呉ノ朱

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  四.  

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翌日。
土曜の授業は、3限で終わる。
「琴子、こーと」
隣の席の常が、琴子を覗き込むようにして見るが、琴子は朝からそれをひたすら無視し続けていた。
「まだ昨日のことで怒っとるのか?執念深いのうおまえ」
「…………」
琴子はできる限り常と顔を合わせないようにしながら、鞄の中に荷物を詰め込んだ。
昨日、あんなことをした常に対しての怒りも勿論ある。
だがそれ以上に琴子をふさぎこませているのは、自分自身の気持ちだった。
――乾に恋をしていた。そのはずだった。
それなのに、常に触れられて感じてしまった自分が、わからない。
「琴子ぉ……」
常がいよいよ泣き出しそうな声を出して、琴子の鞄をつかんだ。
「ちょっと、離してよ!」
「お、やっと口、聞いてくれたな」
常がにっこりと笑う。その笑顔に瞬間、怒りが解けそうになるのを琴子は抑え込んだ。
「確かに助けてって言ったけど……あんなことしていいなんて、許した覚えはないんだから!!」
「じゃからあれは……」
ぐい、と常の身体の下から鞄を抜き取って立ち上がり、肩にまわされた常の腕を振り払うように廊下へと踵を返したところで、大きな胸にぶつかった。
「わっ、ごめんなさ……」
「あ……」
顔を上げた先に、僅かに固まった乾の表情があった。
その視線を追って、琴子は、自分の肩にまだ常の腕が乗せられていることに思い至ると、それを振り払う。
「ど、どうしたの、乾くん」
「明日、うちの部の試合があるから、地図を持ってきたんだけど……」
乾は琴子にプリント用紙を差し出しながら、ちらりと背後の常を見やる。
「早乙女、彼氏、いたんだ?」
「えっ……?あ、違う!いないよ!あの人は全然彼氏なんかじゃなくて、その」
乾が常を誤解していることは明らかだった。
琴子は慌てて顔の前で手を振り、そして必死で言い訳を考える。
「その、昔の、幼馴染みなの。だから彼氏とか全然!うん!いない!!」
「そっか。……よかった」
乾の強ばっていた表情が、やんわりと笑顔に変わって、琴子はそれに見とれてしまう。
そのせいでぽつりと乾がつぶやいた言葉には注意を払わなかった。
「いや、なんでもないんだ。明日、来てもらえるかな?」
「うん!ももも勿論!すっごく応援するから……頑張って」
胸が熱くなって、まともに乾の顔が見上げられない。
乾がふっと常に視線を向ける。琴子の視界の上で、常と乾が険しい視線を交わしたことなど、俯いたままだった琴子には知り得なかった。
「もし場所がわからなかったら、これ、オレの携帯の番号だから、電話して。試合の前だったら出られると思うし」
「あ、それなら私の番号も……」
サラサラとプリントの端に携帯番号をメモし、破って渡す。
夢のようだ。こんなにもあっさりと、乾の携帯の番号を知ることができた。
かけることなど、琴子にはきっとできない。それでも恋する相手の情報を知ることは単純に嬉しい。
「じゃあ、明日」
「うん、頑張ってね」
渡されたプリントを大事に握りしめるようにして、ひらひらと手を振る。
さっきまでの常へ対しての怒りや、昨日のことで揺らいでいた気持ちもどこかへ吹き飛んでしまったように、琴子の心は晴れ晴れとしていた。
「……ふん」
「なによ」
晴れ晴れとした心に常が雲を呼ぶ。睨み上げると、常はいかにもおもしろくなさそうな顔をしていた。
「あいつ、わしのこと睨みよった。なかなか度胸があるようじゃの」
「あんたが誤解させるような態度とるから……っ」
そう言って掴みかかろうとした琴子は、常の表情がいつもとは違い、沈んでいることに気づく。
「どうかした?」
「いや……。おまえは本当にあの男が"好き"なのじゃな」
乾が消えた廊下の方を見やって、常がぽつりと呟く。
その声がどこか寂しそうで、琴子は複雑な心持ちになった。
「好きよ。――ずっと、好きだったんだから」
鞄を取り、歩き出しながら琴子は常に、乾との話を少しずつ、始めた。

他愛もない、始まりだったのだと思う。
放課後、練習するサッカー部の横を通り過ぎて、たまたま乾が受け取りそこなったらしいサッカーボールを拾った。
夕暮れの中で、ありがとう、と微笑んだその笑顔に一目で恋をした。
ただそれだけの、ありきたりな恋。
それでももう半年も、ずっと乾を見続けてきた。

「乾の性格も何も知らんのじゃろ?」
「なによ、悪い?」
帰り道を並んで歩きながら、怪訝な顔をさせた常を睨む。
「ふん」
常は理解したのかしていないのか、よくわからない返事をして、少し先を行った。そうして琴子を振り返る。
「成る程な。だから乾に操を立てて、わしを拒むというわけか」
振り向いた常の表情は、険しい。いつになく冷たい瞳が、琴子を見据えている。
「――やめた」
「え?」
ぴたりと常は歩くのをやめて、少し身体を屈めると琴子を覗き込むようにして見た。その表情は冷たく、琴子の不安を煽る。
「そんなに乾が好きなら、乾に助けてもらえばよかろう。やめじゃ、やめじゃ。なーんでわしがよその男に執心しとる女を助けてやらにゃならん」
「なによそれ!!」
くるりと背を向けて、先を行ってしまう常の背中は、明らかに琴子を拒絶していた。
「じゃあ何か?おまえは例えおまえのためだとしても、わしに触られるのも嫌だ。なのに助けては欲しい。……随分と都合が良いのう」
「…………」
肩越しに琴子を見る常の表情は冷たく、声は怒りを帯びている。
琴子は言葉に詰まった。確かに、常の言う通りなのだ。
「忘れたのか?わしはおまえをタダで助けてやると言った覚えはない」
「覚えてるわよ!……結局あんたは、私の力が欲しいんでしょう!?」
怒鳴った声の最後が涙に変わる。潤んだ視界の向こうで、常がぎょっと目を見開いたのがわかった。
「私のこと好きだからとか、そういうんじゃなくて、嫌いでも私の力だけ手に入ればそれでいいんでしょ!」
「……なぜ泣く」
常は眉根を寄せて、琴子へと戻ってくる。
琴子自身、どうして自分が泣いているのかよくわからなかった。 心の中がぐちゃぐちゃになって、何を言っているのかもわからない。
「じゃあおまえは、わしがおまえを好いているならば抱かれてもいいと?」
「!」
肩を常に掴まれて、琴子は絶句した。昨日からずっと苛立っていた答えを、常がいま言ったような気がしたからだ。
そしてまた自分の心に戸惑う。
「わからんな……。おまえは乾が好きなのだろう。なのにどうしてわしの好意を欲するんじゃ?」
「……そんなの、私にだってわかんないよ!」
わからない。乾がずっと好きだったはずの自分と、このたった数日、常といることで胸が苦しくなる自分。そのふたつが自分の中に確かに存在していて、だから琴子を混乱させる。
琴子は顔を覆って泣き出していた。常に対して、こんなにも苛立つのは、彼が自分を決して好きではないからだ。彼に自分が餌としてしか見られることがないからだ。
――それは、裏を返せば常に愛されたいということになる。ありえない。
「琴子……」
常が琴子の顔を覆ったままの手をほどこうと力をかけた。それを拒んでみても、常の力にはかなわない。
涙でぼんやりとした世界に、常の困り果てたような顔が見える。
「泣かんでくれ。その、おまえに泣かれるとたまらん心地になる……」
常の大きな手が、ぐい、と琴子の頬を拭う。
そのいつもは冷たいはずの手のひらを、琴子はなぜか暖かいと思ってしまった。
「わしには、わからんのだ」
涙を拭った後、常がふっと琴子を優しく抱きしめた。大きな肩が琴子を包み込む。
「恋だとか、人を好きになるだとか、そういう感情が……ようわからん」
抱きしめられる息苦しさよりずっと、胸が痛い。
常の声は切なげだった。
「だが……おまえに泣かれると、苦しいんじゃ。なあ琴子、これはどういうことだ?」
「…………」
ぎゅうと抱きしめられた腕に力がこもる。琴子は答えられなかった。
ただ常の言葉に、琴子もまた、胸が苦しく締めつけられる。
「琴子、わしを、見ろ」
身体を離した常が、真剣な瞳で琴子を見つめる。
乾と目が合ったときよりも、話したときよりもずっと、琴子は自分の鼓動が高鳴っているのがわかる。
「乾じゃなく、わしを見ろ。それだけでいい。それだけで……おまえをずっと、守ってやる」
「それって……」
常が今言った言葉の意味を問おうとした、その時。
ざわ、と、空気がざわめいた。
「…………!」
常の表情が瞬時に険しくなる。風がないはずなのに、木立が揺れる。
まだ土曜の昼のはずだ。それなのに、視界が薄暗くなっていく。
「な、なに……?」
「ヤツだ」
アスファルトの地面に映った家や木々の黒い影が、ゆらゆらと生き物のように揺れて浮き上がる。まるで質の悪いホラー映画を観ているようだ。
「や、っ!」
「離れるな」
怯え叫んだ琴子の肩を、常が抱きしめる。それだけで恐怖が和らぐ気がする。
「どうして……昨日、磁場を乱したって……」
「ヤツの狙いは、このわしだ」
影がゆらりと立ち上がった。液体のような、粘りをもったそれが一斉に常へ向かって襲いかかってくる。
「馬鹿が」
常が伸ばした手の前に、まるで膜でもあるかのように弾かれて、アスファルトへと染みこんでいく。
琴子はすぐ上にある常を見上げた。
どうしてだろう。自分は、乾に恋をしていたんじゃなかったのか。
乾を見るときよりもずっと、常が眩しい。
「いいか、わしと離れれば、ヤツにはおまえは見つけられん。昨日おまえの磁場を乱したせいで、ヤツがわかるのはわしだけじゃからの。このまま走って、逃げろ」
「じゃあ、あんたは……!?」
肩をつかまれた手にぐっと力がこめられる。そして常はに、と笑った。
「負けるわけがなかろう。気にせず、ゆけ」
トン、と片手で身体を押された瞬間、黒い影が常に向かって降り注いだ。
自分のせいだ、と、琴子は直感で感じ取る。
どうやったのかは知らないが、琴子への注意を逸らすために、常が犠牲になっている。
「……っ」
それでも、琴子は走り出した。
このまま自分がこの場に留まれば、恐らく常の負担になる。
振り返らなかった。振り返らず、走り出した。




いつの間にか足が向かっていたのは、昨日も来たあの神社だった。
階段を登り切ったところに座り込む。足がまだ震えていた。
常が言った通り、彼から離れてしまえばあの黒い影たちは琴子を見つけられないようだった。
常は、約束は守るのだ。琴子を助けると言ってくれた言葉に、嘘はないのだろう。
しかしこうして自分が安全な場所に来てみると、常のことが気に懸かる。
彼の不遜なまでの強さは、琴子にもなんとなくわかっている。
それでも……無事でいるだろうか。
何時間経ったか、わからない。
走ったことで火照った身体ももうすっかりと冷えている。
高台にあるこの場所から見える空が、僅かに傾きはじめるのがわかる。
もうすぐ、また夕暮れが来る。
「……とき、わ……」
初めて、名前を呼んだ。頭の中に浮かぶのは、彼が無事であるだろうかという懸念だけだ。
「常……!」
祈るようにして、両手を組んでそれに額をつけた。
と、ふっとその視界が暗くなる。
「……初めて、わしの名を呼んでくれたな」
見上げた先に、常がいた。苦しげに眉根を寄せつつも、微笑んで。そして、突然常がその場に崩れ落ちた。
白いシャツが、ところどころ赤く染まっている。そして顔にも、傷。
「怪我!!してるじゃない!」
「駄目だ……琴子、わしを置いて行け」
階段に倒れたまま、荒い息で常が言う。琴子は首を振って、常の身体に手を回して支えた。
「バカ!できるわけないでしょ!」
常の怪我の様子はわからない。救急車を呼んだ方がいいのかもしれない。
だが、このままここに常を置いておくことはできなかった。もし今襲われたら、常も琴子も、ひとたまりもないだろう。
琴子は仕方なく、長身の常を引きずるようにして、お社の扉を開ける。
古びた畳の匂いと埃が鼻をついた。

入った先の板間に常を横たえて、そして携帯電話で救急車を呼ぼうと立ち上がろうとした。
その足を、常が弱々しい力で掴む。
「駄目だ。誰も……呼ぶな……」
「だって……このままじゃ……」
琴子はしゃがみこむと、常を抱きかかえるように膝に乗せる。
常は痛む箇所を庇うように、小さく身体を屈め、苦痛に顔を歪ませた。
「おまえも、行け……!もう人でいることが……できん」
「人でいることが……って……」
常の言葉の意味を理解するより先に、常の身体が白くぼんやりと発光した。
「と、きわ……!!」
常を覆った光は徐々に形をくっきりとした物に変化させていく。常の身体に、まるで狐のもののような耳、そして尻尾が発生していく。
それに呆気にとられている間に、ぐう、と常が呻いた。獣の声だった。
「こと……逃げろ……」
光が常の身体に吸い込まれるように収まってゆく。そうなることで、獣の耳がより確かなものとなった。
表情や、爪、開け放した口元から見える歯までもがけだものじみて、琴子は驚愕する。
「な、な……っ!」
「見るな……!!」
白い光が収まると、常はもう、以前の常ではなかった。
髪の間からは明らかに動物のものの耳が生え、爪や口元から覗く犬歯もまた、いままでの常とは異なっている。
「常、あんた……一体……」
恐怖よりも驚愕が強くて、琴子はその場から動くことができない。
常は苦しげに顔を歪め低く唸りながら、琴子の膝の上で身体を丸めている。
「ねえ、常っ!どうしちゃったの!?」
まさか、と琴子は思った。
常は琴子を狙うものに取り憑かれているのでは、と。
「ねえ!変なのに取り憑かれちゃったの!?私……どうすれば……っ」
「ちがう。……力を、つかいすぎたせいだ」
掠れた声。常の中で何かが戦っているように見えた。そしてまた、苦しんでいる。
泣きたくなどないのに、恐怖で涙が浮かぶ。常を、助けたいのだ。
――不意に、常が言っていた言葉を思い出す。
常は、琴子は強い磁場を持っていると言っていた。そしてそれを欲していた。
ならば、常が弱っている今、それを与えれば常は元に戻るのだろうか。
琴子はできる限り心を平静にして、常の髪を撫でる。ふわふわとした質感は変わらない。ただそこに異様な獣の耳があるだけ。それだけ、だ。
「……私が力をあげれば、あんたは元に戻れるの……?」
「バカ、おまえ……」
常の頬に手を伸ばす。白く透き通るような肌。一度それを撫でて、そして常の身体を起こして、改めて抱きかかえる。
どうしてかはわからない。静かな決意だった。
「――いいよ。もともと、約束……だったんだから」
「こ、と……!」
拒むような常の声を、琴子はそっと、唇で塞いだ。これはキスだ。乾とだって、したことのないキス。それをいま、琴子は自分の意志で常にくちづけている。
そっと唇をあわせて、ただ願った。
以前、常に力を分けてもらった時のことをイメージする。
と、突然常が琴子を抱きしめ、床へと倒した。
「!」
床に押しつけられるようにしながら、常の唇が琴子の唇を覆い、そして舌が割り入ってくる。激しいキスだった。
「……はぁっ……」
ようやく唇を離されて、常が琴子の肩越しに一度倒れ込む。
あれほど震えていた体と、荒くなっていた息が、次第に落ち着いていくのがわかった。
「まったく……無茶を、する……」
見上げた先の常の表情は、まだ苦しげながらもずっと落ち着いて見えた。
眉根を寄せながらも、うっすらと笑う。そうして、琴子の上から身体をどかせると板間の上にごろりと大の字に寝た。
「もう大丈夫なの?」
「ああ」
琴子も身体を起こし、仰向けに寝ころんだままの常を見下ろした。
見れば、さっきまで常を靄のように包んでいた白い光も、髪から生えていたあの異様な獣の耳も、もう消えかかっている。
「……驚いたじゃろ」
「う、うん」
仰向けのまま、天井を見たままで常が言う。
「あんたって……一体、何者なの?」
「…………」
常の表情が険しくなる。そして、身体を起こして琴子に向き直るようにして座った。
「わしは、人間ではない」
「え……?」
常の表情は暗い。困ったように頭をかいて、そして顔を上げたその瞳は何かを決意したようだった。
「もう随分前の話だが……除霊に失敗して、わしは一度死んだ。その時、ある狐神と契約をした。わしに力を貸すかわりに……生きながらえさせてやる、と」
琴子は常がいま言った言葉の意味がわからずに、しばらく黙った。
「命を得たわしは、契約で動物霊の統括の立場に置かれた。この世界も人手不足での、全国あちこち移動させられとった。それで、あの日」
常がちらりと呆然としたままの琴子を見る。
「あの日、おまえがやった悪戯の後始末を終えて、おまえに会いに行った。―― 一目で、おまえがほしいと思った」
「私の力を……?」
こくりと常が頷く。忘れてはいない。常が欲しているのは、琴子自身にはわからない、琴子が持っている霊力なのだ。
「力を使えば、その分補充しなければならんからな。おまえの持っている磁場は、補充して尚余りあるほど強いもんじゃ」
「だから、ヘンな霊にまで狙われたのね、私」
琴子が顔を曇らせて言った言葉に、常は瞬時に眉を顰めた。そして何か口ごもる。
「……実は、そのことなんじゃが……」
「?」
常が、ちらりと琴子を伺うように見た。いつになく、不安げな表情をして、おそるおそる口を開く。
「あのな、実は、最初おまえには悪霊なんぞ、憑いとらんかったんじゃよ……」
「………………」
常の告白を琴子が理解するまで、すこしの時間が必要だった。
薄暗い、神社の一室にしばしの張りつめた沈黙が流れた後、先に言葉を発したのは琴子だった。
「…………はあ!?」
「お、怒らんと聞け。おまえにお仕置きでもしてやろうと、わしがちょっと力を使って……」
常が言い終わるか言い終わらないかのうちに、琴子は思い切り目の前の常を突き飛ばしていた。
「信じられない!!じゃあ全部嘘だったっていうの!?人をあれだけ怯えさせといて……!」
「ま、待て、落ち着け!」
勢いのままに立ち上がろうとした琴子の腕を、慌てて常が掴んで引き寄せる。が、予想以上に力がかかり、琴子が足をもつれさせて、転んだ。
「う、わっ!」
床に仰向けに倒れた琴子を、常が背後から抱きかかえるような姿勢でかばう。
そして、そのまま、常は琴子の身体の前で手を組んだ。
「ちょっと!離してよ!」
「いやじゃ」
その低いトーンと、背後から首元に顔を埋められたことで、琴子の鼓動が跳ね上がる。常が琴子を抱きしめたまま身体を起こし、そして改めて琴子の胸の下あたりで手を組み直した。
「こうしておかんと、おまえ、話も聞かずにまた逃げるじゃろ」
「…………」
常に強く抱きしめられていることで、さっきまでの怒りが萎えていってしまう。
「あのな。確かにわしはおまえを騙した。が、今は違う。……あの放課後の時から、おまえは確実に何者かに狙われとる。でなければわしが今こんなになっとるわけがないじゃろ」
「……そう、だったね」
視線の先の常の腕は、まだいくつかの切り傷の痕がくっきりと残っていた。
それに琴子はそっと触れ、撫でる。
「いままで、人間は餌じゃった。半人半妖の今だけでなく、昔から、除霊をしてやることで対価として人の力を食ってきた。おまえも、そういう類の一人にすぎんと……思っとった」
ぎゅっと、抱きしめられる腕に力がこもる。背後から耳を、身体を伝わって届くのはどこか切なげな、優しい声だった。
「じゃあ……いま、は……?」
答えを知りたくて問いかけたはずなのに、答えを聞くのが怖い。
だが高鳴った鼓動が、締めつけられる胸が、常の答えを望んでいる。
「この感情は、なんなのだろうな……」
溜息の混じる声。そして常は黙った。黙ったまま、琴子の首筋に顔を落としている。
「少し、こうしていてくれるか」
ふわふわとした髪が、琴子の頬をくすぐる。
「…………」
どうしてだろう。胸が苦しい。
自分には乾という思い人がいて、琴子と常の関係はただの利害の一致というだけに過ぎない……過ぎなかったはずだ。
「常、あんた、私のこと……嫌いなんでしょう?」
「なんじゃ、おまえまだそんなこと言っとるんか」
目を閉じたままで、常が言う。優しい、穏やかな声だった。
「わしが嫌いだと言ったのは、おまえの腐った心根じゃ。だがいまは……違うじゃろ?」
「うん……」
こくりと頷いて、ふと浮かんだ疑問がある。けれど、それはなんとなく、聞いてはいけないような気がしていた。
――じゃあいまは、自分のことをどう思っているのだろうか、と。
それを聞くことで、琴子の中で決定的に何かが変わってしまう。そんな気が、したのだ。
「もうすこしだけ、このまま……」
すう、と、言葉が寝息に変わっていった。
寄りかかった障子の向こうから、赤い夕陽が部屋の中を染める。
肩から、微かに触れる頬から伝わってくる、本当は冷たいはずの常の体温が暖かくて暖かくて、琴子はただ、目を閉じた。
まぶたの裏までが、赤く染まっていた。
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