呉ノ朱

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  五.  

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日曜。
乾の試合があるこの日を、琴子はもっと心待ちにしていてもいいはずだった。
見渡した隣町の競技場には、相手校も含めて数十人程度の生徒が応援に駆けつけていた。
琴子は二階応援席のベンチに一人座って、眼下の芝のサッカー場を眺める。
乾を応援に来たはずなのに、頭の中に常の姿が浮かんで消えない。
昨日別れる前、常に"一緒に行かないか"と誘ってはみたものの、
「何故わしが乾なんぞの応援をせにゃならん」
と、思い切り不愉快そうな顔をさせながら言われてしまった。
憧れている部員でもいるらしき、他の生徒たちとの温度差に琴子はなんとなくこの場に居づらくて、一階ホールへと向かった。
階段を降りたところで、ユニフォーム姿の乾が偶然、通りかかって、琴子は心臓が跳ねあがった。
「早乙女!」
乾が笑顔になって、琴子を迎えるように階段を二、三段、上がってくる。
「来てくれたんだ。……ありがとう」
「うん」
学校のカラーでもある深緑のユニフォームの乾は、見慣れた学生服姿よりずっと精悍に琴子の目に映る。
短く切りそろえた髪を一度撫でて、乾が何かを言いたげに黙るので、琴子も言葉を続けられないままに、沈黙した。
「あの、さ」
乾は照れくさそうに、琴子を見た。はにかんだ笑顔は少年らしさを残して、
「もしこの試合に勝ったら、俺と……その、つきあって、くれないかな……?」
「え……!?」
琴子は乾が言った言葉の意味がわからず、呆然とした。
つきあってくれ、と、乾が。琴子に。つきあうというのは、恋人になることを指す言葉で間違いはないのだろうか。
身体の芯に電流が走ったように緊張して、すくんだ琴子は返事を返すこともできずに、遠くで乾を呼ぶ声が聞こえる。
「応援、頼むよ」
言葉に詰まったままの琴子に手を振って、乾が廊下の向こうへと行く。
琴子はその背中に声をかけることがついにできなかった。


――どうしよう。
琴子が乾に返事することができなかったのは、応援席に戻った今でも胸がざわめくのは、嬉しい気持ちからではなかった。
乾のことが好きなはずだった。ううん、いまだって好きだ。
姿を見れば、顔は赤らみ、胸は鳴る。
それならば、さっきの乾の愛の告白ともいえる言葉に、どうして自分は素直に喜べない?
ピーッと鳴らされたホイッスルに、琴子はハッとしてグラウンドを見た。
散らばった選手達の中、乾の姿はすぐに見つけることができる。
真剣な顔でボールを追う彼を、琴子はこんなふうにずっと見つめるだけだった。
見つめるだけの、恋だった。
その恋が成就しようという今、どうして常の顔が頭から離れないのだろう。
自分たちには最初から、恋などなかった。
「ワァ――――-ッ!」
再び琴子の思考を遮る、歓声。
乾たち、琴子の学校側のチームがゴールを決めたのだ。
グラウンドで肩を抱いて喜び合う彼らと、乾の笑顔、そして周囲の観客の喜びとは裏腹に、どうして琴子は喜ぶことができないのだろう。
――乾がこの試合に勝ったら、自分が乾の告白を受け容れたら、常はどんな顔をするのだろう。
それを思って、ズキリと痛んだ胸元を服の上から琴子が押さえた、その時。
「乾くん!!」
琴子の隣に座っていた女生徒が、悲痛な叫びで乾の名前を呼び、立ち上がった。
続いて大きなホイッスルの音。突然の喧噪。
緑の芝の上に、倒れ込んでいる人影が見えた。乾だ。
琴子が立ち上がる。倒れた乾の周囲に人が集まっていく。
乾は苦痛の表情のまま、足を抱え込んで起きあがらなかった。すぐに白衣の救護係らしい大人と、担架が緑を切り取って運ばれてくる。
琴子は青ざめたまま、気がつけば応援席を離れ、階段を駆け下りていた。
階段下は、補欠らしい生徒や数人の大人が厳しい顔で慌ただしく動いている。
「あ、あのっ!乾くんは……!」
「早乙女さん!」
その喧噪の中の一人が、自分に気づいて駆け寄ってくる。
話したことはあまりなかったが、乾と親しくつきあっているらしい、サッカー部のクラスメイト。
「乾くん、どうしたの……?」
「西校のヤツに蹴られて、足やったみたいだ。とりあえず、これから病院連れてくらしい。……倒れた時、頭打ったみたいで……意識、ないって」
琴子は彼の言葉にいっそう青ざめた。口元を押さえた手にカタカタと震えがくる。
「悪い、早乙女さん……乾についてやっててくれないか?」
「えっ」
監督に呼ばれたらしい彼は、羽織っていたスポーツコートを脱いで、琴子を見た。
どうしてサッカー部と何も関係がない自分に、そんなことを頼むのかわからずに、怪訝な顔をさせた琴子に、去り際の彼は悲しそうに言った。
「乾、さ、ずっと早乙女さんのこと、好きだったから」
渡されたコートを手に、喧噪の中に取り残された琴子は、ほんとうにどうしていいかわからなくなってしまった。


日曜の病院の廊下は、静かだった。
言われた通り乾に付き添って来たものの、見知った人間がほとんどいない中で、琴子はひとり、少し離れた廊下のベンチに座って両肩を抱いていた。
多くのことが降りかかり過ぎて、もう何を考えていいかわからない。
胸の中で呼ぶのは、常の名前だった。
――常、助けて。ここに来て、助けて……!
神に祈るように強く、両手を組んで額にあてる。
震えはまだ収まっていなかった。
「呼んだか?」
「…………!」
突然重みの増したベンチの隣に顔をあげると、誰よりもいま、見たかった顔がそこにあった。
憮然とした表情の常が、腕を組んで座っていた。
「と、きわ……っ」
ぽろ、と、琴子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
常がそれにぎょっとした顔をさせても、琴子はただ安堵で、涙が溢れて止まらない。
「お、おい、琴子」
「乾くんが……乾くんが……っ!」
常のシャツにしがみつくようにして、琴子は震える声を言葉に変える。
廊下に集まった教師たちがぼそぼそと話していた乾の容態は、決して楽観できないものらしい。
常は腕組みをしたまま、平静を失った琴子の話をじっと聞いていた。
――常からすれば、どうということもない話だ。乾が怪我をしようとどうなろうと、知ったことではない。
常は次第に苛立っていった。琴子が泣いている。乾が琴子を泣かせている。乾を思い、乾を心配して泣いている。
「そんなに……乾が好きか……」
低く呟いた言葉に、歯軋りが混ざった。それは琴子には聞こえないようだった。
常の中で、急速に何かが冷えていく。
それはどこか残酷な考えとして、常の表情をすう、と冷たいものにさせた。
「わしなら、治せる」
「!」
琴子が目を見開いて、常を見上げる。暗かった瞳に光が差すのを、常は忌々しく睥睨した。
「だがこれは、例の件とは何も関係がない。……わしの言いたいことが、わかるな」
琴子に僅かに差し込んでいた光に再び翳りが差す。
――琴子が例の悪霊に狙われた件については、常自身、責任を感じてもいた。
自分の強い力が引きつけたのだと、だから無償で琴子を守りもしてきた。
常の心中は凍えて、もう琴子の涙にも動じない自分がいる。
「対価が……必要」
琴子の唇はそう言って、一度きゅっと噛みしめられた。
常が頷いたのを見ると、琴子は瞼を伏せ、何かを諦めているように、しばらく押し黙る。
常の怒りはより煽られて、組んでいた腕に爪を食い込ませた。
「……乾くんを、助けて」
琴子は何かを決意した顔をして、濡れた睫毛で常を見上げる。
覚悟を得た女の、美しさがそこにあった。
にもかかわらず常は、琴子が初めて見せたその美しさに、失意した。
自分の望む結果を得られたはずなのに、どうして失望などしたのかはわからなかった。
拒んでほしかったのかもしれない、いつものように。
だが琴子は、常の条件を、呑んだのだ。
「契約成立、じゃな」
険しい表情になった常は、琴子の腕を掴んで、立ち上がらせた。
いままでの強引だがふざけた様子とも、浮世離れした雰囲気とも違う常に、強く掴まれた腕の痛みは、琴子に、初めて常が男であるのだと、教えていた。



「ぁ……っ!」
ダン、と激しい音を立たせて、常は琴子を地下一階トイレの壁に叩きつけた。
琴子の手のひらに、ひんやりとしたタイルの冷たさが染みる。
背後から常が琴子を壁に押しつけるようにしながら、乱暴に制服の上着をまさぐった。
「こんな、ところで……!」
「恋人の情事でもあるまい、仕事としては充分じゃろうが」
常がくっと嗤った。その声はいままでの常とはあまりにも違って、嘲りを含んでいる。
顎にひんやりとした指の感触があたり、背後を振り向かせるようにして、唇が琴子の唇を包んだ。冷たい。
舌が、ちろちろと唇を割る。絡む。体温の感じられないそれに、真実彼が、人外の者なのだと琴子は思った。
「……つっ」
尖ったものが、軽く琴子の唇を噛んだ。それが犬歯だと気づいた時には、ちくりとした痛みがあった。鉄の味がする。それを丹念に、常が舐め取っていく。
「安心しろ、そう身体を傷つけはせん」
琴子の血液は、甘かった。
常の中に棲んでいる物の怪が、血を得て悦んでいるのがわかる。
その悦び以上に、常の中を征服感が満たしていった。
「常、どうした、の……!?」
「何がじゃ?」
常に胸を弄ばれながら、切なそうに喘いだ琴子にくすりと常が嗤う。その歪んだ笑みが、琴子の不安をますます掻き立てた。
「どうしてそんなに……怒って……っ!」
――--怒っている?
常には琴子の言う言葉の意味がわからない。
どうしてこんなに苛立つのか、あれほど厭だった琴子の泣き顔に、どうしてこんなに興奮しているのかわからない。
「さあな……」
常は苛立ちのままに、琴子の下着を剥ぎ取る。
そして指を爪のあたりまで差し込んで、蜜壷を浅く掻き回す。
琴子のそこは、もう濡れて易々と常のものを受け容れた。
「好きな男の指でなくとも、濡れるか。おまえ、やらしいのう」
「……ひっ……!」
第二関節のあたりまで一気に挿入して、上向きにした指をくっと曲げる。
ぬめった壁はざらついて、 常は指の腹でそこを擦るようにして撫でた。
「あ、あっ、やあ!」
びくびくと、琴子は身体を震わせる。
肩口から常の息が耳元にかかって、それがいっそう快感を強くさせた。
琴子の奥で、蛇のように蠢いていた指が一気に引き抜かれて、 琴子は膝を折った。
倒れかけた琴子の身体を背後から常が支えて、そして、引き抜いた琴子の秘所に自分のものをあてた。
「おまえなんぞ、大嫌いだ……!」
「ひ……あ……っ!!」
常のものが、琴子の秘所を割った。きちきちと身体が押し開かれて、軋むのがわかる。
琴子にはその痛みよりも、いま、常が琴子に言い放った言葉に傷ついた胸の痛みが、強かった。
「優しくなど、抱いてやるものか……っ」
「あ、あぁっ!!」
腕で琴子の太腿を掴んで持ち上げると、後ろから挿れた常のそれがいっそう深く襞に絡まった。
背後から回した常の指が、琴子の蕾をきゅうと摘む。
「あまり大きな声を出すと……人が来るかもしれん」
「ひ……っ」
常に刺激されたことで、びくびくと琴子の膣が収縮して常のものをしめつけた。
その脊髄を疼かせるような快感が、常の苛立ちを悲嘆に変える。
「そんなに……そんなに乾が好きか……!」
琴子を抱いている。琴子の身体を得て、力が流れ込んでくるのがわかる。
自分の中のけだものは、大いに喜んでなお腰を振る。
これだけを常は望み、琴子を守ってきたはずだ。なのに、常は喜べない。
「あれほど躊躇していた癖に、乾のためならわしに身体を差し出せる、と……っ!!」
激昂のままに、常が打ち込むようにして琴子に背後から自分のものを突き立てていく。
「違……っそうじゃ、な!」
背後から琴子の髪を常が指に絡めて、引く。
顎が仰け反って、琴子は苦しかった呼吸がより困難になった。
自分の中で暴れる常のものが、琴子の身体に次第に快楽を響かせてゆく。
「あ、あ……あぁ!」
――琴子がいま、常に抱かれているのは、乾のためではない。
乾を助けたいという思いも、勿論ある。だがそれ以上に、それを口実として自分はおそらく……抱かれたかったのだ、常に。
そのことに、琴子は気づいてしまった。
「私、は……っ」
壁と常の間に挟まれるようにして背後から犯されていた琴子が、身体をひねって抵抗する。
けれど琴子が望んでいたのは、こんな抱かれ方ではなかった。
恋人がそうするように、愛されたかった。常に、愛されたかった。
――初めて琴子は、自分が常に愛されたいと思っていることに、気づく。
常が挿入を続けたまま、琴子の身体をくるりと正面に向かせた。
眉を顰めて、険しいままの表情の常が琴子を睥睨して、息を荒立てている。
琴子はその常の首に腕を回すと、力をこめて常の顔を引き寄せた。
そして、常の唇を思い切り……噛んだ。
「いっ……!!」
常がその痛みに驚き、目を見開く。その顔を、琴子は睨みつけた。
「多分、あんたのことが、好き、なのよ……!」
「!!」
繋がったままで、琴子は肩でおおきく息をした。
常が驚愕の表情で、琴子を見つめて制止していた。
そして常の首を掴んだまま、その肩口に歯をあてる。
「おっ、まえ……!」
「バカ!!」
琴子は常の腕の中で、身体をよじらせた。
それでも抱きかかえられ、壁と常の間におさまった琴子の身体は、そこから抜け出すことができない。
身体の中に、まだ常のものが収まっている。それはもう動くことを止めていたが、熱く脈打っていた。
「こ、琴子……」
常は明らかに戸惑っていた。視線を泳がせて、答えを待つように琴子を見ている。
さっきまでの怒りが常から引いて、見慣れた常へと戻っていることに琴子は安堵し、鼻の奥がつんとした。
怒りと、自分が乾ではなくいまや常に惹かれているという感情も解けて、琴子の堰堤が切れる。
「あんたなんか……大キライ……!」
「!?」
遂に泣き出してしまった琴子に、常が狼狽しておろおろと取り乱す。
琴子の中に挿入していた自分のものは力を失っていたが、そのことを常は忘れたまま、泣きじゃくる琴子の肩に手を置いた。
「おまえの気持ちが、ようわからん……」
眼下に、しゃくりあげる琴子がいる。
その琴子を見て、常は初めて愛おしいという感情を理解した。
琴子の顎に指をあてて、上を向かせる。人の流す涙を美しいと思ったのもまた、初めてのことだった。
「ならばなぜ……わしに抱かれたんじゃ……」
琴子の唇にはうっすらと、朱が滲んでいる。
それに舌を這わせると、もう止まらなかった。
「もう一度、言ってみろ」
唇を癒すようにして、そっと包み込む。
ぞくぞくと背筋を駆け上がるような高揚感が、琴子の中の常自身を再び猛らせた。
「わしが……好きだと……!」
「…………っぁ!」
目眩のような陶酔の中で、常は琴子の身体を揺さぶる。
先端まで引き抜き、そしてまた強く押し侵れると、頭が白んで何も考えられなくなる。
琴子が必死に、常の首にしがみついてくる。
「言え、琴子。……乾ではなく、わしを……っ」
「ひ、あっ……ぁっ!」
琴子の両足を抱えて、激しく突き上げた。常の肩に顔を埋めた琴子の身体がびくびくと震える。
「す、き……好き……っ」
「!」
耳元で吐息混じりの言葉を囁かれて、常はもう、堪えられなかった。
どくりと心臓が鳴る。絶頂の快楽にいっそう昇ぶった常自身が琴子の中を押し広げる。
それは琴子も同じことで、極限まで高まった性感が、常のそれに呼応して吐き出された。
「ぁ……、っー!」
琴子の身体の奥に、常のそれが注がれる。熱い。
常は琴子を抱き上げたままで、琴子は常の首にしがみついたままで、絶頂を迎えてもまだふたり、繋がっていた。


気がつけば、いつしか琴子は廊下のベンチに横たえられていた。
隣に常がいる。ゆるゆると確かになっていく意識の中で、さっき自分と常がした行為のことに気づいて、さっと琴子の頬に赤みが差す。
「起きたか」
「あ、常……」
常がすっと立ち上がり、目の前の病室の扉のノブに手をかける。
「乾の手術が済んで、いま薬で寝かされとるそうじゃ。命に別状はないが……足が、な」
「…………!」
白い病室の、白いベッドの上に、乾がいた。
琴子は全身の血の気が引いて、さっきまでの自分の甘さに嫌悪感が吹き出す。
こうして乾が苦しんでいるのに、取引とはいえ、自分は。
常がその琴子を、厳しい表情で眺めていた。
――恋とは、そんなに良いものなのだろうか。
琴子はまるで自分が隣にいるということも忘れているようだった。
常はふと、そのひたむきな視線に、もう苛立ちはしないことに気づく。
それは琴子を手に入れたという充足感からだろうか?それとも。
「――やはり乾のことも、好きなのじゃろうな」
「え……」
琴子は常の言葉に怪訝な顔をしてみせた。
気づいていないのだろう。自分を好きだと言った琴子の言葉が真実だとしても、乾への思いもまた、琴子の中で死んではいないのだと。
ただ常と触れ合った時間が長かっただけで、彼女の体に与えた快楽がそう錯覚させただけで、守られているという安堵が暗示をかけているだけで――――同時に、別々のベクトルで二人を想うことがあるのだということに、琴子自身、気づいてはいない。
「まあいい。安心してそこで見ておれ。……契約は、守る」
琴子が考えているよりずっと、力を使うのは大変なことだった。
この力は万能ではない。
例えば100ある内の30を乾の治療に使えば、もしいま、例の悪霊の襲撃にあった時、琴子を70の力で守らなければならなくなる。
それでも常は、乾の赤く腫れ上がったくるぶしのあたりに手を置いた。
手のひらが熱くなる。
身体の内部を伝わって、まるで血液が沸騰するように、力をこめた手のひらに力が集まってくるのを感じる。
「く、っ」
触れた足のくるぶしが熱くなっていく。
常の手のひらから解き放たれた力が、乾の筋肉を震わせ、血液を循環させていくのが触れたままでわかった。
常はしばらくそうした後、ふっとその場所から手を離した。
まるで貧血の時のように、くらりと目眩がする。少し、力を使いすぎたのかもしれない。
「あとはきちんと治療すれば、動かなくなるということはない」
「…………っ」
壁に寄りかかり、息を切らした常の元に、琴子が駆け寄ってくる。笑顔だ。
そして、抱きしめられた。
「ありがとう……っ」
涙を浮かべた、琴子の笑顔。初めて、琴子が自分に告げた、心からの感謝だったかもしれない。その言葉と笑顔に、常はただただ驚いていた。
「どうして……礼など言う……?」
「だって、乾くんを」
琴子の気持ちが、常にはわからない。琴子を治療したわけではない。なのに琴子自身を助けた時よりずっと、嬉しそうに笑うのだ。
そしてその笑顔に、胸が暖かくなる自分のこの感覚も理解できなかった。
くらりと、目眩が強くなった。
――おかしい。
自分自身の異常に、常が気づいた時には、もう事態は起こってしまっていた。
白いシーツが静かに持ち上がる。
薬で眠らされていたはずの乾が、ゆっくりと身体を起こした。
『ご苦労、と、言わせてもらおう、か』
「い、乾……くん……!?」
それは乾の声ではなかった。くぐもって響く低いその声が、狭く白い病室に反響する。
床に膝をついた常は、もうまともに立ち上がることができなかった。
酷い動悸と目眩、そして吐き気。揺れる視界で、ベッドから起きあがった乾が琴子の身体を掴んだのがわかる。
「乾に、憑いたの、か……!!」
『この機会を待っていた』
乾はにい、と笑った。その口端が大きく広がり、鋭い犬歯がそこから覗く。
常の元へ駆け寄ろうとした琴子の腕を掴んだまま、乾は最早人間の表情は失くして、常を睥睨していた。
『このままこの男に憑いていればこの女が手に入ると思うたが……お主という誤算があったからな』
「琴子を……離せ!」
乾、いや、さっきまで乾だったものの腕が、琴子の顎を捕らえて上を向かせる。
「嫌!……いや……っ!」
ちろりと覗いた舌は赤く、琴子の頬を舐めてまた笑う。
『お主がこの女の力を得、それを儂に分けるこの瞬間を待っていた』
乾の手が、強く琴子の首へと食い込む。
常は必死で立ち上がろうと床に腕をつくが、まるで地が自分を吸い取ろうとしているかのように身体が重く、足を上げることすらままならなかった。
『ここでただ屠るというのもつまらん。さあ、どうするか』
「乾くん!……常……っ」
琴子の首に赤く切り傷がつけられた。それはいまや鋭く尖った乾の爪によるもので、その先に付いた血液を、さも美味しそうに乾が舐め取る。
そのひとつひとつのことが、常の逆鱗を刺激し、怒りを煽った。
『お主はそこで這い蹲っておればよい』
すうと上げられた、まだ琴子の血の付いた指先が常をとらえ、そして力が放たれる。重い音が、常の身体を打った。
「ぐ、う……っ!」
「常!ときわ……っ!!」
体が、ずるずると引き離される。
腕をつかむのは、信じられない力だった。振り向けば、乾のものとも思えないおぞましい獣の顔が、にっとりと笑って琴子を見下ろしていた。
引きずられていく。どこに、行こうというのだろう。
突然、視界は黒いもやがかかったように遮られ、琴子の瞳には、もう常の姿は映らなかった。
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