呉ノ朱

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  最終話.  

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「黒崎くんて、彼女とか、いないの?」
もうこの言葉は、入学して半年が経とうという頃には、聞き慣れたものになっていた。
中学高校と一貫して隣に十巴がいたせいだろう、モテるという自覚はあったにせよ、当初は新鮮だった、身近な人間がうっとりと自分を見上げる視線にも、もうずいぶんと慣れた。
「……いるよ」
最近は面倒で、そう答えることに決めていた。
十巴と自分とが、"つきあっている"という世間一般のカテゴライズにあてはまるかどうか、行幸は疑問を感じてならない。
けれど、ひとつひとつを説明するほどの暇も、行幸は持ち合わせていないのだ。
隣に並んで歩いていたその女子学生の顔が、少し曇る。
「遠距離なんだってさ」
別の男子が、フォローのつもりか口を挟んだ。
彼が彼女に対して悪からぬ感情を持っているのを行幸は知っていたので、そのまま慰めの言葉を続ける彼を、どことなくほほえましく見やった。
大学での友人関係は、高校時代とは少し違っていて、どこか皆ドライに距離感を保って、心地が悪いわけではけしてない。
それでも、足りない姿がある。
いつだって、風通しのよくなってしまった右側がさみしくて――-十巴がいたなら、と、どうしたって思うのだ。
十巴も、そんなふうに思うことがあるのだろうか。



借りたアパートは大学から歩いてすぐ、築35年の、窓が歪んでうまく開かない。
行幸の選んだ道を、父は認めてはくれなかった。けれど譲る気もなかった。だから家を出た。
大学の学費の半分は母親が内密に補ってくれ、半分は奨学金でまかなうことができる。
高校時代、暇を見つけては勤しんだアルバイトで借りられたいまの家を、行幸は同級生の不評に反して、気に入っていた。
コンビニのアルバイトにも、家庭教師のアルバイトにも、すぐに慣れた。
家事をしていてふと、十巴の「お嫁さんにしてやる」という言葉を思い出して、時折くすりとおかしくなる。
十巴はきっと、料理なんかずっとできない。
そんなことを考えながら鍋を動かし、作る料理の腕もあがった。
大学の授業はどれも新鮮で、ふいに十巴もこんなふうに、慣れない警察学校の授業を必死に覚えているのだろうか、と、見知らぬ教室に座る彼女の姿を想像する。
そのひとつひとつどれもが、恋をする少女のようで、そんな自分を、毎日を、行幸は案外と、気に入っているのだった。

――十巴からの連絡は、いまだにない。

幾度か送った メールの返事も、電話だって、一度も鳴ることはなく、桜は散ってしまった。
空には積乱雲が現れはじめて、いまやもう、夏だ。



いつものように軋む階段をかけあがって、ドアノブに鍵を刺した。
あれ、と思ったのは、鍵が開いていたからだ。
鍵をかけ忘れたのだろうか。それとも泥棒か。盗むものなどなにもないのに、と、わずかに緊張しながら開けてみれば……懐かしい姿が、窓ぎわに腰掛けていて。
「おまえ、物騒だぞ。合いカギはポストじゃなくて、ちゃんと持ってろよなー。そんなんだから空き巣被害が減らないんだ」
そんないっぱしの口をきいて、彼女は夏の空を背に笑う。きっと、笑う。
少し大人びた表情で、いつも短かったショートの髪を少しだけ長くさせて、けれど見知ったあの笑顔で笑う。
その窓際に、十巴の姿なんかなかったけれど、行幸はそれでも確かに幸福だった。
四畳半の、古い部屋にはコタツ机と敷きっぱなしの布団。山と詰まれた本の数々。
十巴がこの部屋を見たならばきっと、
「すっげーボロイとこ住んでるのな。ウチの寮の方がずっときれいだぜ」
なんて、相変わらずの口調で言うだろう。
この間、久しぶりの百花からの電話で、警察学校の寮に入った十巴は言葉遣いを直すことに一番苦労しているらしい、という話を聞いた。
姉妹たちにすら、十巴はまずめったに連絡など寄越さないのだと、百花の不満そうな声が耳に懐かしかった。どことなく、十巴の声と似た音質で――---。
不意に、開け放たれた窓から、懐かしい音が聞こえて行幸は耳を澄ます。
――--蝉の、声だ。
まだ蝉が鳴くには早い季節。
開け放った窓は遠く、都会とは思えない山の景色が広がっていて、そこから差し込む風が心地いい。
十巴がもしここにいたならきっと……。
そんなことばかり考えてしまう自分がおかしくて、行幸は一人、くすりと笑った。
ふと、鞄の中の携帯電話がチカチカと点滅していることに気づく。着信を知らせるランプだ。
とりあげて、ちらりとまた、十巴を思った。
まさか、とすぐに笑い飛ばすことができるほど、行幸は十巴の不在に慣れ始めてしまっていた。
着信を見れば案の定、母親からの電話で、留守電に「今日、宅急便が届くから」と短い伝言が入っている。
ダンボールに詰められた、乾物や缶詰。定期的に届くそれは、いつも暖かかった。
「届くからって……何時にとか、言ってくれないと」
苦笑して時計を見やる。
休日の今日。本来ならばバイトのある日だったけれど、家庭教師先の子供が熱を出したとかで予定が空いたのは、運がよかったからに他ならない。
窓からまた、遠く、蝉の鳴き声が聞こえる。
この部屋に、ベランダなんかないのに、窓枠に切り取られた景色は見慣れたそれとよく似ていて、その向こうに青空は広がっているのに、そこに十巴の部屋がないことが不思議なくらいだ。
「遊びにいこうぜ」
こんな晴れた空、十巴だったらきっと、そう言う。
勉強ばっかりしてると頭悪くなるぞ、という彼女独自の理論を掲げて、青空を両腕いっぱいに抱えて、日曜の少年が笑う。
懐かしくて、切なくて、まぶしくて――――。
行幸はいつだって、目を細めずにはいられない。
感傷を突然遮ったのは、ピンポンではなくビンボン、とくぐもって響くチャイムの音。
……宅急便だ。
はい、と答えて、玄関とも呼べない玄関の木の扉を開けた。
「こちらにハンコ、お願いします」
「…………」
立っていたのは、縞のユニフォームを着た宅配業者ではなく。
「ってゆうか、重かったんだから早く持てって!」
「あ、ああ……」
耳を疑う、懐かしい声。
受け取りそこねたダンボールが玄関先に転がって、目の前の人物が、あーあ、と漏らした。
「行幸?」
――--名前なんて、呼ぶな。
そんな懐かしい声で、名前なんて、相変わらずの声で、名前なんて、呼ばないでくれ。
行幸は思わず、抱きしめていた。
ひなたの匂いが、そこにあった。
「ちょっ、行幸っ、こんなところでセックスか!」
十巴が身体を緊張させて裏返った声をあげた。
……バカ、と、相変わらずの様子に内心思わず苦笑する。
バカ、なんて言葉を思うのも口にするのも、いつだって十巴にだけだ。
ショートだった髪は少しだけ伸びて、顔立ちもどことなく凛々しい、大人びたものになって……。
そんな感慨に浸る暇も与えず、十巴の腕がぐい、と行幸を引き剥がす。
耳が少し赤く、染まっていた。
「うわっ、すげーボロい部屋!ウチの寮の方がずっとキレーだぜ……わよ」
予想したとおりのセリフを大声で言って、語尾を慌てて訂正する。
十巴が脱ぎ捨てた靴が足元にあたって、行幸はようやく、これが自分の妄想や幻覚なんかじゃないんだと、安堵する。
十巴は開け放した窓際に腰掛けた。
「でもこの窓、気持ちいいなー」
彼女は夏の空を背に笑う。
彼女ならきっとそう言ってくれるだろうと思っていた。
自分たちが愛した、あのベランダによく似たこの窓に腰掛け、笑顔になると知っていた。
少し大人びた表情で、いつも短かったショートの髪を少しだけ長くさせて、けれど見知ったあの笑顔で笑うから。
行幸は自分が十巴の前で、どんな顔をして笑っていたかなんて、忘れかけていたというのに。
「十巴、おまえもう、卒業……?」
「なわけないだろ……じゃなかった、ないでしょ。ちゃんと許可もらえば外泊できるの、わよ」
わざわざ珍妙な女言葉に直して、十巴の髪が窓からの風に揺れる。
あの卒業式の姿が重なって、とても遠いことのように思えた。
なんで連絡よこさなかったんだ、なんて、責める気はさらさらなかった。
行幸がこの数ヶ月、自分の足で立つのに必死になっていたように――--十巴もまたそうなのだと、言われなくとも知っていたから。
「ヘンな言葉」
だから行幸はようやく、くすりと笑うことができた。
いまここに十巴がいる、それだけでお釣りが来た。
こんなに長い間、離れていたことなんかなかったから、どんな顔をして笑っていいかも忘れてしまっていた。
不意に、開け放たれた窓から、再び懐かしい音が聞こえて行幸は耳を澄ます。
「………蝉?」
気づいた十巴が、身を乗り出すようにして、窓を向いた。
「まだ蝉が鳴くには早いよな」
光の中から十巴が笑う。
いつかの夏の日の、泥だらけだったあの笑顔が重なった。
「な、探しに行こうぜ、行幸」
そう言って、太陽の光を背中にいっぱい浴びて、十巴はやっぱり笑うのだ。
きらきらしたどんぐりのような瞳で、いつだってこうして、行幸を教科書だらけの部屋から連れていく。
――---変わらない。
まぶしくて、光が目に染みて、行幸は目を細めた。
「ああ」
光の中から伸ばされた手を、今度こそしっかりと握る。
暖かい体温が握り返して、十巴はあの帰り道と同じ笑顔を浮かべると、
照れるね、と、一言言った。
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