呉ノ朱

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  二.  

人物紹介・作品解説へ
 
「早乙女、先生が呼んでる」
そう言われてしぶしぶ職員室に向かったのは、日直としての勤めを果たすためだ。
「失礼します」
職員室のドアを開けた瞬間、目の前に立っていた背中に琴子はぶつかった。
「す、すみません……」
自分より頭一つ大きいくらいの、すらりとした男子生徒の背だ。さらさらとした薄茶の髪で……薄茶の髪、で。
「あ、んた……っ!」
ぶつかった先の背中が、くるりと自分を振り向く。そしてにい、と笑顔になった。昨日の帰り道、自分に妙な因縁をつけてきた、あの笑顔だった。
「早乙女、あなた今日日直だったでしょ。彼、今日からの転校生の帚木くんだから、1限の前に校内案内してやって」
担任教師は口早にそれだけ言うと、ひらひらと手を振って、帚木と呼んだその男子生徒と共に琴子を職員室から追い出してしまった。
廊下に追い出された琴子は、眉根をひそめたままで隣にいる男子生徒を見上げる。
視線が絡んだ。に、と彼が笑う。
「おまえのために転校して来た。有り難く思えよ」
「なっ……!!」
思わずあげてしまった大声に、廊下にいた何人かの生徒がこちらを振り返ったのがわかった。
琴子は口元を押さえて、片手でつまむようにして男子生徒のシャツの袖をつかむ。
「ちょっとあんた、こっち来て!」
「ときわ、と呼べよ」
「いいから早く!!」
不満そうに口をとがらせた常に苛立ちながら、琴子はそのまま彼をひきずるようにして階段を降りた。


「ほんとに何なの!?私につきまとわないでよ!」
オカ研部室に常を引きずりこんで、琴子よりずっと背の高い彼を睨み上げる。と、職員室からずっと、笑顔のままで目を細めていた常が、すっとその切れ長の目を開いた。
その目の色を見て、琴子はぞくりと寒くなる。冷たい色をしていた。
「ぎゃあぎゃあ五月蠅い。わしはおまえの尻ぬぐいをしてやろうと言っとるんじゃ」
口角は笑みの形に上がっているが、その視線と声には凄味があった。
そしてすっと常は琴子の肩に手を置く。
「おまえが霊の存在を信じようが信じまいが知らんが……このままだと縊り殺されるぞ」
「だから私はそういうの信じないって……」
言いかけた琴子の言葉を遮るように、常は指先を一度琴子の唇に触れさせて、そして机の前へと移動した。
「そんなにわしの言うことが信じられんというなら、見せてやろう。まあ座れや」
常が引いた椅子に、琴子はしぶしぶ座る。昨日の放課後、こっくりさんの悪戯で使ったままの机の前にだ。
椅子に腰掛けた琴子の背後に立った常が、机の端に寄せられていた和紙と筆ペンを取り出して、すらすらと文字を書き始めた。
目の前に、見慣れたこっくりさんの図面が置かれる。その上に常は、転がっていた適当な大きさの石を置いた。オカルトグッズのひとつで、霊石だとか部長たちが騒いでいた石だ。
「ま、こんなもんでよかろう」
電気を消して、蝋燭に火をつけた部室内は、窓に取り付けられた暗幕のせいで、昼間だというのに夜のようだ。
どことなく冷気さえ漂っている気がするのを、琴子は気のせいだと思い込んだ。
琴子の肩から、常が両腕を出す。琴子の背中と常の胸が密着し、顔が背後から驚くほど近くに来た。
「ちょっと、あんまりくっつかないでよ」
「黙って見とれ。……始まるぞ」
低い声だった。紙の上に、常が手をかざす。
低く早い声で、例の"こっくりさん、こっくりさん"というものではなく、 まるで経文のような何かを常が呟いた。
風がないのに蝋燭の火がゆらゆらと揺れる。琴子がびくりとそれを見た瞬間、突然、紙の上の石がすっと鳥居の方向に動く。
「な、なに……これ」
「おまえが琴子に憑いている者か」
常の低い声に応えたように、石が「はい」の上に乗る。
常の両手は紙の上にかざされたまま、トリックを使える気配はない。
琴子は両手で机の引き出しの中をさらった。何も入っていない。
「おまえの望みは何だ」
「悪戯ならやめてよ!」
叫んだ声は震えていた。信じられない。
だがそんな琴子の気持ちを裏切るように、石がすっ、すっと文字を選んでいく。
「こと、ころす。ほしい。ほしい。ほしい」
琴子は思わず、常の手に触れた。自分の指が震えている。
常の指の下にも、どこにも糸やトリックはなかった。そのことにいっそう戦慄が激しくなる。
瞬間、机の上の紙が燃え上がった。青白い炎が、ちろちろと蛇の舌のように琴子の方へと向かってくる。
「ひっ……!!」
「さあどうする?これがおまえがやった悪戯の結果だ。信じなくとも良いが――」
その炎は、決して熱くはなかった。だがそれだけに、目の前で起こっていることの異常性が琴子にははっきりと感じられる。
「もう……やめて……」
青ざめた琴子の声は震えていた。背後から抱きしめられるように感じる常の体温だけが、琴子の叫び出したい気持ちを抑えている。
「ようわかったか、自分がどんなことをしたのか」
「わかったから……っ!!」
琴子が小さく叫んだ瞬間、常は両手を広げた。炎を祓うように手をかざすと、一瞬でそれが消失する。その一部始終に、琴子は自分の目を疑った。
蝋燭の火だけが残された暗い部屋で、自分の息だけが激しく聞こえる。
気が付けば、背後から抱きしめられるように、自分の頬に常の頬がついていた。ひんやりとした体温だった。
「もう一度だけ聞く。助けてほしいか?」
耳元で、常が囁いた。
霊の存在など、信じていなかった。ついさっきまで。今でも真実信じているかどうかは自分でも定かではない。けれど、この恐怖は本物だ。
「助け……られるの?」
「わしなら、できる」
くすりと、目を細めずに常が笑った。瞳だけを横に動かして彼を見ると、唇さえ触れそうなほど近くで、常が琴子を見ている。
琴子の頬を水滴が伝った。恐怖からの涙なのか、汗なのか自分ではよくわからなかった。それを常が唇で吸い取る。抵抗する気は起きなかった。
「じゃが、タダでというわけにはいかん」
すっと常の手が、琴子の胸元に入り込んでくる。シャツの第二ボタンが勝手に外れ、気が付いた時には裸の胸をつかまれていた。
「な、なっ……!!」
突然の常の行動に、琴子はようやく自分を取り戻す。
屈んだ身体の、ブレザーとシャツの下、常の片手が、左の胸を包み込んで揉んだ。
「わしの女になれ、琴子」
耳元で常がくっと笑う。その舐るような湿度を持った声に、琴子の身体がぶるりと震えた。
「な……に言って……っ」
左の乳房を揉む、常の指はひんやりと冷たい。親指と人差し指で乳首を摘まれて、琴子は思わず喘いだ。くすりと耳元で尚、常が笑う。
「誤解するなよ。わしはおまえのような女が大嫌いだ。じゃが……」
暗闇の、蝋燭のぼんやりとした灯りの中で、まるで暗示をかけるように常が囁く。琴子は必死に身体を屈め、服の上から胸を押さえ込むようにして抵抗した。
「それなりの対価は必要じゃろ?」
常の指先が、執拗に琴子の肌を舐めまわしている。
思わず、喘ぎが喉から漏れ出しそうになって、琴子は歯をくいしばり、そして勢いをつけて、立ち上がる。肩口が常の顎に当たったのがわかった。
「痛っ!」
「そんなんだったら助けてくれなくていい!」
振り向くと、常が顎を押さえて床に座り込んでいた。
琴子はザッと暗幕を開ける。真っ暗だった部室に光が差し込むと、まるでさっきまでの出来事が夢だったように感じられた。
「おま……え、ほんとに強情な……」
「うっさい!バカ!!」
乱れた胸元を押さえながら、部室を飛び出す。顔がまだ紅潮して、息が荒い。
駆け込むようにトイレに入って、個室の壁にもたれた。
遠くでざわざわと生徒たちの声がする。そろそろホームルームが始まるのだろう。
まだ気持ちが混乱していた。
霊の存在など認めない。信じない。憑かれているからといってどうなるというのだ。
さっきまでの常の指の動きが不意に肌に蘇って、ずくりと身体の奥が疼く。
まだ鼓動は早いまま、だがもうそれは恐怖のためではない。
琴子は、そっとスカートをたくしあげて、下着の中に手を差し入れた。
「…………!」
指の先に、ぬるりとした愛液が付着した。



「帚木くんって、どこから転校してきたの?」
「方言、変わってるよね」
休み時間になる度に、琴子の隣に用意された、常の机の周囲は大混雑だった。
それもそのはず、冷静に見れば常の容姿は整っているのだ。にも関わらず人なつっこい笑顔とどこか浮世離れした雰囲気に、クラスの女子が騒ぐのも無理はなかった。
琴子ももし、昨日からのあんなことがなければ、胸をときめかすこともあったかもしれない。 だが今は、単なる奇妙な転校生にしか見えなかった。
「生まれは西の方じゃ。仕事で全国転々としとったからのー。あちこちのが混ざっておるんじゃろ」
「仕事って?」
除霊師だってさ、と、琴子は言ってやりたかった。そうすれば皆も少なからず常に"引く"はずなのだ。けれどそれを言っても、ならばどうして琴子がそんなことを知っているんだ、と、追求される。言うことができない。
そんな琴子の内心を見透かしたように、常はちらりと琴子を見て、そして微笑んだ。
「神社の修繕とかな、まあ家業じゃな」
「へえ、大変だねー」
常の言葉に琴子は驚いた。除霊師ということを信じたわけではなかったが、成る程確かに、この町にある唯一の神社はつい最近から修繕中なのだ。
余計に常という人間がわからなくなる。
「じゃあ今回も、仕事で?」
「いや……今回は」
そこで言葉を止めた常に、琴子はぞくりと嫌な予感を感じ取った。
縋る気持ちで常を見たが、常は一度、琴子にだけ意地悪げな視線を向けて、にやりと笑った。
「琴子のためにここに来たんじゃよ」
そう言って、照れたようににっこりと笑う。憧れとも非難ともとれる嬌声があがった。 周囲の女生徒の目に、明らかな嫉妬と好奇心が溢れる。
わざとだ、と、琴子は悟った。
さっきあの部室で常ははっきりと琴子に敵意を露わにしたのだ。これは琴子を追い込むための作戦に違いない。
「ちょっと琴子、どういうこと!?知り合いなの!?」
「――知らないっ!」
琴子はたまらず、バン、と大きく机を叩いて立ち上がる。そして常を思い切り睨みつけた。
その時、 急にふっと教室内が暗くなった。ざわめきが起こる。
「おい……なんだあれ……」
さっきまで晴れていたはずの空に、突然暗雲が立ちこめていた。窓に生徒達が集中する。
ぽつりぽつりと、空から白いものが降ってくるのがわかる。雨ではない。
「雪……!?」
窓を開けた生徒が、手を伸ばす。その手のひらに水滴がついた。
立ち上がって窓の近くへゆく生徒達の中で、琴子は一人、昨日のこっくりさんのことを思い出した。

"明日の天気を教えてください。――晴れのち雪"

あれは、自分の悪戯だった筈だ。いまは10月。北海道ならまだしも、この地域ではありえない。
「だから言ったじゃろうが」
いつのまにか、常が背後に立っていた。真剣な表情で、琴子を見ている。その視線にぞくりとした。
「まだ信じとらんかったようだの。このままでは済まんぞ」
ぼそぼそと、顔を近づけて常が言う。自分の息を呑む音が、やけに大きく聞こえた気がした。
「じゃあ……どうしたらいいの」
「皆まで言わすな」
常の言った言葉は、例の条件を指しているのだろう。だがそれは、琴子にはできない相談だった。琴子には……好きな人が、いるのだ。
「残念だけど、彼氏がいるんだから。だからそんな条件のめません」
彼氏と言ったのは見栄だった。常をあざ笑うつもりで見やったが、常はなんだそんなことか、と呟いた。
「なら別れれば良い」
「……どっかおかしいんじゃないの!?」
口調といい態度といい、変わった奴だと思ってはいたが、さらりとそんなことを言ってのけた彼を、琴子はやはり理解ができない。
「席につきなさい!」
教室内を包んだ喧噪に飛び込んできた教師が叫んでみても、騒ぎはこの教室だけに留まらなかった。
席を立って、季節はずれの奇妙な雪にはしゃぐ生徒たちの中で、琴子はひとり、取り残されたようにただ座っていることしかできなかった。



奇妙な一日がようやく終わり、一刻も早く下校しようと鞄を持ち上げた琴子を待っていた人物がいた。
「……部長」
ドアのところに立っている見慣れた顔に、いつもならばうんざりするところだったが、今日の琴子は事情が違っていた。
「ちょっと早乙女さん!やっぱり昨日の予言は当たったじゃないの!どうしてくれるの!?私たちまで巻き込まないで!!」
ヒステリックに捲し立てた彼女に、琴子は初めて、昨日の悪戯を後悔した。
「すみません……」
未だに霊うんぬんといったことを信じたわけではない。それでも少なくとも霊に怯える彼女の気持ちが、いまの琴子ならばわかる。
珍しく殊勝に頭を下げた琴子の様子に、彼女は些か面を食らったように黙り込んだ。
「部長、お祓いとかってどうやるか知ってますか」
「やっと貴女もわかってくれたのね」
自分の口からよもやお祓いなどという言葉が出てくる日が来るとは、琴子自身思ってもみなかったが、常にだけは頼りたくはなかった。
満足そうに微笑んだ部長は、メモ帳にさっと何かを書き記して琴子に手渡した。
「ここに、私の懇意にしてる霊能者の方がいらっしゃるわ。連絡して、なんとか……」
目をきらきらとさせてそこまで言った部長が、突然青ざめた。
メモを受け取った琴子が眉根を寄せるが早いか、彼女が踵を返すのが早いか、部長は廊下の人混みをかき分けるように消えていく。
「部長?」
ドアから乗り出して、彼女の背を見ようとした時、背後から伸びてきた手に、メモを取り上げられる。
「こんなもん、必要ないじゃろ」
「ちょっ……あんた!」
常が握り込めたこぶしの中で、青い炎が瞬間、微かに見える。
伸ばした琴子の手首を常は軽々と握ると、にっこりと笑ってみせた。
「さー、琴子ぉ、一緒に帰ろうなー」
「誰があんたなんかと……っ」
抗議も空しく、長身の常に半ば引きずられるように手首を掴まれて、廊下を行く琴子の視線が、ある背中で止まる。
白いシャツから、陽に灼けた首がのぞいている。がっちりとした体躯。隣のクラスの、乾だ。
琴子はあわてて常の手をふりほどくと、乾に気づかれないようにと人混みにまぎれようとした。
「……ふぅん」
「な、なによ」
乾に背を向けるようにして、少し早足で歩き出した琴子の隣で、常がうっすらと笑っている。
「あれが琴子の"彼氏"か」
その表情は、まるで悪戯を思いついた子供のようだった。おそらく昨日の自分もこんな表情をしていたのだろう。
「さあね」
琴子は平静を装った。乾のことがわかれば、きっと常は乾さえ取引に使う。まだ彼とよく知り合っているわけではなかったが、なんとなく、そんな気がする。
「あれさえ消えれば、おまえ、わしのものになるか?」
「なに言って……!?」
琴子の予感は当たってしまった。
常の端正な横顔が、ぞくりとするほど美しく歪む。心臓が握りつぶされるように早く鳴った。
「!」
靴箱の並びに、乾がいる。勿論、他の生徒たちもだ。
常の視線がそちらに集中した。気づかれてしまった、と、琴子は思う。
「ちょっ……やめて」
常は婉然と微笑んでいた。ぴりぴりと空気が張りつめる。
す、と常の腕が上がる。何かをする気だ。
琴子は思わず駆けだした。乾の目の前に、飛び込むように琴子が行くのと、常が上げた手を振り下ろすのは、ほぼ同時だった。
パァンと何かが弾ける音がした。
視界が瞬間、白くなる。遅れて、叫び声。
「きゃああああああっ!!」
昇降口のドアにはめられていたガラスが、一斉に割れたのだ。
けれどその状況を理解する間もなく、琴子は誰かの上に倒れ込んでいた。
「琴子!」
「い、た……っ」
自分の名前を呼んだのは、常の声だ。だが琴子には耳に入らなかった。
おそるおそる起きあがると、深緑の制服のプリーツスカートに、黒い染みが転々とある。
「何があったんだ!?」
「わかんない、突然ガラスが全部割れて……っ」
昇降口は喧噪の渦に変わった。見やれば、何人かの生徒が琴子のように床にしゃがみこんでいる。
視線の先にある自分のふくらはぎに、赤い傷口があった。深い。
と、自分が押し倒したらしい身体の下にいた人物が起きあがる。
「なにが……あったんだ!?」
「乾……くん!」
陽に灼けて浅黒い肌をした乾が、琴子を見て怪訝な顔をした。なぜ名前を知っているのか、という顔だ。だがすぐに視線をずらすと、琴子のふくらはぎについた傷に気づく。
「おい、怪我してるじゃんか!大丈夫か?」
「あ、うん。乾くんは……?」
彼は琴子の問いには答えずに、持っていたスポーツバッグの中からタオルを取り出した。
それで手を包むようにして、琴子のふくらはぎに刺さったガラスの破片を握る。
「い、いた……っ」
「ちょっと我慢して」
ぐ、と肉が裂ける痛みを残して、破片が抜き取られる。
そしてそっと傷口の上からタオルがあてられた。
「あんまキレイなタオルじゃなくて悪いな。とりあえず、すぐ病院行ったほうがいいよ」
「ありがとう……」
すぐ目の前で、乾が自分を心配している。それだけではない、自分の傷口の手当までして、言葉を交わしているのだ。
琴子にとってみれば、傷の痛みなど吹き飛んでしまいそうなことだった。
「琴子!怪我は……っ」
夢のような気分から、瞬間に突き落とされるような声。
背後に、常が立っている。常はなんとも言えない、複雑な表情をしていた。
「……許さないから」
常にだけ聞こえるように、琴子は言った。
彼のせいだ。彼が、乾に何かしようと、こんなことを引き起こしたのだ。
常は何か言葉を続けようと口を開きかけて、そしてやめた。
すっと膝を折って、琴子のふくらはぎにタオルの上から手をあてる。
「ちょっと!やめてよ!!」
「すまん。治療だけ、させろ」
絞り出すようにそう言って、常が瞳を綴じた。
ひんやりとしていた常の両手が熱を持つ。じんわりとした暖かさだった。
だが側に乾がいるのに常に触れられているという恥ずかしさで琴子が視線をはずすと、乾はもう、他の生徒の救助にあたっているようだった。
「おい……」
ざわめきの中から、誰かの声がする。しゃがみこんでいた生徒たちも皆、もう立ち上がっていた。
見れば、十人ほどいた昇降口の生徒の中で、誰一人血を流している者がいない。
「他に怪我をした者は?」
「それが……」
教師の声に、ざわざわと生徒たちが奇妙な顔をしている。
見れば、琴子が倒れていたところに血の染みはあっても、他のところには一滴の血もない。
「――怪我をしたのは、琴子だけだ」
瞳を綴じたままの常が、ぽつりと言った。
その言葉に、琴子はわずかに安堵する。そして安堵が去ると、余計に常が憎くなった。
「じゃあやっぱり、乾くんだけを狙ったってこと、なんだ」
「…………」
きゅっと、常が唇を噛んだ。ふつふつとした怒りに、琴子は立ち上がった。
血を失って、ふらりとたちくらむ。それを常は見逃さなかった。
「触らないで!」
肩に寄せられた手を、琴子は力一杯ふりほどく。
そしてガラスをよけるようにしながら、上履きのままで昇降口を飛び出そうとした。
ドン、と、男子生徒にぶつかる。――乾だ。
瞬間、見上げた琴子に乾は何かを言いたそうな顔をしたが、琴子はもうそれどころではなかった。
駆けだした琴子を、背後から足音が追い掛けてくる。
腕をつかまれた。
「おい、琴子!」
「いい加減にしてよ!!」
追いついた常の腕を力任せにふりほどいて、キッと睨み上げる。涙が散った。
「もう私に構わないで!なんなのよ!なんで私なのよ!!」
除霊師だと常は言った。だから琴子についている霊を祓うと。その対価として自分を寄越せと。
たしかに、悪戯をしたのは琴子だ。だがそのせいで、乾にまで危険が及んだ。
常のことが信じられない。それ以上に、彼が恐ろしかった。
力を持ち、あんな風に平然と人間を傷つけられる、彼が。
これ以上つきまとわれるなら、いっそ悪霊にでも殺されたほうがいい。
「取り憑いてるのって霊じゃなくてあんたじゃない!人の気持ちもわかんないの!?もういい加減、放っておいてよ!」
「琴子!」
ぐちゃぐちゃになった心の中を言葉にしたように喚き散らす。
途切れた息の中から常を見上げると、彼は何故かひどく、傷ついたような顔をしていた。
「妙な真似をして、おまえを怯えさせたのは悪かった!じゃが……あれはわしじゃない」
肩をつかまれたままで、常が真っ直ぐに琴子を見た。
冷たい瞳だと思っていた。あの青い炎のように温度を感じさせない、冷たい瞳だと。
だがなぜか、いまはその瞳に熱を思う。
「嘘!だって乾くんを……」
「違う。最初から、狙われたのはおまえだ」
散らかっていた心が、次第に落ち着いていく。あの衝撃の中で、琴子が庇ったとはいえ、傷ひとつつかなかった乾。 怪我をしていたのが自分だけだったという事実。
ぞくりと、恐怖が怒りをなだめていく。
「わしにあそこまでの力は、ない。いいか、わしに人間を傷つけられる力はないんだ。せいぜい目に見えないものを祓うくらいしかできん。あれは……」
「……あれは、私の……せいなのね」
怒りがおさまると、心は平穏だった。最早恐怖さえもなかった。
些細な、ほんとうに些細な悪戯だったのだ。それが、あんなことを引き起こした。自分だけではなく、乾や、他の生徒まで巻き込んだ。
琴子は初めて、心の底から自分の愚かさを、悔いた。
目の奥が熱い。ふと、さっきまで深々と傷ついていたふくらはぎが、そんなに痛まないことに気づいた。
常が癒してくれたのだろう。
「――止めようと、したんだ。琴子が、飛び出していくとは思わんかった」
顔をあげる。目の前に、常が複雑な表情のままで立っていた。
あの時、常が手を伸ばしたのは、乾を攻撃するためではなかったのか。
何か不穏なものの空気を察知して、琴子を、守るために――?
「私のこと、大嫌いなんじゃ、なかったの」
一歩、一歩、と、夕焼けの道を歩き出しながら、琴子はぽつりと聞いた。
隣に並んだ常が、困ったように頭を掻く。
「思い知らせてやろうと、思ったんじゃがな」
常の言葉に、彼がどうして自分を大嫌いだと言ったのか、琴子はようやく悟った。
自分の些細な思いつきや悪戯で、これだけ人を巻き込んで、不安にさせた。
自分が信じていないものを、人もまた信じていないとは限らないのだ。
部長は、一年女子は、昨日の夜、恐怖で眠れなかっただろう。
今日雪が降った時、はしゃぐ生徒たちの中で、彼女らはどれほど怯えただろう。きっと今夜も眠れないかもしれない。
彼女らの信じているものを自分が信じられないからと言って、それを貶めることは、間違っている。
自分は、とても傲慢で、愚かだった。
「――-たすけて、くれる?」
隣に並んで、というより、琴子の後を必死についてくるようにして歩き始めた常を見上げるようにして見ると、常は目を細めて、ふ、と笑った。
「たすける」
一瞬、その笑顔に見とれてしまった。柔らかい笑みだったのだ。
「こんどは、まもってやる」
ぐっ、と、琴子の頭が寄せられた。ひんやりとした手のひらだった。
それがなんだか暖かく感じられて、琴子は少し泣いた。
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