呉ノ朱

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それから放課後までの時間を、灰谷は百花を無視することに徹底した。
授業中もちらちらと、彼女の視線が自分へと向けられていることは、そちらを見ずとも感じとることができた。
居心地が悪かった。
体型と自分の性格から、噂されることには慣れている。侮蔑の笑いも、馬鹿にされることも慣れていた。
しかしどうしても、藤篠百花に見つめられることの居心地の悪さには、慣れることはできなかった。だから、彼女を避けた。
いっそ他のクラスメイトと同じように、自分を馬鹿にでもしてくれたならどれほど気が楽だったか。
……それでも灰谷は、百花だけは決してそれをしないだろう、と、本当はずっと、それを知っていた。

あれはまだ春の、体育の授業の後の時だったろう。
教室が空になる体育の授業の前には、風紀委員が、クラス中の財布を集めて職員室に預ける決まりになっていた。
その日、集めたのは灰谷だった。
そして授業も終わり、皆が財布を受け取ったとき、一人の生徒が、自分の財布がない、と、騒ぎ始めたのだった。
灰谷はクラスにこんなとき彼を庇ってくれる友人などいなかったし、元より誰かと特別 親しくなる必要もないと思っていた。
自分は生徒としての義務を全うしている。授業も真面目に聞けば、生活に恥じるところもない。だからそれで充分だったし、どれほど不当な嘲りを受けても、背筋を伸ばしていられる矜持は持っていた。
……その彼の言葉は嘘だ、と、灰谷はすぐに気づくことができた。
自分は絶対にそんな過失を犯さない自身があったし、なぜこのクラスメイトが嘘をついてまで、自分を犯人に仕立て上げたいのかも、すぐ気づいた。
さっきの体育の授業は、グループ対抗のバスケだった。
どうしたって体育だけは苦手な灰谷が彼と同じグループになった、それだけで、バスケ部でレギュラーを持っていることだけが自慢の彼は、大敗という屈辱を味あわざるを得なかった。
「――弁償する。いくら入ってた?」
クラス中の視線が集まる中で、灰谷は真っ直ぐに彼を見て、そう言った。
彼が瞬間的に自分の視線に怯んだことで、ああやはり自分の推察は間違っていないのだ、と、灰谷は内心頷く。
「やっぱりオマエが、堀内の財布盗ったのかよ!」
「バァカ、オレが盗ったんだったら金なんか払うわけないだろ。こういう時間が無駄だと思うから」
怒鳴りつけてきた別の男子生徒を一瞥して、灰谷は自分の財布を取り出す。
いま言った言葉も本音に違いなかったが、同時に、どんな不当であれ、自分が預かったことの責任がある、と思ったことも理由だった。
もっと隙を与えない、うまいやり方だってあったはずなのに、と。
そしてどこかで、確かに彼が自分を厭う気持ちがわからないでもない、とも、思ったのだ。
「……ねえ、堀内くん。そのジュース、どうしたの?」
鈴のような声が、人垣の間を割って入ってきた。
「どうしたって、さっき購買で……」
声の主は藤篠百花その人で、こんな状況下でも口角をきれいに上げて、堀内という男子生徒を向く。
彼は百花が話しかけてきたことに狼狽したように、自分が手にしていたスポーツドリンクをちらりと見た。それはまだ雫を付着させていて、一見して買ったばかりのよく冷えたものだと、わかることができた。
「……あ」
自分の失言に、気づいたのは堀内本人だけではなかった。
彼が財布を失くしたのなら、それを買えるはずがない。もう少し彼が賢かったなら、ジュース代だけ持っていたのだ、とか、誰かに金を借りたのだ、とか、いくらでも誤魔化しようがあったものを、すっかり青ざめ狼狽を始めた彼は、もうそんなことも思いつかないのだろう。
「そ、そういえば、オレ財布持って行ったんだったわ。こんなやつに預けるの不安だったからさ」
明らかに震える声でそう言って、一言灰谷をなじることも忘れなかった。
そうして教室は、いつもの通りの日常を取り戻した。
学園ドラマよろしく、百花や他の生徒が堀内に「あやまんなさいよ!」なんて言うこともなかったし、灰谷が百花に「ありがとう」なんて言うこともなかった。
百花は気づいた事実を言っただけで、灰谷を信じたわけでもかばったわけでもないはずだ。
それでも、と、灰谷はその夜、布団の中で百花の行為を思い返した。
それでも――嬉しくなかったわけがないのだ。
灰谷は、少しだけ泣いた。



「灰谷くん」
その日の放課後、昇降口で自分を待っていたらしい百花は、自分の姿を見つけて顔をほころばせてみせる。
皆が褒め称える通り、彼女のその笑顔は思わず見とれるものに違いなかったが、灰谷は、ちらりと一瞥して彼女の隣を通 り過ぎた。
「なんか……怒ってる?」
「………………」
初めて怯える声を出した百花に背を向けて、自分の靴を取り出すと、灰谷はそっとそれを床に置いた。
「ねえ、どうして怒ってるの?モモ、何かした……?」
靴に足を差し込んだところで、背中にかけられた言葉に思わず頭に血がのぼった。
怒りにまかせて振り返れば、百花はびくりと肩を揺らして、不安そうに灰谷の言葉を待っていた。
「それくらい、自分で考えろよ!」
吐き捨てるように言って、昇降口を飛び出す。
地鳴りがするんじゃないかと思うほど乱暴な足踏みで、校舎横を進む。後ろから百花が追い掛けてくる音が聞こえた。
立ち止まり、振り返る。
「……なんで、あんなことするんだよ」
絞り出すような声で言った。
「誰にでもああいうことするのか?興味があったら誰でもいいのか!?」
喉が詰まってうまく声にならない。
どうしてこんな、泣き出しそうな気持ちになっているのか、灰谷自身にも説明がつかなかった。
「かわいそうだ」
うつむいた灰谷を、百花は怪訝な表情で見つめた。
「オマエをちゃんと好きなやつが、かわいそうだ」
「かわいそう……?」
ああやっぱり、伝わらない。
灰谷はなんだか笑ってしまいたい空虚感に、顔をあげた。
「だからオレは、オマエがキライなんだよ……」
もう何を言う気にもなれなくて、小さく呟くように言って、灰谷は踵を返した。
本校舎の昇降口から先は職員の駐車場があり、そこを曲がれば正門で、今日はなんだか足が重くて、そこまでの道のりがひどく遠く感じられた。
もう、振り返るものか。
そう決意したはずだったのに、ふっと、突然に空が翳る。
反射的に見上げれば、黒い影が降ってきた。
「わっ……!」
本校舎の屋上あたりから降ってきた、その黒い影は丁度灰谷の背中と百花との間に、落ちた。
べちゃりという厭な音。
飛び散った赤い色と、白と黄色が混濁したような脂肪の塊、そして黒い羽。
それは、百花の白い靴下と靴を汚した。
「…………っ!!」
声にならない叫び声をあげて、百花がひきつらせた顔で硬直する。
降ってきたのは、鴉だった。
数えて四羽目の、鴉の死骸。
そうしてそれは、明らかに、百花を狙ったものに違いなかった。
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