呉ノ朱

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  九.  

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あの熱の夜が去って、もうコートなしでは過ごせないほどに外気も冷たくなった頃、十巴はこれまでのどんなときよりも真剣に、机に向かっていた。
明日には、十巴の人生を決める国家二次試験が控えている。
まだ季節が夏の匂いを残していた、文化祭の一件より少し前……一次試験の時には、行幸は家庭教師よろしく、家でも学校でもそれこそつきっきりで彼女の勉強につきあった。
だがいま、十巴は、行幸を見ない。
「一人で、やってみたいんだ。それでダメだったらあきらめる」
一週間前、十巴はそう言って、決意をこめた瞳をさせた。
「だってもう、行幸にばっかり頼って、いられないだろ?」
無理していると、わかりやすすぎるほどに力無い笑顔で笑って、しかし十巴は、行幸をまっすぐに見ることは、しなくなっていた。……いつから?
思えば、あの文化祭以来、十巴は行幸を見なくなっていた。――あの、熱の夜を除いて。
――――避けられているのかもしれない。
お互いに生徒会長、風紀委員会としての役目を終えたいま、それでも教室で顔を合わせているはずが、十巴はその教室ですら、目を合わせてはこないのだから。
「……十巴、大丈夫なのか?」
廊下で百花をつかまえて、問いかける。
大丈夫なのはわかっていた。
この数日、学園内でも机にかじりついて勉強に打ち込む十巴の姿を見てはいたのだし、また、家でも部屋からまるで出てこないのだという話は聞いていた。
つまり行幸の心配は、別のところにあった。
「うーん、まあ、大丈夫……かなあ?」
弱ったように笑ってみせて、百花は手に持っていたお弁当箱を揺らした。
「ごはんも残してないし、いよいよオシリに火がついて、あせってるんじゃなあい?」
「そうか……」
行幸の心配の種とは別に、とりあえず十巴が真面目に勉強しているらしいということにほっとする。
安堵のためいきを吐いた行幸を、百花が不思議そうにのぞきこんだ。
「学校でも無視、ベランダも開けない、電話もメールも返事がないから、どうしたもんかと思ってさ」
「めずらしいね。行幸ちゃんまでしめだされるなんて」
百花はにい、と目元に皺を寄せて笑ってみせて、声をひそめる。
「なんかへんなこと、したんじゃないのお?」
その言葉に、ぎくりと顔をこわばらせたのを、百花は瞬時に読みとった。
「あら、アタリ?」
意地悪げにくすりと笑って、百花はひらりとスカートをひるがえした。
「ま、いまさらモモ驚かないけどね。トモエちゃんと行幸ちゃんが、くっ・つ・い・た、って」
百花は笑いながらも、目の奥で冷静に行幸の反応を伺っている。ぞくりとさせるような、猫科の瞳。
その瞳の色に、思い出す人間が一人、いた。
いまや一乃の夫となった、前任の生徒会長。百花を格別可愛がっていた一乃が、その純粋さ故に、彼にかすめ取られた理由をなんとなくいま、悟る。
「そういうんじゃない、けど、まあ」
行幸はつとめて冷静に、言葉を濁した。
すると百花は興をそがれたような顔をして、ちらりと宙を見やる。
「……やっぱり、ベランダのことが大きいのかな。行幸ちゃん、ベランダ壊すこと、反対してあげなかったんでしょう」
「ん?……ああ」
あの熱の夜の会話を、十巴が覚えているのだとしたら……拗ねているのも無理はないかもしれない。
これまで行幸はいつだって、肝心なときは十巴の味方で、仲間であり続けた。
時に間違いをとがめることはあっても、それでも十巴の心を最優先に行動してきた自負はある。
その行幸が、今回ばかりは、首を縦に振らなかった。今回ばかりは。……今回、だからこそ。
十巴もまた今回だからこそ、味方をしてほしかったのかもしれない。
「もしも、どうしても……なら、モモからパパにお願い、してあげましょうか」
行幸がしばらく無言のまま思いあぐねていると、めずらしく百花が真剣な表情をして、行幸を見上げる。
「モモの言うことだったら、パパは聞いてくれるもの。モモだって、火が消えたみたいなトモエちゃんなんか、つまんないから見ていたくなんか――---」
苛立ったように続けた百花の頭にぽん、と手を置いて、行幸は百花の言葉をとめた。
「ありがとな、百花」
微笑んだ行幸に、百花はバツが悪そうな顔をして、猫のように手のひらから逃げる。
百花なりの不器用な優しさが、嬉しかった。
それでもそれを十巴は望まないだろう。そして、自分も。
ベランダは、じきに失われていくだろう。十巴はきっと、試験に受かる。
こんなに頑張っているのだ、きっと受かる。
自分たちを繋ぎとめていたひとつひとつが朽ちていくのを感じながら、それでも行幸は、どうすることもできなかった。





――--その、放課後。
すっかりと夕焼け色になった教室に、ぽつりと人の影を見つけて、行幸はドアの前に立ち止まった。
「十巴」
名前を呼んでも、彼女は顔を上げない。
意外な光景である。十巴がこんな放課後に、教室で一人、机に向かって勉強をしているのだ。
邪魔をするのも……と、一度は立ち去ることを考えた行幸だったが、ふと思い直して教室へと入っていった。
チャイムから下校の音楽、パッヘルベルのカノンが静かに流れ始める。
その音楽にようやく十巴が顔を上げ、そうしてすぐ前の席に座っている人物を認めて、目を見開いた。
「行幸……」
行幸は背もたれに身体を寄りかからせるようにして、十巴を見ていた。
十巴が自分に気づくまで、いつまでだってそうしているつもりだった。
「やっと気づいたか。下校時間だよ」
十巴は見開いた目に、戸惑いの色をのせていた。
そうして、さっと顔をうつむかせる。ノートをしまう手が、明らかに狼狽しているのが見てとれた。
「……十巴?」
行幸の心の中に、静かに澱がたまっていく。
明らかに、拗ねているのとは違う反応。
……ああやはり、という失望のような気持ち。
あの文化祭の日、暗くなったあの教室で、自分が十巴に何をしたか――忘れた行幸では、なかった。
それでも十巴となら……これまでどんなことがあってもゆるがなかった自分たちだったなら、と、信じるような気持ちがあったから、平然としていられたのだ。
「お、おまえももう帰るんだろ?あたし、ちょっと寄るとこあるし」
「どこに?」
投げ込むように慌ただしく、鞄にノートやら教本やらを詰め込んでいく十巴の姿に、心が黒いもので満たされて、息ができなくなる。
十巴が決して自分と目をあわせようとしないことに、喉がぐうっと締めつけられる。
行幸は思わず、立ち上がろうとする十巴の手首を掴んでいた。
「……夕焼けの教室、だよ。十巴」
十巴がようやく行幸を見る。怒ったような泣き出しそうな、言葉にできない表情をして。
顔が赤いのは、夕焼けのせいだけではない。きっと。
「だから、なん、だよ」
「なんでもない」
そう口にしながらも行幸は、十巴の手首を掴んだ手の力を、ゆるめることはしなかった。
十巴がそこから逃れようと、身体をよじる。
「離せよ、行幸」
もう十巴は、行幸を見ない。
そのことが、こんなにもたまらない。
「いまならできるだろ。やり直しの――-」
「やめろよ!」
ぴしゃりと、鉈で断ち切るような声が、びり、と空気を震わせた。
避けられているという不安が、声に真剣味を帯びさせていても、それでもいつもの軽口のはずだった。
それなのに、夕陽に赤く染まった瞳が、燃えるような瞳が、きつくきつく、行幸を睨みつけている。
十巴がこんな瞳をして行幸を見るのは初めてのことだったので、行幸は思わずハッとして、十巴の手首から手を離した。
行幸の表情に、十巴もまたハッとしたのだろう。強張った表情のまま、すっと身体を離す。
「あ……あたしさ、いま、ホントに余裕、ないんだ。悪い……」
そう言ってぎこちなく笑ったのち、鞄をつかんだ十巴はもう振り返らずに教室を飛び出していってしまった。
ガタン、と、椅子が鳴った。
夕陽の落ちる教室で、ひとり、行幸は背もたれに額をあててうなだれる。
「最低、だ……」
さっきまでの自分は、いままで知っていたどの自分とも違っていた。
――恋はこんなにも、人を醜くさせることができるのか。
両手で頭をかきむしるようにして、行幸はあの日の自分の行動を、心底悔いた。
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