呉ノ朱

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  六.  

人物紹介・作品解説へ
 
床に崩れた常を後目に、病室を出た"乾"は、琴子を何処かへと連れていった。
黒いもやがかった視界が晴れるのも、一瞬のことだった。
そうしてやってきた先、見覚えのある景色に琴子は僅かに驚いた。
――--学校だ。
学校の裏、茂みと木々に囲まれたところにある、小さな祠のようなものの前に、琴子は座り込んでいた。
その祠はぼろぼろに朽ちていて、こんなものがあったことも琴子は知らなかった。
乾の姿をしたその男は、琴子の前に立ったまま、遠くを見やっている。
学校は丘の上に位置していて、男の眼下には街が広がっているはずだった。
「乾くんを……返して!」
琴子は男を見上げて、睨み付けた。もう涙は出ない。
恋し、ときめいていた乾の姿。けれどその表情は乾の優しげなそれとはあまりにも違って、涼しげな目のままで琴子を見下ろしている。
『いい目だ』
にい、とひきつるように男は嗤った。
男は二、三度首筋を伸ばすような仕草をして、するりと琴子の顎を掴んだ。
そうしてまた、嗤う。それは人間の表情ではもうなかった。
『自分がどういう状況かわかって、そういうことを言うのだな。覚悟のある女は、いい』
琴子は叫んでみたものの、震えが収まらなかった。
一瞬で、あの常を跪かせた。乾の形をしていても、乾ではない。
男の身体からひんやりとした冷気が琴子を竦ませる。だが、負けたくなかった。
「どうして……私なの!?」
『お主が儂を起こした』
すう、と男の目が細められる。その瞳が青く光って、琴子を射抜いている。
『お主の呼ぶ声に起こされて、見ればヤツが憑いている。ヤツが執着するような女だ、さぞかし……と思ったが、期待以上のようだな』
「……常……」
起こした、というのは、あの放課後のこっくりさんを指しているのだろう。
――--常も、私が呼んだ。
あんなことをしなければ、常が傷つくことはなかった。
けれど、あれをしなければ、常と出会うことも、なかった。
それでも結局は琴子の些細な悪戯心が総てを引き起こし、そして乾までも、巻き込んだのだ。
「じゃあ乾くんは関係ないじゃない!乾くんじゃなくて、私に取り憑けばいいでしょう!?」
『それは、違う』
男が膝を折って、琴子の目の前でしゃがんだ。
表情が一度歪んで、乾が元の乾に戻ったかのように、琴子には見えた。
『儂とこの容れ物の利害は一致した。この男もお主が欲しい。儂もお主が欲しい。それにはヤツが邪魔だ。……人間は甘言に弱い生き物だな』
「それって……!」
乾の顔に戻ったそれが、ゆっくりと琴子の頬に手を触れる。
そうして苦しげに目を細めた。
「――早乙女、ごめん」
「!」
琴子は目を見開く。乾がいるのだ、目の前に。
苦しげに呻いた乾が、泣き出しそうな顔をして琴子を見て、土の上に膝をついている。
「ごめん、俺、早乙女が……あいつとつきあってると思って、それで……」
「乾くん!」
乾は眉根を寄せ、唇を噛んだ。
琴子は思わず、乾の肩に触れる。その手を上から乾が包むようにして触れた。
『それで――契約したんだ』
にい、と乾の顔が歪む。
触れた手から、電流のように寒気が琴子の身体を走った。
『ほうら、人間は、甘言に弱い』
「いぬい……く……」
男の手はしっかりと琴子の手首を掴み、そこからまるで血液を抜かれるように、血の気が引いていくのがわかる。
どうしたらいいか、琴子にはわからなかった。
どうしたら乾は元の乾に戻るだろう。どうしたらこの乾に取り憑いた物を祓えるだろう。常は、どうなっただろう。
「私をあんたにあげたら……乾くんを、助けてくれるの」
琴子は決意を込めて、立ち上がった。
乾……男に掴まれた手首は痛んだが、もう震えはしなかった。
男の顔が途端に冷静なものに変わる。
「だったら……好きにすればいい!」
立ち上がり、男を見た琴子の中から恐怖は消えていた。
常が言っていた言葉が蘇る。琴子はもう、気づいたのだ。
――もうきっと自分は、数日前の自分よりは愚かではない。
男は落胆した顔をさせて琴子を冷たく見た。
『賢しい女は好みではない。…………興醒めだな』
男の腕がゆっくりと上がって、爪の先端が琴子の喉笛を捕らえた。
琴子は目を閉じなかった。男の、乾の目をじっと睨んだまま、立っていた。
空がもう、こんなにも赤い。
思えばいつも夕焼けだった。常はいつも夕陽の中にいた。
――--逢魔ヶ時。
ああ、逢魔ヶ時だ。
この世とあの世が交錯する時間。大禍が降りてくる時。国語の授業もこんな時に役に立つなんてと、琴子は思わず可笑しくなって少し微笑った。
――ねえ、常。私、少しは賢くなったかな。
大嫌いだというあの言葉は、撤回してもらえるだろうか。
そういえば自分は、まだ常が琴子をどう思っているか、知らない。
常はどうしてしまっただろう。
初めから生きていないのだと言った常の言葉が本当なら、ここで殺されても常にはまた逢えるに違いない。
この、逢魔ヶ時に、きっと。
『人間とはわからん生き物だ。自分より他人の生を優先するなど』
ぐっと、鎖骨の上に圧力がかかる。
息が止まる。琴子は動かなかった。
乾を染める夕陽の赤が染みるように鮮やかで、もし常と出逢わなければ、乾に恋をしたままでいたのだろうかと琴子は目を細める。
乾にずっと恋をしていた。その気持ちは死んではいない。それでも、常に惹かれてしまった。
そうして最後に心の中で呼んだのは、常の名前だった。
「その点のみ……同感じゃな」
突然、自分の喉元に突きつけられていた手が弾かれるようにして止まった。
目の前の男が呻いて、膝をつく。
その背後に立っていたのは、常だった。
「よう、遅くなってすまんの」
笑顔の常が、崩れた男の背に足を乗せて、琴子に明るい声で笑った。
「と、きわ!」
「ちいとばかし油断した。怖かったじゃろ、すまん」
常は男の背に手のひらをつけて、口の中で何か文言のようなものを唱えた。
常の手の平で、青い炎が爆ぜる。
男が叫んで、乾の白いシャツが破れた。
「乾くん!」
「おまえ、どっちの味方じゃ」
叫んだ琴子に、常は呆れたような顔をして、仕方なく両手を乾の背につける。
ぬ、と、まるでそこが沼にでもなったかのように、常の両腕が乾の身体の中へと入っていった。
『ぐ……ぐぁ』
「!」
常の腕の動きが止まり、怪訝な顔をして乾の身体を見やる。
「こいつ、まさか契約を……?」
琴子は為す術もなく、常に頷いた。契約という言葉の意味はわからなかったが、常からは急にさっきまでの余裕が失せたように思えて不安になる。
「どうしたの……!?」
「だめだ、琴子。……乾は……諦めろ」
常は乾の身体から腕を抜き取ると、静かな声でそう言った。
乾の身体を越えて、琴子を庇うようにして目の前へと立つ。
琴子は常の腕に縋るようにして、常と乾を交互に見やる。
「乾は自ら望んで奴と"契約"した。あれはもう取り憑かれているのではない。……同化だ」
「どういうこと!?」
草の間に這い蹲っていた乾が、ゆっくりと身体を起こす。
その表情は苦しげながらも笑みに歪んでいて、勝ち誇ったように常と琴子を見た。
「あれを引き離せば、乾もまた死ぬ」
『その……通り』
くつくつと乾の顔をしたまま男は嗤って、何度か咳き込んだ。
常が琴子を隠すように立って、手のひらを乾の身体へと向ける。
手のひらから現れた青い炎が、まるで円陣のように乾を囲んだ。
『いいのか、儂を滅せればこの身体も……!』
「わしには、できる」
常の低い声は静かなもので、常の決意を感じさせた。
常ならば、できるだろう。常は乾に対して何の感情も持ってはいない。
けれど、琴子は。
「お願い!」
「無理だ、琴子……」
常の声は苦渋に満ちて、くぐもっていた。
炎が乾の身体に引火する。
どす黒い靄のようなものが、乾の口からのぞいて、煙のようにたなびいた。
「わしにもできることと、できないことがある」
炎に覆われた乾の身体が、目の前で崩れて茂みに倒れ込む。
くぐもった絶叫は乾の声ではなかったが、琴子は耳を塞いでしまいたかった。
「やめてっ!!」
「琴子!!」
考えるよりも先に、身体が琴子を動かしていた。
青い炎が、夕陽の赤に混ざって紫に燃える。
「う、あ……っ!!」
「琴子、いかん!離れろ!」
乾の前に立った琴子の身体に、青い炎がまとわりついた。
熱くはない。だが、血液が沸騰し、蒸発してゆくような感覚が琴子の全身を襲って、琴子は崩れ落ちた。
「さ、おとめ……」
崩れ落ちた琴子の上から、懐かしい声がする。
振り返れば、歪んだその顔の瞬間瞬間に、いままでの乾がちらついた。
「そんなに……乾が好きか」
琴子に駆け寄り、その身体を抱きしめた常が、絞り出すような声で言った。
常は一度目を閉じると、静かに開く。
その瞳は夕陽を映したように赤く、悲しげに揺れた。
一度強く、琴子の身体を抱いて、そうして常は乾の前に立った。
息を吐き出して、手を乾の心臓のあたりにあてる。
チリチリと炎が常の腕に引火して、取り巻いていく。
『オマエッ正気、カ……!』
「さあな」
常の指がぐ、と乾の身体に入り……取り出されたのは黒い煙のような、塊。
「あまり、わしをなめるな」
常の表情は、嘲笑うように見えた。
ずるりと常の手がその黒い煙を乾の中から抜き取り、そうして握りつぶすようにぐっと力を込めた。
琴子の耳を劈くような、断末魔の悲鳴。
瞬間、その黒い靄は霧消して、消えた。
「常!」
乾の身体と、常の身体が同時に崩れる。
駆け寄って、乾の身体に触れた。……冷たい。
「乾くん!!」
「まだじゃ、琴子」
青ざめた常の腕は黒く焦げていた。指先が、さっき常が取り出した黒い靄のように、消えていく。
「わしの力を乾に入れる。乾は……助かる」
「だって、常、それじゃ……っ!」
琴子の肩をぐい、と乾から離して、常が乾の心臓のあたりに再び触れた。
触れた先から、常の身体が吸い込まれるように溶けては、消えていく。
――対価。
いつだったか、常が言っていた言葉を、琴子は思い出していた。
"わしという存在がなかったことになる"という言葉を。
「契約を破ったから!?乾くんを助ける代わりに、常が……!?」
「なぜ、泣く」
常が弱ったように笑った。その笑顔はあまりにも力のないもので、琴子は初めて自分が涙を流していることに気づかされる。
「私が……っ私が、悪いのに、なんで……!?」
「泣くなよ、琴子」
一度息を吐いて、乾の身体から離れた常の右腕は既に無く、シャツが風にはためいた。
「いやだよう、常……」
隻腕となった常の左手が、琴子の頬の涙を拭った。
こんなふうに優しく微笑む常を、琴子は知らない。
「あんたが死ぬなんて、やだ……!」
「わからんな。乾は助かるんじゃ。それに……わしは元々死んどる」
くすりと常がおかしそうに笑った。
乾を巻き込みたくないという気持ちと、常を失いたくないという気持ち、どちらも琴子にとっては強い思いで、選ぶことなどできない。
「でも、でも、私、あんたにいてほしいの、ここに、いて……ほしい……っ!」
琴子は常の身体を抱き、必死に留めようとしても、少しずつさらさらと、砂のようにして零れて消えていく。
「安心しろ。悪霊になって……せいぜいおまえに取り憑いて、やる」
常はもう一度笑って琴子を見た。琴子も釣られて笑顔になる。
だが一瞬の沈黙の後、常の顔が、泣き顔のように崩れた。
「なあ琴子」
いまにも塵となって消え入りそうな常の瞳は細く、愛おしそうに琴子を見上げている。
琴子の涙がぱたぱたと常の頬に落ちた。常は、微笑んでいた。
「これが、恋、か?」
胸を締めつけられるような、声だった。
常の腕が、強く強く琴子の身体を抱いて、そうして――消えた。
「とき……わ……っ!」
煙が風に溶けるようにして、常は消えてしまった。
空がもうこんなにも赤い。
たった数日前、突然この赤い景色の中に現れた常は、来たときと同じように唐突に、あまりにも唐突に消えてしまった。
「……さ、おとめ…………?」
草が揺れて、地面に横たわっていた乾の身体がむくりと起きあがる。
振り向けば、乾は琴子の顔を見て一度目を見開き、けれど身体の痛みにそれを歪めた。
「つっ……!」
「乾、くんっ!」
しゃくり上げたままの琴子に、乾が手を伸ばす。
乾は苦痛に顔を歪めながらも、自分の周囲と琴子を、交互に見た。
「俺、一体……?」
「……っ!!」
琴子は首を振って、両手で顔を覆った。
乾が助かったことを喜びたい気持ちと、常を失ってしまった喪失感が、琴子の胸をきりきりと痛ませて、何も言葉にできない。
空が赤い。常は消えてしまった。
逢魔ヶ時。逢魔ヶ時。
――--それなのに、もう常には逢えない。
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