呉ノ朱

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「おはよう、灰谷くん」
灰谷はびくりと肩を震わせて、けれどかけられた声へ振り向くことはしなかった。
その声に昨日の帰り道のことを思い出して瞬間的に耳が熱く染まる。
視線が、昨日触れた唇へと向かうことを止められず、灰谷は百花の挨拶を黙殺した。
「ちょ、ちょっとモモ!」
百花と並んで登校してきた、同じクラスの女子が慌てて百花に囁きかける。
「やめときなよ、灰谷に関わるの」
「なんでー?」
百花が彼女の言葉をさも不思議そうに首を傾げてみせたのを、灰谷は密かに一瞥した。理由など彼自身がよく知っていたから、聞きたくもなかった。
ひそひそと囁かれる陰口には慣れている。
灰谷が表情を変えることなく校門を過ぎて昇降口へと入れば、おはよう、とたくさんの声が行き交うなか、灰谷にかけられる声はひとつもない。いつものことだ。
「どうしてって……」
「人の悪口で悦に入るなよ、ブス」
ブス、と罵られたクラスメイトは瞬間で顔を赤くさせ、そうしてみるみる怒りにそれを歪めた。
普段であれば無反応を貫く彼だったが、今朝ばかりは少し、虫の居所が悪かった。勿論、理由は昨日の帰り道の一件である。
「なっ……なによこのデブ!」
背中にかけられた罵声に、灰谷は思わずにやりとしかけて顔を作る。
自分が彼女に吐きかけた言葉も的確だと思ったが、彼女が自分に叫んだ言葉もまた、的確だ。
なんとなく溜飲が下がった心地で上履きに履き替え、踵を返そうとした。
小さな悲鳴と共に、ガタン、と昇降口のすのこが鳴った音がして、見れば誰かに取り落とされたらしい上履きが転がっている。
そのまま視線を上げれば、さっき自分を罵った彼女が、百花の手元を覗き込むようにしていた。
「やだ、なにそれ……!」
にわかに昇降口が騒がしくなり、灰谷はそれを凝視する。
周囲を囲む生徒たちの中心、百花が何かを手に立ちすくんでいた。
瞬間、百花が灰谷を振り返る。
いつも穏やかな微笑をたたえていた彼女の表情はすっかりと青ざめて、そうして、縋るような瞳をして灰谷を見たのだった。






「三千世界の…これ、何て読むの?」
「カラス」
灰谷はそう答えて、いつもの、呆れたような視線で百花を見た。
半ば呼び出されるような形で生徒会長室に出向き、目の前には十巴と生徒会長の黒崎行幸が緊迫した顔をさせている。
「"三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい"……」
「鴉を殺し……脅迫か?」
十巴が険しい顔をさせた。
百花が読み上げた手の中の手紙は、古い脅迫文に倣ったように、わざわざご丁寧に新聞を一文字一文字切り抜いてつづられて、朝、百花の靴箱の中に置かれていた。
「都々逸だな」
「どどいつ?なんだそりゃ」
素っ頓狂な声をあげた十巴と百花が同時に行幸を見た。行幸はこくりと頷く。
「うーん、歌の種類ってゆうか。で、その唄に、そのまま『三千世界の鴉を殺し、ぬ しと朝寝がしてみたい』ってのがあって」
「どういう意味?」
行幸の説明に、三人は三様にぽかんとした顔をさせて聞き返す。
「"三千世界"は仏教用語で"この世全て"。――つまりは"世界中の鴉を殺しておまえと朝までゆっくり寝たい"って直訳かな」
「なんで鴉を殺さないと、ゆっくり寝れないの?」
百花が首を傾げながら言った言葉に、行幸はまるで幼児を見守る保父のような表情をして、言葉を続けた。
「いろいろ説はあるみたいなんだけど。男が惚れ込んでた花魁に贈ったと言われてて、"朝寝を邪魔する鴉"ってのは他の客のことを指す」
そう言って行幸は、百花を指で示した後、灰谷をちらりと見て空を指で斜めに切るような仕草をした。
「つまり、自分の惚れてる女に群がる他の男を全部殺して、独り占めしたいって意味にとれるよな」
「!」
少し低められた行幸の声に、灰谷と十巴の表情がさっと険しくなる。
「立派な犯行声明じゃねーか」
歯を噛みしめるようにして言った十巴は、パキパキと指を鳴らした。
「まあ落ち着け。それが今回の事件と関係しているとは限らないだろ。ただの便乗した愉快犯かもしれないし、度を超したラブレターかも」
「でも、モモ怖いわ……」
慣れた仕草で十巴を制止した行幸に対して、百花はようやく眉を顰めて、その華奢な肩をより小さくさせる。
十巴はそれをちら、と見て、少し顎を撫でた。そうして灰谷を振り向く。
「そしたらとりあえず……ええと灰谷だったよな、オマエ百花の身辺警護やれ」
「ええっ!?」
思いがけない十巴の言葉に、灰谷は目を剥いた。
隣の百花がちらりと流し目で自分を見たことにも気づかなかった。
「生徒の身の安全を守るのも風紀の仕事だろ?ちょうどクラスメイトなんだし、頼むわ」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
灰谷の狼狽など少しも気にとめた様子なく、十巴はポン、となだめるように灰谷の肩へと手を置く。風紀委員長の勅令である、と。
その一動作だけで、灰谷はもうすっかりと反論する気力を失ってしまったのだった。


「あーあ、かわいそうに……」
灰谷と百花が去った後の生徒会室で、行幸は背もたれをぎしりとしならせながらつぶやくように言った。
「押しつけたな、十巴」
ちらりと視線だけで十巴を見れば、神妙な面持ちで二人が生徒会室を出ていくのを見送っていた風紀委員長の表情は既に崩れて、幼馴染みのそれへと戻っている。
「モモのお守りは大変だぞー」
ひっひ、と声を立てて笑った十巴はなお、とびきり意地悪な笑みを浮かべた後、再び真剣な表情へと戻った。
「しかし世界中の鴉を殺しても……ねえ。穏やかじゃねえな」
百花が残していったつぎはぎの手紙をぴらりと指で挟んで、十巴はひらひらと揺らす。
女生徒でありながら、鷺ノ宮学園の"ミスター"鷺ノ宮と噂される十巴自身、学年を問わず様々な女子生徒からラブレターをもらうことには慣れている。
その中には思いこみが過ぎた内容のものも少なからずあった。
しかし……これは、種類が違う。
「それと今回の事件がどう関係あるか、が問題だな。あれが百花への手紙だとして、愛情を証明するために鴉を殺した……?」
「オエ。気持ちわる」
行幸が呟いた予測に、十巴は思い切り舌を出してみせる。
おまえにはわからない感情だろうさ、と言いたい言葉を行幸は呑み込んだ。
「そもそもなんでモモがあんなモテんのかね」
自分の妹が、飛び抜けて愛らしい容姿をしていることは他の誰より熟知しているつもりだ。
それでも生まれたときから彼女を知る姉として、思い切り顔をゆがめて舌を出して見せた十巴は、そのまま行幸を振り返る。
「あいつの恋人になる男は大変だ」
そう言って、行幸がちろりと確認するように十巴を見たので、十巴もまたその言葉に大きく頷いて答える。
「いろんな意味でな」
「ああ、いろんな意味で」





「ボディーガード、だって」
教室へと向かう廊下で、並んで歩く百花が嬉しそうに自分をのぞき込んだので、灰谷は思わず顔をしかめてのけぞった。
「おまえ、絶対それ他のヤツに言うなよ! 」
「どうして?」
まただ、と灰谷は深いため息を吐いた。
百花はいつも、子供のような訊き方をして、相手を困らせるのだ。
「でも、モモが言わなくてもみんなすぐ気づいちゃうと思うよ。だってこれからずーっと一緒にいなきゃならないでしょ」
「やっ、やめろバカ!」
そう言って腕を組むようにすり寄ってきた百花の体を懸命に引きはがしながら、灰谷は小声で叫んだ。
「別に、灰谷くんがどうしてもいやなら……」
「どうしてもいやだね」
神頼みでもしたい気分だった。
とかく百花は、人目を惹くのだ。できうるならばひっそりと地味に静かに平和な学園生活を過ごしたい灰谷にとって、彼女の存在は邪魔以外の何者でもない。
「そっか。いいよ。じゃあモモ、別の人に替えてもらうようにトモエちゃんに言ってあげる」
存外にあっさりと、百花の手が自分の腕から離れた。
「ほんとか!?」
彼にしては珍しく大声で、その瞳にようやく光が宿る。
百花は他の生徒に普段見せる穏やかで柔らかな微笑みを浮かべ、そうしてにっこりと頷いた。
「うん。モモはかまわないけど……でも、せっかくトモエちゃんからの直々のお達しなのにね。トモエちゃんにいいところ見せるチャンスなのにね」
「なっ……」
ふふ、と愛らしく微笑んだままの百花が、自分の横を擦り抜けて目の前へと立つ。
その影がひっそりと自分の身体の上に落ちて、ゆっくりと血の気が引いていくのがわかった。
「トモエちゃんね、男らしい男が大好きなんだよ。ああ見えて意外とモテるけど、自分にケンカで勝てるヤツしか認めない!んだって。なのに、灰谷くんがモモひとり守れないで逃げ出したなんて知ったら……きっとガッカリしちゃうよねえ。大好きなトモエちゃんに嫌われちゃうかもしれないよ?」
百花は微笑みを崩さないまま、早口で続けざまにそう言った。
「オマエ、なんで知って……」
思わず掴みかかろうとした灰谷のふくよかな腕をひらりとかわして、百花が覗き込むようにして灰谷を見る。
「ふふ。大丈夫だってば。モモ、だーれにも言わないよ?」
特上の笑顔だった。
上目遣いに覗き込まれたその大きな瞳に、思わず胸がどきりと鳴る。
「灰谷くんがトモエちゃんのこと好きだなんて!」
口元に手をあてて、廊下に響くような大声で言った百花の言葉に、その一瞬も途端に冷める。
「バッ、バカ!」
真っ青に顔色をなくして飛びかかった灰谷の手が、百花の口を塞いだ。
声が消えた後の廊下は再びシンと静まっていた。
授業は既に始まっていて、部室棟となっているこの校舎に人気はない。
ふと冷静になれば、手のひらに押しつけられた唇は、昨日触れたものと同じ柔らかさで、頬と頬とが触れそうなほど近く、百花の顔が寄る。
ぱっちりと整えられた長い睫毛の瞳が、伺うように自分を見ていた。
「……わかったよ!」
慌てて百花を離して、灰谷が吐き捨てるように言った声が、再び廊下に反響した。
百花は心底嬉しそうににっこりと微笑んで、 それを睨むようにして一瞥し、灰谷は心の底からしみじみと思った。
――ああ本当に、オレはこの女が大キライだ!
部室棟と校舎棟とを繋ぐ渡り廊下へと差し掛かり、広がった空にそう怒鳴りつけたい気分で灰谷がふと、外へと目をやったときだった。
視界の向こうには、教師の車が並ぶ駐車場、そして学生食堂の裏手が見渡せる。
その食堂裏手、ゴミ集積所があるあたりに、さっと黒い影が差したのだ。
「………?」
眼鏡の奥で目を凝らすようにして注視すると、それは高等部生徒のブレザーの色であるとわかった。
自分たちはともかく、授業が始まったこの時間に、こんな場所にブレザー姿で?
「どうしたの?」
「わっ、バカ」
ひょい、と灰谷の肩口から覗き込むようにして視線の先を追おうとした百花の口元を押さえても、もう遅かった。
自分たちの話し声に気づいたらしいその影が、びくりと体を震わせて駆け出す。
「あ!」
明らかにそれは不審でしかなかった。やましいことがなければ逃げ出すはずなどない。
「ちょっと!」
思わず渡り廊下から飛び降りるようにして追い掛けた灰谷だったが、いかんせん、彼は忘れていた。……自分の体育の成績は、小等部からずっと、2だったことを。
「逃げちゃった、ね」
灰谷の後を追うようにしてやってきた百花が、息を乱すこともなくぽつりとそう言って、彼らが去っていった方を見やった。
灰谷は肩で大きく息をして、こんな僅かな距離でもぜえぜえと喘ぐ自分の豊満な肉体を恨めしく思う。
それでも収穫はあった。これはできる限り早く、生徒会長の黒崎、そして藤篠十巴に報告すべきだろう、と灰谷は一人頷く。
――逃げ去って行ったブレザーの影はひとつではなく、三つ。
そして、翻ったネクタイの色は、きれいに青、赤、緑と三色揃っていたことを。
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