のようで、学校でとは違う怖さがあった。けれど、あまりに突然に見捨てられたように思えて、千鶴は自分の身体を抱きしめた。


車で送ると言った槇の申し出を断った。槇の家は、千鶴の家から徒歩で5分ほどだ。わざわざ送ってもらうほどの距離ではない。
きっともう二度と、この部屋に来ることはないんだろう。
そして、あんなふうに、槇に触れられることも。
「色々と……すみませんでした」
一言そう言って、会釈をするとドアを開け、駆けだした。
最後まで、槇を見なかった。

しばらく走って、そして駆けていた足を止める。
指先で唇にそっと触れた。
……初めて、キスをした。初めて身体に触れられ、そして、未遂ではあったけれど……身体の中に槇を感じた。
唇が震える。さっき止まった涙が、また頬を流れた。
――そのうち、誰かを好きになることがあるかもしれない。それともいつまでも槇のことを忘れられないかもしれない。
胸が空虚だった。ポケットに入れたあの手紙はもう色褪せてしまった。
さっきまではあんなに暖かかった、槇に乾かしてもらった制服が、今はとても冷たかった。
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