呉ノ朱

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  一.  

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目が覚めて、ここが自分の部屋でないことに気づいてまず一度驚き、ラブホテルだとわかって二度びっくり、した。
「……なんだ、起きたのか」
低い声に、三度目の驚き。
ぼんやりとした視界に男の影が浮かんで、慌てて私は、両手で周囲をまさぐるようにして眼鏡を探しかけて、見えることに気づいた。
……コンタクトをしたまま、寝ていたのだ。
少しずつクリアになる、たんぱく質で白くぼやけた視界に、まったく見知らぬ男が立っていた。
スッとした、スーツ姿。年のころは30代半ば。
にこりともしない、すっきりした顔立ちによく似合ったその無表情が、かえって印象的だった。
と、瞬間で、見とれている場合なんかじゃないのだと気づく。
かけられていた布団をめくって、まずパンティを確認する。
処女であるはずもなく、別段そんなにたいそうな貞操というわけでもない。何かあったからといって怒る彼氏もいやしない。
それでも慌てて確認してしまったのは、女としての本能、というやつなんだろうか。
それに気づいたらしい男が、不服そうな声で答えた。
「……何もしていない」
「そ、そうですか……」
至極冷静な声。
よく見れば、その男の美醜は決して悪くはないので、一発や二発、むしろ枯れ果てた生活に訪れた一晩の蜃気楼、とでも思って忘れられる範囲だったのだが、そんなことを考えている場合でもなく、とりあえず起き上がると、床に転がった服へと手を伸ばしかけて、その隣、同じように転がっていた時計の文字盤が目に入る。
「あーっ!会社!」
「安心しろ、まだ朝の6時半だ」
文字盤がひっくり返っていたせいで、12時5分と錯覚した私の心情を察したかのように男は言って、ネクタイを締め上げる音がかすかに聞こえる。
その背中を、私はおずおずと、見た。
「あのですね、一体、何があったんでしょう……か?」
「君は昨日、一人で飲みに行った。それは覚えてるだろう?」
間髪入れず、男が口を開く。彼はベッドから斜めに覗くことができる洗面所の鏡の前で、剃刀を持ち上げた。泡をつけた顎に、そっと刃をあてる。
ただそれだけの仕草のはずが、妙に艶かしく感じて、思わず見とれる。
「ええ」
「私は君にその飲み屋で絡まれていて、そして君は酔ってツブれた。仕方がないからここ泊まった。以上」
淡々と説明して、剃刀を振る。灰色に変わった泡が、洗面台へと滴るのが見てとれた。
「……で、何も?」
「君もいい加減、しつこいな!」
あえてそう問うたのは、彼の言葉を信じていないからではなく、それこそ浴びるように酒を飲んだとしてもこんなふうに記憶をなくすことなんか一度だってなかったからで。
「だって、仕方ないでしょう!?こんなふうに記憶なくしたことだってなかった んだし!」
つられて、私まで怒声になる。
そしてもうひとつ。
――――ブラジャーをつけて、いないのだ。
胸元までたくしあげた毛布を、苛立ちのままに握り締めた。
まだ顎に泡を残した男が、ぽつり、と呟くように言った。
「誰が君みたいな人に」
それは独り言だったのかもしれない。
でも、聞こえてしまったらそれは独り言とは言えなくないか?
「聞こえたわよ!」
「ああそうかい!それは良かった!」
泡を洗い流した彼は乱暴に言って、私に向かってタオルを投げつけた。
「言っておくが、私は助けてやったんだ!人に当り散らす前に、自分の失態を責めろ!」
まるで、上司が部下を怒鳴りつけるかのように言って、彼はベッドの片隅に転がっていた黒い鞄を手に、背を向けた。
私が二の句を告げずにいる間に、ドアが荒々しく閉まる音がして……そして、沈黙。
「……そのとおり、よね」
その反省の言葉も、名前さえ聞くこともできないまま、去っていた背中にただ視線だけを注いだ。






「あれ、水野さん……早いですね」
「おはよ。アンタ、目の下真っ黒だよ」
出社時間よりも1時間も早く出勤した私に驚いた顔をさせた山下は、目の下に真っ黒なクマを作って薄笑いを浮かべている。
〆切の迫ったゲームプログラマにとってはディフォルトといえる表情に苦笑した私に、彼は尚も力無く、笑いかけた。
ダメだ、魂が抜けてる。
「明日〆のアレに、大量のバグが見つかって……」
「あーあ。ま、これも試練だ。そのうち慣れるよ。がんばんな」
たいして同情することもなく、ぽん、と彼の背中を叩いて、自分のパソコンを立ち上げた。
この職業を選んでしまった以上、こんな修羅場、あたりまえの話である。
すべてのゲームプログラマがそうだなんて決して言わないけれど、すっごく給料がいいかわりにすっごく過酷な労働で知られるこの会社では、ひとたび大きなプロジェクトが動き始めれば、何日も会社に泊り込むのは当たり前のこと。
同僚の中には、帰れない余り元々住んでいた家を解約し、荷物はトランクルームに預けて、会社近所のネットカフェに棲みついている奴さえ、いる。
フロアの男子トイレに「会社に住まないでください!」だとか「洗面所で体を洗わないでください!」だなんて張り紙がしてあるオフィスはきっと、稀だ。

さて、あれから。結局、家には帰らなかった。
この仕事に就いて8年、改めて今日、自分が「徹夜上等!」な、ゲームプログラマという職を選んでいて本当に良かった、と、思う。
会社には最高一週間、家に帰らずともなんとかなるだけの服だとか、化粧品だ、とかいう蓄えがあった。
最も、化粧なんてまず滅多に会社では、しないんだけどさ。

「なんか……水野さん、いい匂いがするんですけど……ひょっとして、朝帰り、っすか」
「なに言ってんだバカ。仕事しやがれい」
内心ギクリとしながらも苦笑して、ほぼゾンビと化した山下の椅子を、足で蹴った。
蛇足だが、彼がいま必死で組んでいるプログラムもまた、ゾンビゲームだというのだから、皮肉なものである。

――---そう、山下にだけは知られるわけにはいかなかった。

10近くも年の離れた私を、彼はまるで神か何かのように慕って(正確には私が組んだゲームを、なのだが)、私もまた、数少ない部下の一人として、憎からず思っている。
彼は、ごく一般の男子よりも背が低く、顔立ちも可愛らしい。
20代前半という年齢のせいだろうか、徹夜明けでも肌はつやつやとして……周囲の席にごろごろと河岸のマグロように寝転がっている猛者たちの中で、輝きを放っていた。
そのマグロたちにならば、「きのーさー、うっかり知らない男とヤッちゃってさーガハハ」なんて言える私でも、面接で瞳をきらっきらさせて「水野さんのようなプログラマーになりたいんです!」なんてキュンときちゃう言葉を言い放ってくれやがったこの山下に、まさか、「酔っ払って意識なくして、知らない男とホテルにいましたー!テヘッ!」なんて………………………言えるか!
そのささやかなプライドが上司としての立場なのか、姉的な矜持なのかはわからない。とりあえず恋心では、ないんだけどね。

おまけに。
私はそっと、手首のあたりで胸元を押した。ふにゃりとした、心許ない感触。
――――--ブラジャーが、ないのだ。
否。ただ、失くしただけだったら、どんなに良かったか。
今朝、あのホテルの部屋で、散らかった服の底から見つかったのは、見覚えのない、一枚のブラジャー。
しかも、雑誌でしかお目にかかったことがない、超高級ブランドの、レースがふんだんにあしらわれた可愛いブラジャー。サイズもでかい。
私はもしかすると昨夜、あの店でストリップショーでもして、店の誰かとブラジャーを交換でも、やらかしたのだろうか。
…………ありえない、話ではなかった。行きつけの店が、店だけに。
そんなわけで、正体不明のブラジャーは、いま、私の鞄の中。
私の、通販で3枚1980円のブラジャーは……一体どこへ消えたのだろう?
「み、水野さん?」
不安げな山下の声にハッとする。
思わず、キーボードをこぶしで叩いてしまったようで、始業時間より早く人が少ないとはいえ、他のブースの人間までが、視線をこちらに向けた。
「いや、ちょっとね、ヤなことあってさ」
眉をひそめて、笑う。 と、山下は私なんかよりよっぽど悲壮感漂うため息を吐き出して、
「オレもっスよ……」
と、呟いた。
「昨日、水野さんが帰ってから、ボス、営業とやりあっちゃって」
「あー、納期のことで? 倉沢さん、クオリティ最優先だもんね」
私はちらりと、ブースの最奥、うず高く積み上げられた資料や食玩やらで魔窟となったテーブルに、死人のように眠る我らが部長を見やった。
どんな仕事にも、締め切りというものが存在して、生産コストというものも存在する。
私たちが命を削ってまで作っているものは一見、ただの数字の羅列にしか見えないが、ひとたびそれが動き出せば、もしかすると日本中、世界中の子供たち、大人たちが瞳を輝かせる、宝石のような代物にかわる。
その宝石の芸術品としての輝きを重視する人間と。売りさばくための鮮度を重視する人間と。
どちらも間違いなんかじゃなくて、正解なんだけど、それでも私たち現場側の人間にとって、一番の敵は実は他社なんかじゃなく、同じ社内の、別のフロアに存在していた。
「油井って営サンの課長がね、もーホント、ムカつくんスよォ!!」
「ユイ?」
聞き覚えのある名前に、私は頭の引き出しを懸命に開ける。
いっそのこと、頭の中もデータベース化して、検索ボタンを押せば瞬時に記憶が引き出せるようにできたなら、どんなにいいか、と、いつも思う。要するに、忘れっぽいのだ。
「あー、なんか、騒いでたわ、同期の広報部の子が。キレ者、なんでしょ」
「おまけになんかこう、エリート、って雰囲気ってゆうか!でもアレ絶対、爬虫類っスよ!」
思い出し怒り、というやつなのか、興奮した山下が声を荒げた。
山下の言葉に浮かんだのは、間違いなく、朝のあの男で。
もう既にぼんやりとし始めている彼の姿を思い出し始めていた私は、山下の言葉に背後を振り返った。
「噂をすれば……ですよ」
一見では黒にさえ見える、中間グレーのピンストライプの入った濃いグレーのスーツ。紫の、斜めストライプの効いたタイ。洒落者だ。
視線を上げて、顔を見たときの私の表情は、おそらく、そのキレ者営業三課課長と全く同じ顔をしていたんだろう。
「!!!」
すっかり硬直してしまった私とは裏腹に、さすが、というべきか油井課長は瞬時に表情を戻して、倉沢部長のブースへと、まっすぐに進んできた。

――――――-まさか。まさか、まさかまさか。
朝、ラブホテルで別れた男に、こんなところで再会する、なんて、だ。
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