呉ノ朱

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  三.  

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「悩みごとは解決したのか?」
その声に振り返ると、槇が自分を見上げていた。槇を見上げることはあっても、槇に見上げられることは今までにない。
「先日とはうってかわって顔が晴れ晴れしい。それとも何かいいことでも?」
「え、ええと……」
言葉に詰まる。いいことといえば、いいことなのかもしれないが、あの手紙のことを槇に話したところで一笑に付されるにきまっている。
「ちょっと、解決しました」
千鶴は微笑んだ。槇は眼鏡の向こうで目を細めて、ふむ、と鼻を鳴らす。
「君の年代ならば、大方恋の悩みといったところだろう」
槇がくるりと背を向ける。チャコールグレーのスーツの背中を、千鶴は見つめた。肩の向こうに、白く骨張った大きな手が見える。その左手に指輪はなかった。浮かんだのは素朴な疑問だ。
「槇先生は、彼女とかいないんですか?」
「――なぜそんなことを訊く?」
冷たい声だ。なぜと問われても、思いつきだとしか答えられない。
「なんとなく、です。先生がどんな風に好きな女の人と接するのか、想像とかできなくて」
また失言だったかもしれない。槇は黙ってしまった。
大きな背中が、千鶴のすぐ目の前にある。自分の頭にぽんと手を乗せた時のように、あの大きな手で誰かの頬に触れたりするんだろうか。
「想像など、しなくていい。年齢から言っても君よりは経験があるが、別 に誰かに話すようなことでもあるまい」
「はい。すみません」
千鶴は素直に謝った。訊いたところで槇が答えてくれるとは思っていなかったけれど、槇も他の皆のように、誰かを想ったりするのだということは意外だった。
それきり、また化学準備室は静かになった。ガラスの触れあうカチャカチャという音だけが時間を長く感じさせる。
ふいにその音が止んだ。千鶴が振り返ると、槇の手が止まっていた。
「若名は、いるのか?」
「何がですか?」
槇はこちらを見ていなかったので、千鶴は踏み台から降りる。
「そういう相手だ。そのことで悩んでいたんだろう?」
くるりと椅子を回転させて、槇が自分を見上げている。それは図星に違いなかったけれど、千鶴は言葉に詰まった。
恋の悩みといえば、そうなのかもしれない。けれど、果たして顔も見たこともない手紙の相手に対する気持ちを、恋と呼べるのか、悩みと呼べるのかわからないので、何とも答えようがなかった。
「……別に誰かに話すようなことでもありません」
ふふ、と、千鶴は笑った。槇の顔が一瞬、驚いたものになって、そしてゆっくりと、微笑んだ。昨日のものとは違う、口端だけではない、笑顔と呼べるようなもの。
「おまえはおもしろいな」
花が開くようだと、千鶴は思った。そんな表現を男性に使うものかはわからないけれど、たった一瞬、槇が見せた笑顔にまた胸がどきりと鳴る。
君ではなく、おまえと槇は自分を呼んだ。槇は厳しい教師だが、絶対に生徒を侮るようなことはしない。そういう意味では嫌われていても尊敬される教師ではあった。その槇が、自分におまえ、と言った。
なんだか自分が、ただの記号としての生徒ではなくなって、槇とふたり対峙している人間同士になったように思えて、また胸がドキドキとする。
昨日の槇との会話を、なんとなく思い出した。思い出して少し笑う。
「――嫌いではないです」
微笑んだまま、千鶴は言った。槇が怪訝な顔をして首を傾げる。
「槇先生のこと。嫌ってないですよ」
そう言った千鶴に、槇はまた、あの眼鏡を直す仕草をしてみせた。


昇降口に向かうと、人影があった。羽柴だ。
羽柴は千鶴に気づくと、手をあげて笑った。
「今日はオレの方が終わるの、早かったね」
「待っててくれたの?」
一緒に帰る約束をした覚えはない。けれど千鶴が羽柴の横を通り過ぎると、羽柴はああ、と返事をした。
駅までは歩いて15分ほどだったから、一人で帰るよりも二人で帰る方が楽しい。羽柴が靴箱からスニーカーを取り出して、先に床に置く。
若名も自分の靴箱に手を伸ばそうとして、そして顔を上げた。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるから……門のところで待ってて?」
咄嗟についた嘘だったが、羽柴は頷いて、先に昇降口を出ていく。
その姿が完全に見えなくなったのを確認して、若名はいつものように隣の靴箱を開けた。
そこにはもう、何もない。
好きだという手紙が自分の靴箱に入っていたのは昨日のことだ。
自分はその返事を書いていない。だからもう手紙が入っていないのだろうか。
それでもどことなく物足りないような気持ちを残して、千鶴は羽柴の待つ門の方へと急いだ。
門の周りには、部活を終えた生徒たちがいくつかのグループになって帰っている。それに混ざりながら、羽柴と並んで歩く。
と、後ろから来た自転車が通り過ぎながら、羽柴に向かって笑う。
「なんだよ、彼女いるんじゃんかー。紹介しろよ」
そう言って、どんどん遠ざかっていってしまった。サッカー部の仲間だろうか。
羽柴はバーカ、と大声でその背中に声をかけて、千鶴を見たがふ、と目を逸らしてしまった。そして黙る。千鶴もなんだか恥ずかしくなってしまって、そのまま並んで喋らずに歩いていた。
周囲にあれだけいたはずの他の生徒の姿がまばらになり、いつしか細い道で、ふたりきりになってしまった。静けさが重い。
何か喋らなければ、と、口を開きかけた千鶴を、隣の羽柴が見た。
「あの、さ。……手紙、読んでくれた?」
「手紙……?」
千鶴は思わず目を見開く。羽柴は困ったように俯いていた。その頬が赤く見えるのは、夕焼けのせいではない。
「あれ、羽柴くんだったの?」
千鶴は突然、胸が鳴る。自分が受け取った、3通のノートの切れ端。昨日入っていた好きだという文字。
こんなにもあっさりと、その主が見つかるなんて。
「オレ、1年の時からずっと、若名のこと好きだった」
羽柴が立ち止まる。真っ直ぐな瞳が自分を見ている。その視線に、胸がぎゅうと締めつけられて、息が苦しい。
「言わないでいようと思ったんだ。友達のままでもって……。でも、やっぱり好きだ」
信じられない。羽柴が、自分を好きだと言う。明るくて、人気もあって、ファンも少なくないこの羽柴が。
「若名がオレのこと好きじゃなくても構わないから、一緒に、いてほしいんだ」
誠実な告白だった。初めて受ける愛の告白。
千鶴は言葉に詰まった。あの手紙の主が羽柴だとわかって、嬉しいような、がっかりしてしまったような複雑な気持ちがある。
羽柴を見た。すっとした鼻梁と、大きな瞳。クラスの中でも、羽柴ほどの容姿に恵まれた男子は他にいない。
「…………好きじゃ、なくても……?」
嫌いではない。友達としては好きだ。けれどまだ千鶴には、恋など遠い世界のことだと思っていた。
呟くように千鶴が言った言葉に、羽柴は静かに微笑む。
「そりゃ好きだったら嬉しいけどさ。――いいよ。そのうち好きになってもらうから」
羽柴らしい、明るい声。羽柴が歩き出して、自分を通り過ぎた。後ろに手が、伸ばされる。
「つきあってもいいって思うなら、手、繋いでよ。ダメならオレこのまま先行くからさ」
そう言って、振り返らずに羽柴は先を歩く。千鶴は慌ててそれに続いて、並んで、そしてためらった。
羽柴のことは嫌いじゃない。でも……。
なぜか、ふと槇の姿が浮かんだ。どうしてこんな時に、槇のことを思い出すのか自分でもよくわからないけれど、あの笑顔が浮かんで胸がまたちくりとする。
そんなことを考えているうちに、羽柴はどんどん先へと歩いていってしまう。迷っていた。恋なんてまだわからない。わずかなときめきを感じただけだ。
あの、手紙に。
千鶴は一度勇気を出すように目をぎゅっと閉じて、そして、羽柴の手を握った。
「わっ」
羽柴が声をあげてよろける。そして千鶴の目を見た。笑う。
強く、手が握りしめられた。引っ張られて、身体がぶつかる。
「やった」
羽柴は嬉しそうに目を細めて、満面の笑顔を見せた。その笑顔に千鶴はどきりとする。
――好きに、なれるかもしれない。
強く握られた手は、暖かかった。その温かさのように、じわりと胸が熱くなる。
大きな交差点に差し掛かって、ビルが途切れる。
その向こうに大きく細くなった夕陽が眩しかった。
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