呉ノ朱

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  二.  

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寝不足も二日目となると本当に辛い。
槇の授業だけは、と、必死に眠気を抑え込んだが、何度も波のように襲ってくる眠気よりも千鶴がさいなまれていたのは、罪悪感だった。
手紙を返すべきだ。わかっているのに、それでもポケットの中に隠した2通のノートの切れ端は、何故だかとても大切なものに思えて、あの靴箱に置いてくる気がしない。
それにあの文面だと、手紙を書いた誰かは、手紙を出した誰かに、片思いか、もしくは別 れた後のように思えた。
今自分がこの2通を戻したりしたら、想いを突っ返されたと思われるのではないだろうか。
黒板に向かって、槇が教科書を持って何かを言っている。でもそれは少しも耳に入ってこない。
ふと、視線を落とした先に黒板をひたすらに書き写している自分のノートが目に付いた。そうだ、と、千鶴は思う。
自分も手紙を書いて、あの靴箱に入れておこう。
それは名案だと思ったけれど、いざシャープペンシルを手に取ると、良い文章が浮かんでこない。
一文字書いては消し、また書いては消す。

あなたの手紙を読みました。あなたは誰ですか。
誰のことが忘れられないんですか。


ようやく書けたのは、そんな文章だった。これなら相手が手紙が想い人の手に渡ってはいないのだと気づかせることもできるし、千鶴の名前を書かなくても、もし返事がもらえるならば自分に宛てられたものかそうでないのか判断できるはずだ。
よし、と頷いて、ノートを破ろうと手をかけた時、手元が随分と暗くなっているのに気づいた。
見上げると、立っていたのは黒い影。
「楽しそうだな、若名」
「ま、き……せんせ……」
いまが化学の授業中など、きれいに頭の中からなくなっていた。
槇の眼鏡がきらりと蛍光灯に光る。手に持った教科書を、トン、トン、と肩にあてた。その動きに、千鶴の全身から血が引いていく。
「放課後……化学室、ですね……」
「正解」
槇は千鶴を一瞥して、踵を返した。千鶴は一度きつく、目を閉じた。



「次はないと言ったはずなんだがな」
「はい……。確かに聞きました」
昨日とまったく同じ光景だ。化学準備室の中央にある自分の机の前で、槇は足を組んで座っている。
蛇に食べられる直前の蛙はこんな気持ちだったのかしらと、千鶴は必死に目の前の恐怖から逃避しようとしていた。
「そんなに嫌ならば、俺の授業に出なくても一向に構わない。嫌いなのは化学か俺なのかは知らないが」
「ち、違います!」
化学も槇も確かに得意とは到底言えないが、そんな理由で昨日も今日も、授業に集中できなかったわけでは決してない。
首を振った千鶴に、槇は無表情のままで一度首を傾げた。眼鏡の奥の双眸が細くなって、千鶴の言葉を待っている。
「悩みごとが、あるんです。それで、授業に集中していませんでした。すみません」
嘘ではない。いつもより小さな声でそう言って俯いた千鶴に、槇は悩み、と、千鶴の言葉を反芻する。
「これでも一応担任だ。話せる悩みならば、聞くが」
千鶴は一度槇を見て、けれど首を振った。あまりにもくだらないことだろう。ましてや千鶴は泥棒だ。そんなことで、と、よりいっそう叱られることは想像に容易い。
「ならばいい。それより、これで二度目だ。しかも連続して。……相応のペナルティが必要だな?」
「はい」
千鶴の気持ちが、どんどん暗くなっていく。槇が椅子から立ち上がり、窓の方へと行った。補習だろうか。それとも化学の教科書を全部写 すとか? 沈黙した槇の大きな背中を見ながら、想像だけが膨れあがっていく。
「――明日から二週間、俺の実験の手伝いをしてもらう」
「実験て、人体……!?」
恐怖が頂点に達して、想わず千鶴は小さく叫んだ。その声に振り返った槇の眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれる。
片手が、顔を覆った。眼鏡を持ち上げるようにして、槇が黙る。背後から差し込む光で逆光になって、槇は本当に死神のように見えた。
「馬鹿なことを言うな。君たちが俺のことをどう噂してるかは知らんが、人体実験もしなければ改造もない。ごく普通 の、俺の研究の手伝いだ」
千鶴の身体から、力が一気に抜けた。パイプ椅子に崩れるように肩を落とす。
しかし、冷静になって考えると、二週間。二週間も放課後、この化学準備室で槇と二人きりなのだ。それは人体実験や改造と大差ないようにも思える。
「返事は?」
「は、はいっ」
千鶴は立ち上がった。それでも自分に選択肢などないのだから。
わかったら帰りなさいと言って、槇はまた窓を向いてしまった。その背中に一礼してドアを閉めると、千鶴の両足から力が抜けて、廊下にしゃがみこむ。
と、ポケットの中でくしゃっと何か音がある。ハッとした。化学の時間、書いたあの紙を、千鶴はポケットの中に入れていた。
壁につかまるようにして立つと、薄暗い廊下を抜けて、下駄箱の並ぶ昇降口へと向かった。

「今日は……ない、か」
靴箱に、手紙は入っていなかった。もしかしたら二人の間で、別の方法で連絡がついたのかもしれない。千鶴が槇に怒られてまで書いたこの手紙は、もう要らないだろうか。
靴箱を開けたまま考えていると、ざわざわと誰かがこちらへ近づいてくる音が聞こえた。慌てて千鶴は、自分の書いた手紙を投げ込むように靴箱に入れて、扉を閉める。
タイミングを合わせたように、角からクラスメイトが二人、姿を現した。
「若名さんじゃん。無事だったんだ」
あはは、と笑って彼女は自分の靴箱からローファーを取り出す。そして千鶴の背後を通 り過ぎた。
「化学ロボットに襲われちゃったりしないようにねえー」
「それ最悪。顔が良くても、なんか変な趣味とかありそうじゃない?」
しゃがんだままの千鶴をからかうように、二人は笑いながらそんなことを話し、強い香水の残り香だけを残し、手を振って彼女は昇降口を出ていった。
「最悪って……」
嘲られたのが悔しくて、千鶴は唇を噛む。
ちら、とさっき慌てて手紙を入れてしまった靴箱を振り返った。
もう一度開けて、自分の手紙を取り出す気力は、残ってはいない。
――彼、または彼女は、あの手紙を読むだろうか。返事を、くれるだろうか。
胸がまた少し、どきどきと鳴った。
恋なんて、小説や映画の中でしか見たことがなかった。それが今、こんなに身近に息づいている。
それを思うと、槇に叱られたことも、さっきクラスメイトに侮られたこともなんだかどうでも良いような気さえした。




「そこにある白衣を着なさい」
「はい」
翌日の放課後、槇に言われた通りに化学室を訪れた千鶴は、入り口のすぐ近くの机にある槇のものらしい白衣に言われたままに袖を通 す。
袖を折りながら槇のところへ近づくと、槇が眼鏡の奥の目を見開いた。
「小学生が父親の服を着た様だな」
そう言われて、千鶴は教室の後ろにある鏡を見た。
濃いグレーのワンピースになっている制服の上に着た白衣は、本当に槇の言葉通りだ。袖は折ったものの、裾はくるぶしのあたりまである。
長身の槇とクラスでも一番小柄な方の千鶴なのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが。
「槇先生は、白衣は着ないんですね」
「白衣は本来、清潔さを要求される場合や、薬品等が自分の衣類に着くのを防ぐためのものだ。実験に清潔さは必要とされていないし、薬品の付着は自分で注意すればいい。だから俺は着ないな」
カチャカチャと、テーブルにビーカーや試験管を並べながら、槇は口早にそう言った。つまりは槇自身には白衣を着る必要がないが、千鶴は信用していないということだろう。
むっとした千鶴に、槇はメモを手渡した。
「この薬品を探してくれ」
化学室に隣接した、この化学準備室は狭かった。中央のパソコンのある机に腰掛けた槇と背中合わせにくっつくようにして、千鶴は棚を慎重に見ていく。
そうして無言のまま、時間だけが過ぎた。
メモを渡され、そして探した薬品を渡したり、ファイルからその成分を調べたりする。
「――先生は、化学が好きですか?」
ふと浮かんだ疑問に、ギィと椅子を軋らせて槇が振り返った。千鶴を見上げている眼鏡の奥の瞳が怪訝に歪んだ。
「面白い思考回路だな。好きでなければ教師などしていない」
「先生も、好きとか嫌いとか……そういうの、あるんですね」
呟いた千鶴の言葉に、槇の瞳が大きく見開かれる。そして、細い骨張った手が、眼鏡を直す時の仕草のように顔を覆った。
「本当に君たちは、俺を何だと思ってるんだ」
声は怒ってはいなかった。この仕草に、千鶴は見覚えがある。昨日、人体実験ですかと自分が叫んだ時も、槇は今と同じ、片手で顔を覆う仕草をしてみせた。
「若名は、化学が嫌いなようだな」
「え……?」
千鶴はすこし、黙った。嫌いではない。嫌いではないが。
「嫌いではないです。その……好きでは、ないですけど」
小声になった。茶色い小瓶に入った薬品を、慎重に槇に手渡す。
槇はそれを受け取って、テーブルの上へと置いた。
「嫌いでも好きでもない、か。素直で結構なことだ」
槇は千鶴を見ずにそう言った。千鶴は驚いて槇を見る。
「好きでもないが嫌いでもない、と、嫌いでもないが好きでもない、という言葉は似ているようで意味が異なる」
「違います!」
千鶴は槇の言葉に反論した。長いガラスのスポイトを持っていた槇の手が止まる。振り返って、千鶴を見た。その瞳からは何の表情も読みとれない。
「槇先生が、嫌いなようだって聞いたから、嫌いじゃないけれどってまず言ったんです。好きかって聞かれたら……」
「好きでもないが嫌いでもない、か?」
槇の眼鏡の奥の瞳が、ほんの僅か、ほんの僅か和らいだような気がした。
「結局は、苦手ということか」
槇は千鶴から視線を外したが、その口元が綻んだ。少しだけ口角が上がって、確かに槇が微笑んだのだった。
思わず千鶴は初めて見る槇の笑顔に釘付けになった。
見とれてしまった千鶴の視線に気づいた槇が、眉を上げて怪訝な顔をする。
「……何だ?」
「いえ、先生も笑うんだなって思って」
眼鏡の奥の瞳が大きく、大きく見開かれた。そして眉間に皺。
「あのな。俺が笑えないのは、怒ってばかりいるのは誰のせいだと思ってる?」
「すみません」
溜息混じりの声に、千鶴はそう言って、棚を向いた。
あの手紙を見つけた時のように、鼓動が早くなっていたのは、怒られたからでは決してなかった。


「あと9日……」
約束の二週間のうち、ようやく最初の一日が終わった。
窓の外はもうあかね色だ。こんな時間に帰ることなど、文化祭の準備の時くらいだった。
千鶴はなんとなく、背後の化学室の方を振り返る。思っていたよりもずっと、槇とのふたりきりの時間は苦痛ではなかった。
何より、2年間槇と関わってきた中で初めて彼の笑顔を見ることができた。
それはなんだかとてもスペシャルなことのような気がして、一人で頬が緩む。
そんなふうにぼんやりとしながら、角を曲がったところで、向こうから走ってきたらしい誰かと肩がぶつかった。
「ごめん、大丈夫だった!?って……若名じゃん」
走ってきたのは、羽柴だった。千鶴は驚いて羽柴を見上げる。
「こんな時間にどうしたんだよ。めっずらし」
「実は……」
他の人には言わないでね、と言って、若名は羽柴にペナルティのことを告げた。羽柴は顔を歪めて、災難だな、と言ったが、すぐに表情を明るくする。
「じゃあさ、オレも丁度部活終わるのこれくらいだし、一緒に帰らない?」
「え、うん、いいけど」
別に断ることはない。千鶴の家は最寄り駅から一駅ほどだったけれど、沿線が違う羽柴とは朝、駅からの道で何度か一緒に登校したこともあった。
「じゃあオレ、すぐ着替えてくるから、靴箱で待ってて」
頷いて紺色のユニフォームを見送る。微かに汗の匂いがした。
視線を戻すと、昇降口には誰もいない。千鶴は少し足早に、自分の靴箱へと向かった。
鼓動がまた早くなる。返事が入っているだろうか。
スチールの扉に手をかける。少し立て付けの悪いそれを強く引っ張った。が、中には何も入ってはいなかった。
――間違いだと気づいてしまったのだろうか。やはり、自分宛ではなかった。
千鶴はなんだかとても暗い気持ちになって、隣の自分の靴箱を開ける。
そして目を見開いた。
履き古したローファーの上に、一枚の紙が置いてあった。
慌ててそれを取り、そして開く。そこにはたった三文字。

好きだ。


殴り書きのような文字が、そこにあった。
胸があまりにも早く鳴っている。自分だった。あの手紙は、自分に宛てられていたものだった。間違えて、隣の靴箱に入れられていたものだったのだ。
頬が熱くなって、指先が震える。
いつものような丁寧な文字ではなかったけれど、大きく一言書かれたそれは、確かに自分に対するラブレターに違いない。
指先でそっとその紙を撫でる。丁寧に畳んだ。と、バタバタとせわしなくこちらに駆けてくる足音。
「ごめん、待たせて」
「う、ううん」
さっと、千鶴はその手紙をスカートのポケットに押し込んだ。
息を切らせた羽柴は、白いシャツを乱して、ネクタイも垂れさせたまま結んではいない。
まだ鼓動は収まらなかった。一体、誰だろう。誰が自分に。
昇降口を出て、羽柴は今日の部活のことを話し始めた。その横顔を見上げる。
槇よりは背が低いし、男というよりはまだ少年と男の間をさまよっている、普通の高校生。けれど少し長めのくせのある髪は、夕陽の朱に透けてきらきらと綺麗だったし、横顔も槇の鋭さに反して甘さがある、また別 の整い方だ。
「なんかついてる?」
羽柴の話など上の空で、見つめていた千鶴を覗き込むように、羽柴が自分の頬に手をあてた。大きな目が、自分を見ている。
「ううん。羽柴くん、モテるだろうなあと思って」
千鶴は微笑んだ。クラスではムードメーカーで、率先してみんなを引っ張っていくタイプの羽柴だから、表向きに騒ぐ女子はいないが、それでも家庭科の授業の後はカップケーキを差し入れる子は少なくないし、放課後のサッカー部の部活の様子を、ベランダから見ている生徒がいることも知っている。
羽柴は千鶴の言葉に、さっと頬を赤くしたように見えた。そして視線を外して頭をかく。
「そうだなあ。オレ、人気者だから。でもモテてもさ、自分の好きな奴に好かれなきゃ、仕方ないだろ」
「彼女いないの?」
学校では羽柴が特定の女子と一緒にいる姿は見かけなかった。何気なしにそう聞いた千鶴に頷いて、羽柴は、若名は?と訊く。
「いるわけないじゃない。好きな人も、できたことない……」
そう言って、ポケットの中の手紙のことを思い出す。名前も知らない、顔も知らないのに、あの手紙の主に感じるときめきは、恋と呼ぶものなのだろうか。
「そっか。まあ若名は大人しいからな。でも意外と人気あるんだぜ、オマエ」
「えっ……」
どきりとした。羽柴を見上げるが、人なつっこい笑顔の羽柴は、含みのある笑い方をしただけで、それ以上答えてはくれなかった。

羽柴と別れて一人、電車に乗りながら、ポケットをスカートの上からそっと抑えた。
好きだ。たった三文字だったけれど、誰かから告白されるのは初めてのことで、胸がくすぐったいような、締めつけられるような、不思議な気分だ。
電車の中を見る。夕陽が落ちかかった車内は、色んな制服の生徒が多い。女同士の者もいれば、恋人同士に見えるカップルもいた。
自分も、そのうち誰かとこんな風に、笑いながら電車に乗ったりするんだろうか。
実感はなかったが、恋の予兆のようなものを感じながら、千鶴は電車の揺れに任せるように冷たいドアにもたれた。
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