呉ノ朱

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  三.  

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「………こっちだ」
ひなびたのれんをくぐれば、油井は、あまりにもその座敷に溶け込んで、板わさに焼酎か何かで晩酌をしているようだった。
靴を脱いで、上がる。
まさか今日一日、こんなに何度もこの男と顔を合わせ、密会を重ねるだなんて。
秘密の恋人でも、あるまいし。
「あ、生で。あと、天せいろください」
口を開きかけた油井を無視しつつ、さっさと注文を伝えて、ようやく向き直った。
「まさか、交換したらとっとと帰れ、なんて言うつもりじゃないでしょう? ご飯くらい食べさせてよ。マトモな食事、食べ逃すと大変なんだから」
言って、鞄の中に手を突っ込んだ私に、瞬間、油井がギョッと目を剥く。
なんだ、この男、ちゃんと見開けば結構パッチリした目、してんじゃん。
「……大丈夫だってば。そこまでデリカシーなくもないから」
おそらく彼は、そのまんまのブラジャーがテーブルに置かれるとでも思ったのだろう。
だがテーブルに載ったのは、ゲームソフト屋のビニール袋に入った、柔らかそうな物体で、明らかに、油井は安堵していた。
「ありがとう」
やっぱり私の目を見ずに、彼は礼を言った。
入れ替わるように、テーブルの上に、見慣れた社名の入った袋が載る。
「バカだねー。会社の袋なんかに入れて、誰かに拾われたら大変だよ?」
「そ、そうか。すまん」
狼狽しているせいだろう。後ろ暗いことがあるせいだろう。不気味なほどに、彼は素直だった。
私は手元にようやく届いたジョッキを持ち上げて、油井へと差し出す。
「ハイ、カンパイ」
「何に……カンパイするつもりだ」
油井はぴくりとも手を動かさなかったので、勝手に油井の焼酎グラスにチンッとぶつける。
「秘密の共有に、かな。善き理解者、ってのとはちょっと違うだろうし」
「理解者?」
口の中に広がる、ほろ苦い泡と刺激。血液が浄化されていく感覚さえ覚えながら、酒の魔力の虜になりつつあった私の視界の隅で、油井の肩が一度落ち、続いて、ため息。
「………言っておくが、私は下着泥棒では、ない」
「じゃあ、スタイリスト。下着コレクター。女装癖。オカマ。さーあ、どれだ」
瞬間で油井の瞳が一度見開かれて、うつむいてしまった。
オイオイ、あんた営業様だろ? こんなカマかけにもうまい切り替えしができなくて、よく勤まるな。やめちまえ。
そんな毒のある言葉は、いまはただの弱い者イジメになりそうだったから、引っ込める。
沈黙。
沈黙、沈黙、沈黙。
もう天せいろも、すっかり食べ終わってしまった。
「……じゃ、私行ってくるわ、あの店」
「え」
うつむいたままの油井を置いて、私は立ち上がる。
「その方がてっとり早くいろいろわかりそうだし。大丈夫だよ、アンタのこと調べようなんて全然思ってないから」
まただ。またあの、すがりつくような目。 勘弁してほしい。
何が悲しくて、バツイチの、おそらく自分より5歳は年上の男にあんな目で見られなきゃならんのだ。
振り切るように笑顔で手を振って、私は店を出た。


そのソバ屋脇、大通りからちょうど一本、入る道がある。
道の名前を俗称、ヌキサシストリート。
いわゆるちょっとだけ苦労しちゃうかもしれない人生を歩いてる人たちが棲むこの街に倣って、ヌイたりサシたりするから、という説と、この界隈に用がない人間は抜き足差し足で通り抜けなさいよ、という、マイノリティな彼らならではの少々お下品かつ少々排他的な意味がこめられている。らしい。


「ウェールカーム!!」
「わあ、盛況オ!」
通りの中ほどまで進んで右折、見えるのは紫のけばけばしい看板。落書きいっぱいの階段を上がれば、もうそこは、店内だ。
見事なことに、客は私しか、いない。もちろんさっきの言葉は単なるイヤミだ。
赤紫のふわふわした羽をはためかせて、笑顔で迎えてくれたハズの絶世の美女(ちんちんついとるがな)、は、私の顔を認識するやいなや、瞬時にその営業スマイルをひっこめてしまった。
なんだよ、失礼な。
店の名前を"マダム・バタフライ"、一言で言えば、オカマバー、である。
「ちょっとォ、外道が来たわよ、外道がっ!塩まいて!」
オエ、と舌を出してみせたのは、古蝶という名のここのナンバーワン。
彼女とはまだ数年のつきあいだが、まあいろいろな事情もあり、店の関係を抜きにして親友と、呼べるかもしれない。
私は認めないけど、あっちがそう思いたいっていうなら、そう思わせてやってもいい。
実のところ、私はこの店にとって相当な上客には違いないんだけど、もはや家族みたいなものっていうか実際家族なのでそれはともかく、初めてここに来たときから、とにかくこの彼女も含めてこの店が、好きになった。
「古蝶、なんかすごいわよその目元」
「いいでしょ。孔雀の羽よ」
つけまつげに加えて羽をまつげに見立てた豪奢な目元を細めて、ふふん、と不遜げに笑ってみせても、やはり彼女は美しかった。
「月子さん、なんだか今日は元気そうですね。よかった」
注文を出すまでもなく、カウンターにすっと、キープしてあるボトルが置かれ、焼酎が注がれる。
身体から力が抜けて、何かが浄化されていく心地にさえなる柔らかな笑顔。
「蛍ちゃんは今日も優しいねえ。どっかのオカマと違って」
灰皿を差し出した手をそっと握る。少し困ったように眉を寄せて微笑む、カウンター越しに立つ、一見少年にさえ見えるこの少女もまた、私のお気に入りだった。
「お客さーん、おさわりは代金いただきますよォー」
のしり、と背中に重い感触。きれいなラインで描いた細めの眉をつりあげて、古蝶が言った。
そのまま手が伸びて、くわえた煙草に火がつけられる。
「悪いけど、いくらだって払うわよ。この瞬間だけが生きがいなんだから」
紫煙があがるのを待って、シッシ、と手で払った私は、にっこりと蛍に笑いかける。
「あんまり触んないでよ。蛍がニンシンしたらどうしてくれんの!」
「できるかバカ!こっちはタマもサオもついてねえんだよ、おあいにくさま!」
端から聞いていたならば、どっちが戸籍上・女でどっちが戸籍上・男かわからない会話だろうと思う。
冗談めかして聞こえる古蝶の言葉が、実は結構、彼女……いや、彼の本音であることを知る人間は少ない。
少しずつカウンターへと擦り寄った私の鼻の穴に指をつっこんで、古蝶が私と蛍とを引き剥がしにかかった。
この、蛍という少女。
どうしてオカマバーのバーテンダーを少女がしているのか、という疑問は、この店に来た誰もが一度は抱くことのようだったが、毒々しいこの店のスタッフの中で、唯一、清涼な空気を漂わせる彼女に、いまや特有のファンがついているのも確かだった。
「ところでアンタ、昨日あれから大丈夫だったの?」
「そう!それ!」
ぐっと焼酎を喉につまらせてしまった私の隣で、並んでカウンターに座った古蝶が、勝手に私のボトルをつぎはじめる。
一杯いただいてもよろしいですか、なんて殊勝な言葉は、ここに来た初日以来、お耳にかかったことがない。
「まいったわよ、記憶なくすなんて生まれて初めてだしさ。一体何が…………」
そこまで言いかけて、店のドアにつけられたベルがカランカランと鳴る。
「いらっしゃいませぇー!」
ダミ声の合唱のような声につられて、私もまた、ドアを見やった。
随分と、背の高い女、だった。おまけに体格もいい。
それが女ではなく、女装した男なのだと、気づくまでにそう、時間はかからなかった。
太陽の下でなら違和感を感じたかもしれないカツラと化粧。
流行を追っているにしろ、体格のせいで似合っているとは言いがたいファッション。
こういう客はここでは珍しくはなかったが、こうして見ると、改めて、古蝶たちの努力がどういうものか思い知らされる気が、する。
「あら、ユイちゃん。二晩続けてなんてめずらしい」
そのユイちゃんは一言も発さずに、ただうつむいたまま、はにかんだようにこくりと……………
…………ユイ?
「あ、月子、あの人よ。昨日……」
背後にかけられた古蝶の声に応えずに、そっと私の隣を通り過ぎようとした、そのユイ、という名の女装子(というらしい。専門用語、で)の肩をつかんだ。
ヒールを履かずとも、小柄な山下よりはずっと高い私が、ヒールを履いてようやく、彼女と肩を並べられる。
「昨日はどうも。ユイちゃん」
「………………」
私はにっこりと笑ったまま、顔を隠すかのように俯いたままのユイちゃんの肩をつかむようにして、奥のボックス席へと連れていった。
「古蝶ォ、私今日、ここで二人でじっっっくり飲むから、つかなくていいからね」
つかなくていい、というのは、接待不要、ということで。
元々、一人でカウンターで蛍相手に飲む客である私は、そんなことを断る必要もなかったのだけれど。
古蝶はヒラヒラと手を振って、それに応えた。


ユイ、と共にソファーに座って10分。彼女、は、一言もしゃべらなかった。
ユイの来店からすぐに、常連の騒がしい客が数人、入ってきて店はいつもの通りのにぎやかさを得た。
もう私たちの会話が誰かに聞こえる心配も、ない。
「別に、秘密にしてたって、よかったと思うけど」
ボトルはもう一本、空いていた。
新しいボトルを運んできた蛍が、細やかな手つきで、ユイの前に置かれたオレンジジュースのグラスについた水滴を、そっと拭う。
本来これはホステスの仕事なのだけれど、それが不在ないま、初めはスクリュードライバーさえ作れなかった蛍が、よくここまで気がつくように成長したと、微笑ましく思った。
「わ、笑いたければ、笑え 」
ユイは低くそう言って、ストローを唇から離した。ストローに、赤く紅がつく。
その左手、薬指のあたりはかるく窪んで、長い間そこに金属の枷があったのだと、佳奈子の言葉を思い出していた。
「あははははははははは!」
「笑うな!」
――――--どっちだよ。
棒読みの台本のように笑ってやれば、ユイは眉根に深い皺をきざんで、キッとこちらを睨みつけた。
あ、ちゃんとアイラインまでひいてるんだ。
「リコン、したんだってね。あれから"本宅"の人に聞いたよ。……やっぱ、ソレが原因?」
顎で彼の服装を指し示すようにすれば、眉間の皺はいっそう深くなる。
正確にいえば、それは佳奈子からのリーク情報で。
"専務の娘と結婚して3年近く、うまいこといってたハズなのに、突然離婚。おまけに左遷"というメールに対して、その真相というやつは、決して返信できないけれど。
こくりと、ようやくユイが頷いた。
「で、誰かにぶっちゃけたかった、とか?」
何気なく問いかけた言葉は、図星なようだった。
ユイがようやく、こちらをまっすぐに見た。
ふさふさとしたつけ睫毛をつけて、紅をさして。
どちらかといえば華奢なほうで、顔立ちもすっきりとしていた"油井"のことだったので、実のところ、女に見えなくも、なかった。かなり、きわどいラインでは、あったのだけれど。
「集めてた服とか化粧品とかが奥さんに見つかった。女がいるのね!?浮気よ!離婚よー!…………って、そんなとこ?」
早口でその先を読んだ私を、ユイは見上げる。その瞳はきらきらとしていて、スゴイ、と、声に出すまでもなく、語っていた。
あたりまえだ。この店でどれだけそれと似たような身の上相談を聞かされたことか。
いっそのこと、一角を借りて「ムーンプリンセス・お悩み相談室」でも開こうかと思っていたくらいだ。
「妻には……正直に、話したんだ。愛してるのには変わりはない、と。でも、どうしてもこういう格好をして、お化粧をしているときが、し……幸せ、で……」
スカートをぎゅっと握った手が、震えていた。
――――--こういう人を、同じようなシーンを、私は何度も、見てきた。
彼女、らは、決して男が好きなわけではない。どうしてそういうふうになったのかなんて、専門家ではない私は知らない。
抑圧がどうとか、そういう話も聞くけれど、どれが本当かなんて、実のところ、いま現在既にそうなってしまった人間には、関係ないんじゃないか、なんて、思う。
ただ、不幸だ。
自分の心地よいと思えることが、人にとっては嫌悪でしかないことは、悲しい。
でも、それを総てに向けて願うのは傲慢という他なくて、だから、私はこの店が、好きだった。
「じゃあいまは、幸せなんでしょう」
おっと。思いがけず、優しい声が出てしまった。
「いいんじゃないの、終わっちゃったことは。しかたないじゃん。その奥さん、合わなかったんだわ。それだけのことだよ」
「それだけのって……!」
まるで私が悪いことでも言ったかのような気分にさせられる声で、ユイは私を向いた。
私は一度、肩をすくめる。
「なんで、自分の幸せを追求しちゃいけないのよ。しかたないじゃない、そういうアンタになっちゃったんだから。それで誰かが泣いたって傷ついたって、やめられないんでしょう?」
ああ、いやだ。
これ、ユイに言ってる言葉じゃない。
ほんとはこれを言ってやりたかった大切な人が別にいて、でも、その機会を失ったまま、今に至っている。
もしかしたならいま、彼にも聞こえているのかもしれない、なんて、頭のどっかでちらりと思う!計算高い自分が、いやになる。
「傷つけたって泣くくらいなら、隠し通せばよかったのよ。それができなかったのに、いまさら傷つけた相手を思って泣いて、もうどうにもならないことをぐちぐち悩み続けるのは、ただの自己満足」
「!」
どうして急に、こんなに苛立ち始めたのか、わかっていた。
その人が大切だからこそ、言いたかった言葉と、言えなかった言葉。
ごめんね、ユイ。あんたを責めてるわけじゃないんだ。ムカついてるけど。
灰皿にはもう、消す場所が見つからないくらいこんもりと、煙草が溜まってしまった。
蛍がそれを換えにこないのは、いまのこの雰囲気を壊さないために違いなかった。
「……いいじゃん、そのアンタで。カワイイよ。少なくとも私は、会社でのアンタよりよっぽど、好きになれそう。――--こういう人間も、いるのよ」
まあアレだ。古蝶に”ゲテモノ喰いの節操なし”とアダ名される私が言っても説得力皆無だけど。
箱に残っていた最後の一本を吸い終えて、私は肩をすくめた。
彼は…………泣いていた。
「ちょっと古蝶、タバコー」
この店で、古蝶と私は同じ銘柄を吸っている。
だからそう背後に向かって声をかけたのだけど、すっと差し出された手は、古蝶のものではなかった。
「ありがと、蛍」
蛍は、一度、微笑んだ。
この店で……蛍と古蝶、そしてママだけが多分、気づいたはずだ。
いま私が言った言葉は、彼にじゃない、"あの人"に向けてずっと言ってやりたかった言葉だったんだ、なんてことに。
くやしいから、多分一生、本人には言ってやらないけど。
蛍は汚れた灰皿を替え、そっと、彼女の前にティッシュを置いた。
すすり上げた彼女は、女性らしい仕草で頬を拭い、つけ睫毛を落とさないように慎重に、目元を拭った。
その仕草にちろりと、胸の中に点る炎がある。
「ねえ。てことはさ、下世話な話だけど……奥さんとはちゃんと、してたんだよね?」
瞬間、あっけにとられた顔をして見開かれた瞳が一度、閉じた。
頷いた彼の、そのあまりに透明な泣き顔に、私は多分、欲情し始めている。
「でもほんとは……違うこと、考えてたり……した?」
憶測でしかなかったその言葉は、どうやらピタリと的中してしまったようで。
うつむいたその横顔を酒のツマミにしながら、滴った水滴を拭うように、私は思わずぺろりと、下唇を舐めた。
そう、こういう女だって、神様はちゃんと用意してくれているのだ。
世の中そう、絶望したもんでも、ないんだよ。
「蛍ちゃん、お会計」
「え……」
立ち上がった私を、すがるような瞳が追う。ユイの腕をつかみ、半ば無理やりに立たせた。
お会計、と言ったところで、私はこの店で一般的な方法で会計を支払ったことがない。
「ママ……ってゆうか、パパ。 給料入ったら、まとめて振り込んどくから」
「ここではママって呼んでってば!」
私のその一言に、隣の立っていたユイが呆然とした顔をさせたのは、見なくともわかった。
マダム・バタフライ。
遺伝子上は間違いなく、私の父親の、店である。
――――--そういえば、ユイって子供はいるんだろうか。
こういう親子関係も、大人になってみれば悪くないもんなんだぜ。
娘がよっぽどな変態か、ものわかりがいい場合に限るけど。こんなふうに、ね。
「じゃ、行こうか」
「え?え?」
おどおどと、まだ状況がわかっていないユイをひきずるようにして、ドアの方へと向かう。
領収証を両手で丁寧に手渡してくれた蛍が、帰りがけに言った。
「やっぱり月子さんと古蝶さんて、似てますね」
私が彼と話した会話の内容を聞いて、そう思ったのだろうか。
そう言って微笑んだ、多分私ではなく、私を通してその向こう側にいる古蝶を見ているであろう愛らしい笑顔に――――親友に対する嫉妬を覚えながら、私はひらひらと、手を振った。
マダム・バタフライ。その名前にふさわしく、ちょうちょのように。
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