呉ノ朱

小説一覧 作品紹介 よくあるご質問 他サイトへのリンク 御感想はこちらへ 文字サイズ 大 中 小



 
  最終話.  

人物紹介・作品解説へ
 
「怪我、もう大丈夫なの?」
放課後、並んで校庭際のベンチに腰掛けた乾を見上げながら、琴子はその身体を眺めた。
乾の身体のあちこちにはまだ包帯が残されていたが、たかだか数日で、もう殆ど支障なく日常生活を送れるまでに回復したのだという。
目の前にはサッカー部が、変わらない練習を行っている。
乾は柔らかく微笑んで、頷く。
「先生たちには驚かれたけどね。奇跡だって」
そこまで言って、乾は琴子の表情に言葉を止めた。
琴子はまた、常のことを思い出して、胸が切なく締め上げられる。
あの日、常が夕陽の中に消えてしまってから、琴子と乾はたくさんの話をした。
だが驚いたことに、乾は自分に取り憑いていたもののことも、常のことも何一つ、憶えていなかった。
乾だけではなかった。学校中の誰に聞いても、帚木常という少し風変わりだった転校生など、存在していない。
琴子はまるで、自分だけが夢を見ていたのではないかと思った。
長い長い、夕暮れの景色が見せた、蜃気楼のような夢を。
だがあれが夢だったとしても、現実だとしても――もう、確かに常はいないのだ。それだけは変わらない。
「早乙女、ってさ。時々そうして寂しそうな顔、するよね」
「あ……」
自分を見ている乾の瞳もまた、寂しげだった。
琴子は無理に微笑んでみせたが、乾は優しく、首を振る。
「俺、早乙女の言ってた人のこと……何も憶えてないけど、ひとつわかるんだ。早乙女、その彼のことが、好きだったんでしょう?」
「…………」
違う、と、否定することはもう琴子にはできなかった。
それでも乾がこうして生きて隣にいることが、嬉しい。例えば常が残り、乾を失ったのだとすれば、自分はきっと、いまと同じ表情をしてここに座っていたのだと思う程に。
「それでも、一緒にいてくれないかな」
乾の包帯の巻かれた手が、そっと琴子の手を握った。
琴子は跳ねるようにして乾を見る。乾は照れたように頬を赤くして、少し琴子から目を逸らした。
「試合には、出れなかったけどさ。俺、やっぱり早乙女が、好きだから。早乙女がその人のこと好きなままでもいいから……つきあってほしい」
乾が握る手の温かさが染みて、そうして乾が生きていること、もう常がいないのだということがたまらなくて、琴子は泣き出してしまった。
答えることが、できない。
乾をずっと好きだった。その自分はまだ死んではいないのだと、乾の告白に僅かでも喜んでしまう自分を琴子は責めた。
「ごめんね、乾くん」
泣き顔を上げると、乾は傷ついたような瞳をしていたが、それでも微笑んでくれた。
「……なんでだろ。早乙女に泣かれると、たまんない気持ちになる」
その乾の戸惑ったような表情が、常のそれに重なって、琴子は唇を噛みしめた。
乾の手の下から、自分の手を抜き取り、立ち上がる。
「もう、行くね。早く部活、出れるといいね」
「ありがとう。でも俺……あきらめないよ」
立ち去ろうとした琴子の背中に、乾が声をかける。
乾は笑んだままで、それだけ言って、手を振った。
この笑顔が好きだった、と、琴子は振り返って見たその乾に切なくなる。
乾を選べたら……どんなにか幸せかも、きっと知ってる。
好きだった。ずっと、好きだった。多分いまも、とても好きだ。それでも選べないのは……もうひとりを失ってしまったからに他ならない。
――-- 自分はもう、常を知ってしまった。
ふと、琴子の中に、ひとつの考えが浮かんだ。
駆けるようにして、放課後の校舎へと戻っていく。
逢魔ヶ時。その言葉が本当ならば、常に、もう一度逢うために。




「……こっくりさん、こっくりさん……」
オカルト研究部、部室。
記憶を辿って、こっくりさんのやり方を思い出しながら、机の上に広げた和紙に指を伸ばす。
また、これで変なものに取り憑かれるかもしれないという危惧は、琴子にはなかった。
それならばとり殺されてしまっても構わないとすら、思っていた。
「常……答えてよ……」
和紙の上の十円玉は動かない。何度も何度も、言葉を繰り返す。
と、突然、指がすい、と、和紙の上を滑り出した。
「あ……っ!」
和紙は文字を一文字一文字、囲むようにしてゆっくりと言葉を綴っていく。
「な、に、やつてるんだ、こ、の、ば、か……って、常!?」
琴子は驚きながらも、そこから指を離すことはしなかった。
常が、降りてきてくれたのだろうか。思わずきょろきょろと部室内を見渡してみても、何の気配も感じられない。
「常……ねえ、どうしたらあんたにもう一度逢える……?」
指が少し沈黙した後、す、と動いていく。
――あ、き、ら、め、ろ。
琴子は顔を歪めた。諦めることなんてできない。
「だったら私のこと連れてってよ!じゃないとまた悪戯するよ!?」
叫ぶようにしてそう言うと、指を乗せた十円玉が、速く和紙の上で回る。
――こ、の、ば、か。
あまりにも常らしい言い方だったので、琴子は少し笑った。
その文字は常の声となって、琴子の胸に響いて切ない。
「文字じゃなくて……あんたの声で……聴きたいのに……」
ぽつりと落ちた涙が、和紙の文字を滲ませる。
十円玉は、弱ったようにふらふらと和紙の上をさまよっていた。
――な、く、な、よ、こ、と。
ふわりと風が琴子の頬を撫でて消える。それはまるで常がそうしたようで、琴子は顔を上げた。
誰もいない。
そのことにたまらなく寂しくなって、唇を噛むと、再び指が文字を綴った。
――そ、ん、な、に、わ、し、が、す、き、か。
常らしい、不遜な言い方。あの自信気な表情で琴子の瞼にすぐに蘇らせることができる。
「バカ」
琴子はまた、笑った。きっと常も、笑っているだろう。
窓の外から赤い夕陽が部室を染める。
これからは逢魔ヶ時に、常にこうして逢えるのだろうか。
文字だけでしか語ってはくれないけれど、常がまだ何処かに存在しているということだけで、塞いでいた琴子の心が少し、軽くなったように思えた。
突然、部室のドアがノックされる。
その音に驚いて、琴子は思わず十円玉から手を離してしまった。
部員の誰かだろうか。
「は、はい」
「――早乙女?」
ドアの向こうの声は、乾のものだった。
古びた木のドアは軋みながら開いて、制服姿の乾が部室へと入ってくる。
瞬間、いつだったか常がこの部屋に来た時のことを思い出して、また琴子の胸はちくりと痛んだ。
「探してたら、声が聞こえたから。オカ研の部室って初めて入ったよ」
乾は物珍しそうにきょろきょろと狭い部室内を見渡して、微笑んだ。
琴子は慌てて机の上の和紙をしまって、乾を向く。
「どうか、したの?」
さっき琴子は乾の告白を断ったばかりなのだ。それなのにこうして顔を合わせるのは、気まずい。
乾はああ、と呟いて、琴子の方へと来た。
「言い忘れていたことがあって」
乾は微笑んだままで、琴子のすぐ近くへと立ち、すっと手を上げる。
そして突然、琴子の頭を……叩いた。
「このバカ」
「!?」
呆気にとられたままで、琴子は目の前の乾を見上げる。
乾の声が、懐かしいものに変わっていく。姿形は乾のままで、視線と声だけがあの不遜な色を帯びていた。
「またこんなことしおって、誰が苦労すると思っとる」
目の前で起こっていることが、琴子には信じられなかった。
乾が、常の声と目で琴子に語りかけている。
「と、きわ……!?」
いま軽く叩かれたばかりの頭のことすら、琴子は忘れてしまっていた。
「なんじゃ、その顔。わしに逢いたかったんじゃろう?」
呆然としたままの琴子の目の前で、乾の身体がぐにゃりと陽炎のように歪んだ。
さっきまで、たった数秒前まで確かに乾だった彼は、もう乾のあの短い黒髪と、精悍な顔立ちを失っている。
白い、血の気のないような肌。茶色く透ける、長めの前髪。細められた瞳。
――--会いたかった人が、そこにいた。
「逢いたかった……けど、あんた、まさか乾くんに取り憑いて……!?」
もう乾のものではない唇を、ふてくされたように尖らせて、常は軽く、琴子の頭をはたく。
「人聞きの悪いことを。あのな、あの時、乾はヤツと同化してたじゃろ」
「う、うん」
常は不機嫌そうに眉根をひそめて、一度息を吐いた。
感動的な再会のはずだ。それなのに、琴子はただただ目の前の出来事を理解できずに立ち尽くして、きっと間抜けな顔をしているのだと思う。
「つまり乾を形成する魂の半分はヤツに喰われとった。その半分を埋めるのに、わしが入った。そういうことだ」
「じゃあ……これからも、ずっと……?」
琴子は乾の、常の身体へと手を伸ばした。確かめたかった。
目の前の、乾より少し高い背の常は、今度こそ体温をもって、琴子の前にいた。
だが、その表情は暗い。
「いや」
ふっと常が窓の外を見やる。窓の外はもう赤ではなく、紫に変わり始めている。
「この逢魔ヶ時、夕暮れの時刻から丑三つ時まで……その間だけが、わしの時間だ」
常がに、と笑った。
ようやく琴子は、常が確かに常なのだと、安堵する。
――逢いたかった。
安堵が涙を呼んで、琴子は堪らずに常の身体にしがみつくようにして、抱きついた。
「なあ琴子、わしが好きか?」
くつくつと常が笑う。琴子のこの数日の苦しみも、悩みも総てわかった上で笑っているのだと気づいて、琴子は眉根を寄せた。
「あんたなんか……大キライ」
「ふうん」
悔しい。いつも常はこんなふうに、琴子を翻弄するのだ。
常は尚も可笑しそうに目を細めて、そうして軽々と琴子の身体を抱き上げた。
常と同じ視線に なって目が合えば、気恥ずかしいような、こそばゆいような、不思議な心地で目をそらしたくなる。
だがそれを、常の強い瞳は許さなかった。
「わしは、おまえが好きだがな」
「……バカ!」
琴子は常の首に腕を回して、強く抱いた。
常が少し首を傾けて、片眉を上げる。そしてちろりと琴子を見た。
何を求めているか、もう琴子にはわかっていた。
琴子はそっと顔を近づけて、常の唇に自分の唇を重ねる。
いままでにした、常のひんやりとしたそれではなく、人間の温かさをもったその感触は、他の何よりも琴子を安心させた。
が。
そっと離れて、目を開くとそこに常の顔はなく――顔を真っ赤に紅潮させた、乾が、いた。
「さ、早乙女……っ!?」
がく、と琴子の身体が揺れて、床に降ろされる。
乾の傷ついた腕で、琴子を抱き上げていることはできなかったに違いない。
床に足をついた琴子は、目の前でうろたえている乾と同じく、顔を染める。
「なんで、俺、その」
「いいい乾くん……っ」
乾はどうして自分がこの部室にいるかもわからないように、慌ただしく周囲を見渡したり、琴子を見ては目を逸らしたりを繰り返していた。
突然、琴子の耳の奥で常の声がする。
『すまん、まだ力が安定しとらんようだ』
少しも悪びれる様子のないその声に、琴子は思わず、拳を握りしめた。
「もう、ほんとバカ!!」
「え……!?あの、ごめん!」
顔を赤くした乾が、泣き出しそうに顔を歪めて、立ち尽くしている。
琴子は慌てて乾に弁解しながら、なんとなく嬉しくなって、笑った。
逢魔ヶ時の通り過ぎた空は、月が昇り始めて明るかった。
前頁へ
  このページのトップへ
小説一覧へ
   
     
サイトマップ サイト概要 お問い合わせ  
Copyright(c)2004 - Kurenoaka. All Rights Reserved.