呉ノ朱

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  一.  

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君が好きでした、とてもとても。
けれどもう、忘れてしまおう。


そんな短い、破ったノートの切れ端に書かれた言葉を、千鶴が見つけたのは偶然だった。
けれどなんとなく、ただなんとなく、その恋文のような紙を、千鶴はポケットにしまった。
君が好きでした、とてもとても。唇だけで繰り返す。
千鶴はまだ恋など知らなかったけれど、 何故だか胸が、どきどきとした。


「……な。若名!」
低い声に呼ばれて、千鶴は慌てて顔を上げた。
まだ靄がかった視界に飛び込んできたのは、担任であり、化学の教師でもある槇がこちらを冷たい目で睨んでいた。
「いい度胸だな、若名」
「あ、あの、すみません……っ」
慌てて千鶴は立ち上がる。居眠りをしてしまっていた。よりによって、一番恐ろしく厳しい、槇の授業で、だ。
立ち上がった千鶴の隣に、槇が来る。コツコツという革靴の音に、千鶴は震え上がった。
「放課後、化学室に来るように。――次」
槇は眼鏡の奥で千鶴を一瞥して、くるりと黒板の方へと背を向けた。その冷たい背中を見ながら、千鶴は頭を抱えてしまいたくなった。

昨日は結局眠れなかった。
あの手紙のような、メモのような走り書きを見つけたからだ。
いつもの放課後のいつもの下駄箱。同じ形をした小さな箱が、何百と並ぶそのひとつを開けて、千鶴はまたやってしまったと思った。
名前の読み仮名順で決められた出席番号では、千鶴はクラスの一番最後。30人1クラスごとに区切られているうち、靴箱の数は40。千鶴の靴箱の隣には、誰も使っていない空いた箱が一列並んでいる。
その場所を、千鶴はよく間違えていた。自分の靴箱の隣をつい、間違って開けてしまうのだ。
けれどいつもは空のはずのその靴箱が、その日は違っていた。
白い、何か紙切れのようなものが入っている。
誰かがゴミでも入れたのだろうか。だが、屈んでも取りづらい、一番下のこんな場所にわざわざそんなことをする人間がいるとも思えない。
そうして千鶴は、それを拾った。
たった一文だった。男の字とも、女の字ともつかない、美しい筆跡で書かれていたそれは、なんだかいつまでも心に残って消えなかった。

そのせいで、いま、槇に叱られてしまった。
一度頭をふって、まだ明瞭ではない頭を冷めさせてから、恐る恐る黒板に向かう槇を見る。
細身の長身と白い肌を、メタルフレームの眼鏡がいっそう厳しく見せている、千鶴の担任教師。どんな生徒からも恐れられている彼につけられたあだ名はあまりにも多いが、中でも「死神博士」というのは傑作だ、と、密かに千鶴は思っていた。
その厳しい授業や、笑った姿を誰も見たことがないと言われる程の無感情な槇は、恵まれた顔立ちと体躯にも関わらず、あまりにも人気がなかった。
毎年必ず起こるという何も知らない新入生による取り巻き現象も、ひとたび授業を受ければぴたりと収まる。槇は端的に言えば、そういう教師だった。
千鶴はといえば、槇に対して、好きとも嫌いとも思っていなかった。
怖い教師だと思う。苦手かと問われれば確かに苦手だ。けれど、他の生徒のように毛嫌いしているわけでもない。
「それでは今日はここまで。予習をしておくように」
片手で眼鏡のフレームを直して、槇が背筋を伸ばしたまま教室を出ていく。姿が完全に見えなくなったところで、教室内の空気が一気に緩和した。
「若名、災難だったな」
隣の席の羽柴が伸びをしながら笑ってみせる。羽柴は何かと千鶴に声をかけてくる男子生徒だった。成績は決して良いとは言い難かったが、明るくて快活な性格と、部活での姿に人気は高い。千鶴は肩を竦めて笑う。
「千鶴、放課後、マキちゃんに改造されたりして」
「おどかさないでよ……」
前の席のマリが言ったその言葉もあながち冗談だと笑い飛ばせない。根も葉もない噂だが、化学室に一人で入った生徒が二度と出てこなかったとか、人体実験をしているだとか、槇にはあだ名と共に怪談のようなものがついてまわっていた。
「でも珍しいよね、千鶴が居眠りするなんて。何かあったの?」
「う、ううん、本読んでたら夜更かししちゃって」
別に嘘をつくほどのことでもなかったのだが、なんとなく、あの手紙のことは秘密にしておきたかった。
――君が好きでした、とてもとても。

あれを書いて、そして千鶴の隣の靴箱に入れた誰かがいる。
あの紙切れは、単なるメモや誰かの詩かもしれなかったけれど、万にひとつくらいは、隣の自分の靴箱への恋文だったのかもしれない。
そんなことにひっそりと思いを馳せるのは、楽しかった。
さっきあんな風に槇に叱られたにも関わらず、少しも落ち込んでいないどころか、なんとなく嬉しそうに見える千鶴の様子に、マリと羽柴は顔を見合わせて首を傾げた。



「失礼します……」
小さな声でそう言って、化学準備室の引き戸を開ける。奥のテーブルに槇はいた。窓から差し込む光で、眼鏡がギラリと光る。
「座りなさい」
低く呟いて、槇は中央にある自分の椅子の向かいにある、パイプ椅子を指す。
おずおずとそこに腰を下ろして、千鶴は槇を見た。
逆光になった槇は、よりいっそう大きく、そして怖く見える。顔立ちは整っていたが、怒り以外の表情の変化を見せないいつも不機嫌そうな視線も怖かったし、声のトーンや細身で長身の体躯も威圧感があった。
「で。居眠りの原因は?」
「ええと……その……」
手紙のことは言えなかったし、化学が苦手だからです、つまらないからです、と言って反応を見てみたい悪戯心がないわけでもなかったが、そんなことをすれば今学期の化学の成績は絶望的だ。
「昨日、夜更かしを……して」
様子をうかがうようにして見上げながらそう言った千鶴に、槇は片眉を上げる。
「夜更かし。何のために?」
「考えごとを、していました」
考えごと、と、槇は千鶴の言葉を反芻して黙った。沈黙が重い。
逆光で槇の表情はうっすらとしかわからなかったが、見つめられていると思うとまるで金縛りにあったように動けなかった。
「君の思索までは問わないが、授業に支障が出るならば、保健室に行くなり、早退するなりすることだ。……次はない。わかったな?」
「はい。すみませんでした」
きゅっと、スカートを握りしめた。口調は静かで冷たい。いっそ怒鳴られた方がまだ怖くなかったかもしれない。
すっと槇の手が伸びた。ぶたれる、と、反射的に千鶴は身を竦めたが、しかし槇は、その手を軽く千鶴の頭に乗せた。
「もう行っていい。今後、気をつけなさい」
その声はもう厳しいものではなく、頭に当てられた槇の手が温かい気がして思わず槇を見つめたが、眼鏡の奥の瞳は、普段と何も変わりはなかった。

ドアのところで一礼して、廊下に出る。と、そこに羽柴が心配そうな顔をして立っていた。
「羽柴くん、どうしたの?」
「いや、なんつうか……大丈夫かなと思ってさ」
サッカー部のユニフォームを着た羽柴に並んで、歩く。
なんとなくいつも、羽柴は千鶴の近くにいるような気がした。
「大丈夫だったよ。改造もされなかった」
ふふ、と笑う。それにつられて、羽柴も笑った。眩しい笑顔だと、千鶴は思う。槇とはまるで違うタイプだが、羽柴もそれなりに格好がいい。後輩やクラスメイトから人気が高いのも頷ける。
「もう帰るのか?」
「うん。羽柴くんはこれから部活でしょ?」
廊下に並んだ窓を見ると、グラウンドには色々なユニフォームを着た生徒たちがそれぞれの部活の準備を始めていた。
千鶴はどの部活にも所属していなかったので、いつもこの時間、帰宅する。
靴箱まで来て、手を振って別れた。
そして自分の靴箱を開けようと手を伸ばしたところで、ふと、昨日開けた隣の靴箱が気に掛かる。
周囲を一度見回して、誰もいないことを確認すると、そっとそれを開けた。
――昨日と同じように、一枚のノートの切れ端が入っていた。

この手紙を、君はきっと読んでいないだろう。


それだけが書かれていた。
やはり手紙だったんだと、千鶴は思う。そして手の中にあるそのノートの切れ端と、ポケットに隠すように今日も持っていた昨日の手紙を握る。
戻しておいた方が、いいのかもしれない。
これは自分にあてられたものではなく、もしかしたら恋人同士が、この靴箱でこっそり文通 のようなことをしているのかもしれない。
だとすれば、自分はその邪魔をしてしまっているのだ。
少しの躊躇があった。どうしてこんな誰が書いたのかもわからない、ノートの切れ端に書かれた恋文に惹かれるのかわからない。けれど、手放すのが惜しいと、千鶴は思ってしまう。
ためらって、結局、その手紙をポケットにしまった。
足早に靴を履いて、駆け出す。心臓がドキドキと鳴っていた。
――これは泥棒だ。この手紙を書いた相手は、誰かを想って、その誰かに向けて書いているのに、私はその想いを盗んでしまった。
罪悪感があった。それでも、どうしてだかこの手紙が欲しかった。
これを書いた相手が男でも女でも、こんなふうに誰かを想う気持ちが、欲しかった。
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