呉ノ朱

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  十.  

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「行幸!オイ!」
ドンドン、と、けたたましく窓を叩かれる音に、机に向かって受験勉強に勤しんでいた行幸がベランダを見やれば、そこには十巴ではなく……一乃の姿が、あった。
「イチ姉!?」
その姿を認めて、行幸はがば、と飛び起きる。
彼女が藤篠家に里帰りしていることは知っていたから、それはさほど驚くことではなかった。問題は……。
「なにやってんだよ!そんなお腹で、柵越えたりしたら危ないだろ!?」
怒鳴るように言って、ベランダの窓を開けた一乃の腹部は既にふっくらとして、彼女が妊婦であることを無言で示す。
しかしそれよりもずっと、掴むかかるように必死の形相をさせた一乃の言葉が、行幸の思考を奪った。
「十巴、来てないか!?部屋にいないんだ!」
「え……!?」
一乃をこんなにも慌てさせているのも、行幸の頬を白くさせたのも――---夜が明ければ、十巴の試験だからだ。
脳裏にちらりと、放課後の十巴の様子がかすめた。
明らかに、いままでの彼女とは違っていた十巴の姿。必死な横顔。
「昨日、ベランダのことでまた父さんとやりあって……で、明日は試験だろう?大人しく寝てるかと思ったら……」
「わかった。心当たりのところ、探してみる」
青ざめた一乃を安心させるようにと頷いてみせて、行幸は最後に、帰るときは玄関からね、と付け加えるのを忘れなかった。
こんなことが発覚すれば、自分の先輩でもある彼女の夫に、一体どんな仕打ちを喰らう羽目になるだろう。そう考えるだけで背中が凍る。


「心あたり……か」
深夜の夜の空気は、もう冬の匂いをさせて、ぴんと張りつめて寒い。
ジャンパーの衿を寄せて、さてどうしたものかと町並みを見渡した。
このあたりも、もう随分と景色を変えた、と、いまさらながらに思う。
あの頃はまだ町中に、ぽつぽつと空き地があって、雑草が生えていて、十巴や、同じく幼なじみたちと泥だらけになって遊ぶのが、好きだった。
……いや、ちがう。


「なんだよ、またべんきょうなんかしてんのか? あったまわるくなるぞー?」
おもちゃのホルスターをつけ、片手に鉄砲をもった十巴が突然自分の部屋に現れたことに、行幸は卒倒しそうな程、驚いた。
あれは、暑い夏の予感をさせる、少年時代の初夏の昼下がり。
「ともえちゃん、どこからきたの!?」
「ん?あそこ。とびこえてきた」
へへ、と満面の笑みで誇らしげに、自分の背後を振り向いてみせる。そこには自室のベランダ、そして十巴の部屋のベランダがあるだけだ。
無論、そのベランダはつながってなどいなくて、ぽっかりと空間が空いている。
ましてや、ここは二階である。
「と、とびこえ……て」
ノートにつけたままだったシャープペンシルの芯が、ポキリと折れる。
十巴は行幸の驚愕などよそに、ぐいぐいとその腕を引いた。
その背中の向こうに広がる、入道雲が白くまぶしい。
青空をその背にかついだ十巴が、にっこりと笑った。
「ほら、遊びにいくぞ。おまえもひみつきちの一員にしてやる」
「ひみつきち?」
腕を引かれて部屋を出ていきながら、ちらりと学習机を振り返った。
――しゅくだい、しないと怒られちゃうかな。
そんな思いが頭をかすめても振り切ったのは、十巴の腕の力が強かっただけではなく、塾の宿題のノートが開け放たれた窓から差し込む風にぱらぱらとめくれて、それがまるで、たまにはいっておいで、と囁いてくれているようだったから。

「これが、ひみつきち……」
連れて行かれたのは小学校裏の林、木々の立ち並ぶそこに、ダンボールで作られた奇妙な塔があり、その前に立った十巴が、扉らしい部分をノックする。
「あいことばをゆえ!」
「山!」
行幸は塔の中から声がしたことに驚き、ただ十巴の背中でそれを見守った。
「川!」
ダンボールの扉の向こうから、声が返ってくる。
「豊!」
「よし、はいっていいぞ」
十巴が叫び終わると、内側から扉が開き、見慣れたクラスメイトの男子の顔がのぞいた。
彼は行幸の姿を認めると、突然眉をひそめる。
「なんだよともえ、こんなやつ仲間にするのか!?」
嫌悪感たっぷりにつきつけられた言葉に、行幸はびくりと身体を震わせる。
十巴は扉をくぐろうとした体勢のまま、行幸をふりかえって手招きをした。
「こんなやつってなんだよ!あたしのしんゆうだぞ!?」
「だってよー、いいんちょー、ガリ勉じゃんかよ。ひみつきち、のぼれんのかよ」
彼の言葉のとおり、入り口から見上げた秘密基地は、高い松の枝あたりまで伸びていて、行幸は十巴の手招きに応じることができなかった。
当時の行幸はといえば、身体もやせっぽちで、祖父の武道道場でも万年ビリ、幼稚園生にすら負ける始末。
とりえといえば勉強くらいで、なにもかもが、彼の御指摘の通りなのだ。
「木、のぼれたら仲間にしていいんだな!?」
くねくねと身体をくねらせて弱っていた行幸のもとへ十巴がつかつかとやってきて、そうして、すぐ隣にあった一本の木を指さす。
「のぼれ!」
「ええっ!?」
突然の命令に、行幸はただ戸惑うばかりだ。
「いーいーからー、のぼれっ、てっ!」
ぐい、と背中を押され、そして次は尻を押される。
昔から、どうしたって十巴の命令に逆らうことはできないのだ。
「そう、その枝に足かけて……んで、そこ!そこつかめ!」
リモコンで動くロボットよろしく、十巴の言葉のままに、手に、足に力をこめる。
木の匂いがぷんと鼻をくすぐって、手も足も真っ黒で、ところどころ赤く擦り傷ができている。
……おかあさんに、おこられちゃうんじゃないかしら。
そんなことをちらりと思った、その時。
汗で滑った手のひらは枝から離れ、くらりと空が揺れて、次の瞬間には背中に衝撃があった。
「みゆき!」
背中を打って、息ができない。ゲホゲホと咳き込んだ。
「みゆき、おい、だいじょうぶか!?」
背中が痛い。すりむいた手のひらも痛かった。十巴が心配げな顔をさせて、のぞきこんでいる。
――やっぱり、無理だよ。
頭の中で声がした。
やっぱりぼくは、勉強だけしてればいいんだ。いいだいがくにはいって、パパとおんなじかんりょうになって、それで……。
日常的に叩き込まれている呪文のような言葉を頭の中で繰り返して、どこかでチクリと胸が痛む。
自分の部屋の、あのベランダの窓からいつも見つめるだけだった景色。
一緒の通学路を歩いて帰ってきた十巴が、ランドセルを投げ出して、駆け出していく後姿。
真っ黒に日焼けした十巴が、太陽の下で楽しそうに走り回っている姿。
いつも自分だけといた十巴が、すこしずつ外の世界を覚えて、おいていかれてしまうという焦燥感。
「お、おい、行幸……」
「もういっかい、のぼる」
行幸は、ざらりとした木の肌に再び手をかけた。
眉をひそめていた十巴が、途端に笑顔になって、ひょい、と自分より先にその木にのぼっていく。猿のように。
「ここまできたら、ひっぱってやるから、頑張れ!」
十巴の陽に灼けた淡い色の髪が、木々の隙間から差し込む光でまぶしい。
――ほんとうはいつだって、ともえちゃんといたかった。
胸をこみあげるような思いを知ったのは、その時が初めてだ。
「がんばれ!」
十巴の声が響いて、逆光になった姿で、顔はよく見えない。
次に触れたのはもう木肌ではなく、やわらかく、しかししっかりとした肌の感触。
「のぼれ……た?」
「やったじゃん行幸!」
足の間に確かな枝の感触。心臓はまだ、ドクドクと苦しい。
目の前に、すすけた十巴の笑顔があった。
「見てみ」
十巴が、つい、と顎を遠くへ向ける。
木々の隙間から、夕焼けに変わる空が広がっていた。
夏の匂いを含んだ風と、気の早い蝉の声が遠く響いてくる。
「きれい……」
「ひみつきちの上からだと、もっときれいだぜ」
そう言って先を見つめる十巴の横顔を、行幸は見ていた。
ゆうやけよりももっときれいだ、と、思いながら。
「ほんとはいちばん、おまえに見せたかったんだ」
十巴が心底嬉しそうに笑う。その淡い色の髪のてっぺんあたりがきらきらと光って、ぼさぼさに乱れた髪の先がチカチカして、王冠のように金色に眩い。
――--王子様みたいだ、と、行幸は思った。
そうしてふと、ある童話を思い出す。
…きみもとべるよ、と、空の飛び方を教える少年の話を。
「そろそろおりようぜ」
そう言って、十巴が身体を動かした時だった。
不意にバランスをくずした行幸が、ぐらりとその身体をかたむける。
「わっ、あ!」
ふわり、と身体が浮いたかと思えば、さっきとは比べものにならない落下感が身体を襲った。
「みゆき!!」
続いてやってきたのは、ただ真っ暗な暗闇……のはずが、気づけば身体のどこも、痛いところはない。
「おい!ともえ!」
「先生よんでこい!」
集まったクラスメイトたちの叫び声の中、行幸は、自分の身体の下に十巴がいることを知った。
十巴はいつもは赤い頬を白くして、ぐったりと横たわっていた。


――ぼくのせいだ。
その夜、行幸は眠ることができなかった。
教師と、そして双方の両親からたっぷりと絞られたことよりも、折ってしまった腕にはめたギプスを「すげーだろ」と十巴が笑って自慢していたことよりも、病院で立ち聞きしてしまった看護婦の一言が耳から離れないからだ。
「今夜は、熱が出ると思いますから、よく冷やしてあげてください」
時計を見れば、もう九時をまわっていて、本当なら八時には寝ていなければならないのに、ちっとも眠くならないのだった。
立ち上がり、窓際へと行く。
ベランダを開けて十巴の部屋を見れば、オレンジの小さな明かりがぽつりとついているだけだ。
換気のためか、ベランダが少し開いているのも見てとれた。
自分のせいで、いまごろ十巴が熱に苦しんでいるかと思うと、たまらなかった。
ベランダの柵をつかむと、ひんやりとつめたい。
なのに手のひらが汗をかいて、じっとりと滑った。
――今日の昼、十巴とてこのベランダを飛び越えてきた。
十巴より身体は小さくとも、運動能力は低くとも、自分にだってできないはずはないはずだ。
柵をにぎり、足を乗せる。
木から落ちた時のことを思い出して、ぞくりと全身を寒気が走った。
――とべる。だいじょうぶ、きっととべる。
身体をばねのように縮ませて、そうして思い切り、足を蹴った。
小さな身体はふわりと宙を舞って――そして。
「……ともえ、ちゃん」
まだ心臓は、破裂しそうに鳴っている。
ぶるぶると震えが止まらない指で窓を開けて部屋に入れば、すぐに十巴の部屋が妙に暑い、と気づいてはっとした。
その熱源が、十巴にあるのだと。
ベッドの上の十巴は寝ているようだったが、真っ赤な顔をさせて、そして触れてみれば火傷しそうに熱い。
――ぼくのせいだ。
どうしていいかもわからず、泣き出しそうな心地で、必死に手を握りしめた。
自分が落ちなければ、十巴がこんな怪我をすることはなかった。
ううん、自分がもっと強ければ、十巴を守ることだってできたはず。
「かみさま……」
かしづいて、祈るような心地で手をにぎる。
つよく、なるから。
ともえちゃんを、まもるから。
これからさき、ぼくにうれしいこと、ひとつもなくてもいいから、ともえちゃんをたすけて。
「みゆ、き……?」
強く握りすぎたのだろうか、ベッドの上の十巴が、うっすらと目を開けてこちらを見ていた。
「なに泣いてんの?だいじょうぶだよ……」
行幸の泣き顔を見て、十巴は力なく笑ってみせる。
「とべたよ、ともえちゃん」
行幸もつられて、笑顔になった。
「ベランダ、とべた」
にっこりと笑うと、ぽろぽろと涙がこぼれおちる。
十巴は少し目を見開いて、そして、すげーじゃん、と笑った。
「みゆき、ペーターパン、みた……い……」
そうしてすう、と再び眠りに落ちていく。
見守りながら、ピーターパンだよ、と、心の中で思った。
そして、それは十巴のほうだ、と、呟くより先に、行幸もまた、ゆっくりと眠りにおちていった。

翌朝の両家が大騒ぎになったのは言うまでもない。
ベランダをとびこえるなんて危ないこと、と、真っ青な顔をさせた母親たちと、ダメって言ってもするもんね、と、平然とした顔をさせた十巴。
折衷案として、十巴が次の学期末にオール5をとることを約束として、ベランダの改築を約束させた。
もうひとつ、変化があった。
行幸はそれまでほど勉強に打ち込むことはしなくなり、祖父の道場へも毎日通った。友達も少しずつ、増えていった。
十巴とともに、泥だらけになって帰ってきては、もりもりとご飯を食べ、両親を驚かせたのだった。


――以来、ピーターパンが行幸の部屋に飛んできたことは、ない。


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