呉ノ朱

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  最終話.  

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数日後、緊急全校集会で、化学教師の退任が発表された。
化学部員らは成績の向上と金を条件に、実験を手伝っていたのだということが明らかになり、なぜそんな大それたことをやってのけたのか、といえば、金に困った化学教師が、その薬を作れば高く売れる、という噂を耳にしたからだ、という話で、事態は収束を迎えた。
無論、現職の化学教師が麻薬を精製したなどという話は、行幸ら一部の生徒を除き、伏せられた。
教師を庇ってのことではなく、良家の子女を預かる学園としての保身に他ならない。
「まさかあの先生が犯人なんてなあ」
「なんだ、その可能性もあるから、調査分析を外部に依頼したんじゃなかったのか?」
行幸がちらりと十巴を見たので、十巴は一度目を見開いてから、まあね、と、バツが悪そうに苦笑した。
灰谷はそれを見て内心少し驚きながら、彼女もやはり風紀委員の長なのだと、改めて尊敬の念を強くさせた。
しかし実のところ、十巴は未だ内心、学食のオバチャンと男子生徒のラブサスペンスの線を、諦めきれていなかったのだが。
「で、本当のところは何だって?」
いまこの生徒会長室に自分たちしかいないことを再確認して、十巴は行幸へと視線を流した。
校内であろうことか違法の合成麻薬を作ろうとしていた教師が、懲戒免職ではなく解雇で済んだのは、彼が持っていた麻薬のレシピが法律に関わるほど重度な成分のあるものではなかったことがひとつと、そして彼を真犯人として連れてきた行幸が何かしたからに他ならない。
学園側並びに生徒の動揺を考慮して、という表向きの理由と共に、麻薬の一件は、十巴と灰谷、そして百花の他を除いては、彼の独断で伏せられたのだ。何か理由があるに違いなかった。
その十巴の読みはやはり正しく、行幸は困ったように視線を逸らす。
「……これを作ってほしいって、紙を渡されて頼まれたんだと。それが実際はMDMAほど強いものじゃなくて、軽い媚薬的なレシピだったのが、なんかの間違いで、麻薬ができて、それがくだんのカラスにあたった、と」
「はあ!?」
十巴と灰谷の驚愕した声が、重なった。
「作ってほしいと頼まれて一介の教師が作れるものなのか、技術じゃなくてさ、倫理的に」
十巴はそう言いかけたところで、退任していった教師の顔を思い起こす。
「"ねえ先生、この薬が完成したら先生と使ってみたいの"なんて、ピッチピチの女子高生に言われたら……どうだろうな」
可愛らしい声音を真似てみせて、行幸は口元を歪めた。
「インターネットか何かで手に入れたらしいけどさ、頼んだ本人も、まさか合成麻薬のレシピだとは気づいてなかったんだろ」
「そうまでして別れた彼氏を取り戻したかった、ってことか……」
十巴がうんざりと顔をしかめたので、行幸は曖昧に頷いた。
灰谷もまた、行幸のとった裁きについて何も言わなかった。
あの教室での、百花と仁科の一部始終をこっそり聞いてしまった彼としては、その上あの彼女が刑事事件にまで発展するような事態は、いささか気の毒な気もしたからだ。
百花もまた彼女を訴えることをしなかったので、彼女は罪に問われることなく、自主的に転校したのだが……後味の残る事件ではある。
「これに懲りたら、少しは身を慎めよ」
そう言って百花の頭を拳で軽く小突いたのは、十巴ではなく行幸だった。
百花は肩を竦めて、めずらしく申し訳なさそうに、はあい、と答える。
「まあとりあえずは一件落着したんだ、二人ともお疲れさま」
十巴はようやく晴れ晴れしい顔をして、灰谷たちが生徒会長室を出ていくのを見送った。
しばらくそうして手をひらひらと振ったのち――-彼女は、ぐったりと会長室脇のソファーになだれこむ。
「っ疲れた――……」
「おつかれさん」
行幸は苦笑して、ようやく責務を解かれた彼女の労を讃えた。
後輩達の前では、いつも背筋を伸ばして強くあろうとする彼女のこんな姿を見られるのは、自分だけの役得だ、と満足した笑みを浮かべて、そうしてちろりと、ぐったりと倒れたままの十巴を見やる。
「なあ、そういえばさ」
「ん?」
事後処理の書類に目を通していた 行幸に、寝ころんだままの十巴が力の抜けた声を出した。
「あの唄ってさ、落語があるんだな」
「三枚起請のことか?」
行幸は視線を書類から上げずに答える。
――三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい。
この言葉で浮かべられる話といえば、都々逸の他に、もうひとつ、「三枚起請」という有名な落語の演目があった。

ある花魁が、年季が明けたら……つまり、自分が遊女としての勤めを終えたら夫婦になろうと約束した起請文を書く。
その起請文はといえば、熊野神社が発行する牛王宝印という護符の裏に記入するそれは大層な誓紙で、そこに書かれた約束事を一度破れば、熊野の神の使いである鴉が三羽死に、本人も血を吐いて地獄に堕ちる、という程に信心深く使用されるものだった。
男はよもやそんな大層な約束が破られようとは露ほどにも知らず、純真にも大枚はたいてせっせとその愛しい花魁のもとへと通 う。
一刻も早く彼女が自分だけのものになるように、と。
けれどその花魁は、といえば、自分から男が去らないための営業手段として畏れ多くもその起請文を三人もの客に利用し……、やがて彼女の所業は明らかとなり、腹を立てた三人の男たちは結託し、怒鳴り込む。
花魁は、けれど あっけらかんと笑いながら、くだんの都々逸をもじって言うのだ。
――三千世界の鴉を殺し、わたしゃゆっくり朝寝がしてみたい、と。

「それってどういう意味?」
ごろりと生徒会長室脇のソファーで寝返りを打って、十巴が行幸を向いた。
「カラスが朝うるさくてゆっくり寝れないんだ、いっそ世界中のカラスが死んじまえばいいって思ってね、ってオチだよ」
「すごい神経」
うえ、と顔をひきつらせて、十巴はようやく体を起こした。
昔も今も、女の本性は変わらないといったところだろうか、と自分も女でありながら理解のできない部分に対してそう思う。
「さあて、そろそろ授業に出るかね」
大きく伸びをして立ち上がった十巴に、行幸も書類を整えて、立ち上がる。
ふと思いついたことがあって、部屋を出ていこうとした十巴を呼び止めた。
「……その様子じゃ、やっぱりおまえわかってないだろ。誰が木内先生に媚薬なんて作らせたか」
既に解雇処分 となった彼だったが、行幸は一応、先生と付け加えることを忘れなかった。
――十巴が百花を探して飛び出していったあの後、向かった化学室で行幸は、ある条件を彼に呈示した。
あなたがこれを作らされたこと、並びにこれを作るように言った女子生徒の名前を決して口外しない、という約束。
彼への餌は、懲戒免職ではなく解雇で済ませる、という学園側への口利き。
だからそれは、行幸だけが知る真実だった。
「ん?あの子だろ、仁科佐緒里」
行幸はあえて十巴から視線を外して、ごまかすように宙を見やった。
少しの間をおいて、考えに至った十巴がみるみるうちに唖然とした表情をさせていくであろうことは、見ずともわかっていた。
「まさか」
「その、まさか。言うなよ」
本人には、という意味で、行幸はちろりと横目で十巴を見た。
後でその当人にはキツくお灸を据えるとして、十巴に話すつもりは本当は、なかった。
しかしいまのままでは、あまりにもあの仁科という女生徒が可哀想な気がして……というのは建前で、少しはこの暢気であけすけで間抜けで短絡思考ゆえに悩むことを知らない幼なじみを困らせてやろう、という意地悪な心地になったからかもしれなかった。
十巴は頭を抱えて、一度こくりと頷く。
「なに考えてんだか、ほんとにアイツ……」
「さあ」
行幸は多分、あの新聞の切り貼りで作られた都々逸の一文を見た時から、犯人を知っていた気がする。
仁科佐緒里ではなく、あの教師が告げた名前の主を。
けれどただ黙して観客に徹することに決めた。
それはあるいはこの一連の事件の裏にある、純粋な恋心ともいうべき犯人の心理が、共感できるものだったからかもしれず、そしてまた、それがどういった結果 を生むのか、見てみたいという好奇心からだったかもしれず――
「……朝寝が、したかったんだろ」
そう言って、行幸は自嘲ぎみに微笑った。
きっとこの言葉の、この事件の真意を、目の前の鈍感な愛すべき幼ななじみが悟ることは一生ないんだろうな、と、どこか諦めにも似た気持ちを抱きながら。






「なあ、藤篠」
教室までの道をふたり並んで歩きながら、灰谷はようやく口を開いた。
いまを逃したら、もうこうして彼女とふたりきりになる機会はないように思えたからだった。
百花はめずらしく彼が自分の名前を呼んだことに驚いた顔をさせて、けれど彼の言葉を待っていた。
「なんであの日、……オレとしなかったんだ?」
もう授業が始まっている廊下は、いつかのあの日と同じように誰もいない。
百花は思いがけない質問に苦笑して、
「だあって。灰谷くんたら、××××ふにゃふにゃで……」
からかうような口調で言いかけて、彼女はすぐに、言葉を止めた。
笑顔がゆっくりと失われて、どこか寂しげな表情をさせる。
「なんか、ね。しちゃいけないって思ったの。それだけよ」
そう言って、困ったように微笑った。
灰谷はそっか、とだけ言い、また少し、黙ったまま上履きの足音だけが廊下に響く。
次の言葉を言うのは、少しだけ勇気が要った。
「オマエ、オレのことほんとはすっごく好きだろ」
声にして、心臓がドキドキとした。
百花は一度大きく、こぼれ落ちんばかりに目を見開いて、そして破顔する。
くつくつと、鈴が鳴るような笑い声が 耳をくすぐった。
からかうような笑い声に臆することなく、灰谷は言葉を続ける。
「ケーキ、まずかったよなあ」
唐突な話題に、笑い続けていた百花の声が、ぴたりと止まった。
それだけ言えば、彼女は自分が何をいわんとしているか気づくだろうとわかっていたから、それ以上続けることはしなかった。
「……努力家だよな。ゴミ箱のプリントの山、すごかったもんな。あれ塾かなんかの宿題だろ?」
ゴミ箱、という言葉を出した瞬間に、また少し、百花の顔が険しくなった。
――総ての事件が終わって、灰谷はいくつかの、百花の秘密を知った。
「そんなにオレと、してみたかった?」
言葉にして、ゾワリと背筋が緊張する。
あの時の感覚だ、と灰谷は思った。
ゴミ箱に押し込められたクシャクシャになったプリント用紙の隙間、ちらりとのぞいた灰色の見慣れたごく普通 の新聞。
その新聞が、所々虫食いのように、切り取られていたこと。
「……そうね」
百花はもう、いつもの微笑みを浮かべなかった。いつしか、なにを、とか、なんで、とか問うこともしなくなっていた。
穏やかに、だが狡猾に――獲物をうかがうような瞳で、灰谷の次の言葉を待っている。
こんなにいい表情をするのか、と、灰谷は思った。
「オレはいま、したいんだけど。オマエと。セックス」
声が少し、震えたかもしれなかった。
さっと百花の表情が変わる。初めは驚き、ゆっくりと警戒に、そして笑顔に。
「……このまま、サボっちゃおうか」
他の誰にも見せたことのないような、悪戯な笑みを浮かべて、百花が自分の気持ちに、応えた。
灰谷はようやく訪れた安堵に、息を吐き出す。
「誰がこんなメガネデブと、とは言わないんだな」
あの教室での仁科の言葉をそのままなぞった灰谷に、百花は瞬間、諦めのような笑顔を浮かべて、そして首を振る。
ああもう何もかも知れられているのだ、と。
ひとつひとつ、百花が微かに"わざわざ"残してきた軌跡を追って、他のどんな男の子とも違う、真実を見抜く力をもって。
「言わないわ」
百花は今度こそ晴れやかに、笑った。
……こんなふうに暴かれるのを、ずっと待っていた。
彼は、確かに自分の期待に応えてくれた。
そうして自分は、もうずっと以前から、彼のそんなところがとても気に入っていたのだ。
どんな囁きにも嘲りにも蔑みにも、胸を張っていた彼。
「モモはね、灰谷くんがいいの」
どうして彼なのか、問われたところで答えはあるようで、ない。
「たで食う虫も好きずき、って、言うじゃない?」
百花の口から出てきたとは思えないような言葉は、にい、という少し異質な、最高の笑顔と共に灰谷の胸を打った。
「オレも、そう思うよ」
そうして苦笑に頬を緩ませながら、額縁しか見えなかったこれまでよりずっと、中の絵が美しく見えることを知る。
こみあげるようにして、思った。
……この、叫び出しそうな気持ちがきっと、好きだってことだ、と。
灰谷はかみしめるように一度瞳を閉じて、最後の百花の秘密を思った。
そうしてすぐに、あのアルバムのことは忘れてしまうことに決めた。
灰谷は初めて自分から、百花の手を握った。
もう誰に見られることも、おそろしくなどなかった。



初めて灰谷に手をつながれたことに、どことなく気恥ずかしさと、そして心地よさを覚えながら、百花はいつかの灰谷の質問を思い出す。
誰かを好きになったことがあるか、と。
もしいま同じことを質問されても、自分は同じように、ないよ、と、答えるだろう。……それでも。
――--それでも、あの表情は、たまらなくよかった、と、百花は思う。
あの日、あの夕陽が落ちる教室で、彼のあんな表情を見ることができた。
もう一度、あんな彼が見られるなら。
鴉など、何羽死んだところで惜しいものか、と、彼女は、少女だけが持つ特有の残酷さで、微かに微笑んだ。
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