呉ノ朱

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  八.  

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文化祭翌日から十巴は、三日も熱を出して寝込んでしまった。
往診に来た医師の診断は、蓄積疲労と怪我のせいですな、と、あっけらかんとしたもので、姉妹達もその診断に、ああなるほど、と、なんとはなしに頷いた。
一人、行幸だけは、なんともいえない心地にとらわれて、姉妹たちが寝静まった夜、こっそりと十巴の部屋を訪れては、その額の冷却シートを取り替えたりだとか、してやったのである。
その、三日目の晩のことだ。
いつものようにカラカラと、なるたけ音をたてないよう静かに、十巴の部屋へと入ってきた行幸は、危うく声をあげそうになった。
三日間、意識も朦朧に、寝込んでいたはずの十巴が、身体を起こしてベッドの上に座っていたからである。
「お、おい、大丈夫か?」
「……飽きた」
十巴はくるりと行幸を振り向いて、いつものように口をとがらせた。
「寝てるの、飽きた。違うとこで寝たい」
「おまえ、なあ……」
行幸はへなへなと、ベッドサイドにへたりこむ。
この三日、家族が、そして行幸がどれほど心配したと思っているのか。
「行幸んちで寝る」
「おい、ちょっと……」
行幸の制止よりも素早く、十巴は起きあがると、スタスタとベランダへと行った。
そうして、窓際に立った彼女の顔がギクリと強張っただろうと、背中からでも行幸は想像することができた。
「こ……れ」
ベランダには青いビニールシートがとりつけられていた。
「…………」
十巴が救いを求めるように、無言で行幸を振り返る。
窓枠に手をかけたまま、行幸は何を言ってやることもできない。
「行幸、知ってた、のか?」
「ああ……」
行幸はついに十巴から視線を逸らし、一度、頷いた。
バルコニー状に改築された、柵を隔てて十巴と行幸の部屋とを繋ぐベランダ。
小学生の時、十巴が成績でオール5を獲ることを条件に、父親に約束させたこのベランダを、元々の形へと戻す、という話を行幸が知ったのは、文化祭の少し前のことだ。
十巴は毎晩父親と取っ組み合いの喧嘩をしている、と話してくれたのは確か百花で、行幸はしかし、何も言わないでいた。
行幸が残すことを請願したならば、あるいは残ったかもしれないベランダ。だが、彼女の父親が突然にベランダを壊す、などと言い出すはずがない。
――十巴の進路と、交換条件なのだと、行幸は悟った。
学歴志向の強い彼女の父が、十巴が選んだ進路を許すはずがない。
「知ってたなら、なんで……!」
「俺も残したいって言い出したら、おまえ、このベランダのために、試験受けるのやめるだろう?」
シャツにつかみかかってきた十巴の腕から、力が抜ける。
「だから……?だからベランダは諦めろって?」
かすれた、消えそうな声が夜を震わせる。
白い光が照らす、彼女の色素の薄い短い髪がさらさらと揺れた。
「行幸まで」
一度顔を上げた十巴が、再びうなだれる。
彼女がいま、どんな表情をしているかなんて、見なくてもわかっていた。
「行幸まで、そんなこと言うのか」
透ける髪の隙間で、十巴が弱々しく微笑ったのがわかった。
ぴくりと、自分の指先がそれに反応する。いつものように、頭を引き寄せて慰めてやることだってできたはずだった。
けれど、今回ばかりはそうもいかない。
「――春がくれば」
慰めの言葉を呑み込んだ胸が、くっと締まった。
十巴の気持ちは痛いほどにわかる。わからないはずがなかった。
このベランダが、どれほどまでに自分たちにとって大切なものか。
それはきっと、自分たち二人の他は誰にもわからない。
それでも、いつまでも変わらずになんかいられないのだ。
「春がくれば、おまえはこの部屋を出ていって――俺だって出ていくかもしれない。なのに、ベランダだけ残って……。意味が、ないだろ、それじゃ」
行幸は淡く微笑んだ。自嘲のようだった。
自分たちは離ればなれで、からっぽの部屋をベランダだけが繋ぐ。
――そんなさみしいことが、あるか。
「……だからだよ!」
切迫した表情で、十巴は行幸の胸元を掴んだ。
月明かりに照らされた十巴の目は、赤い。
「ベランダがなくなって、オマエと離れたら、あたしは絶対いろんなこと忘れる!忘れて大人に……大人になっちゃうよ!」
意外な十巴の言葉が行幸の表情を変えさせた。
忘れないでいればいい、なんて詭弁は、言えなかった。
忘れるだろう。自分も多分、忘れてしまう。
十巴と過ごしたこの18年という時間を、春を、夏を、秋を、冬を!
思い出として懐かしむしかできない日がきっと来る。
「じゃあ、俺はどうしたらいい?」
行幸はそっと、自分のパジャマの衿を掴んだままの十巴の手に、自分のそれを重ねた。
「おまえは俺に、どうしてほしいんだ?」
月光を背に立つ行幸がまぶしくて、力をかけることなく、十巴の手が滑り落ちて衿から離れた。
十巴はきっと、行幸の言葉を待っている。
―― 俺もお前と一緒に行ってやるよ、と。
行幸もまた、どこかで十巴の言葉を待っていた。
―― 一緒に来てくれ、と。
しかしその言葉がどちらの口からも発されることはついになく、十巴は幾度かためらうように口を開いたのち、つぐんだ。
しばしそうした後、大人しく、さっきまで寝ていたベッドへと戻っていく。
「工事、いつから……?」
熱があがってきたのだろうか、横たわり、潤んだ瞳で天井を見上げながら、ぽつりと十巴が言う。
「来月中には始めるって言ってたけど」
そっか、と、十巴は短く言った。
「……二次試験、受けるのやめようかな」
彼女らしくない弱々しい笑みで、そんな言葉を口にする。
国家一次試験に無事合格し、残すは今月末の二次試験だけである。
文化祭の準備に続いて今回の発熱で、行幸は、近づいてくる二次試験に十巴ごとながら、冷や冷やとした心持ちでいたというのに。
「そんでこっから通える大学に行ってさ、また、行幸と一緒に――」
「十巴。お前が試験を受けなくても、俺はもう、大学を決めてるんだよ」
十巴がぱっと、行幸の方へ首を向ける。眉を顰めた、心底悲しそうな顔をして。
「あたしじゃ入れない?」
「……うん。帝大だから」
十巴の顔が、いっそう悲しげなものになった。
長女の一乃を除いて、どういうわけか藤篠家の姉妹達は皆、成績が良いとはいえない。
天は二物を与えないのか、と、行幸が言ったところで説得力はないのだが、とにかく、そんなことをいつも思わされた。
「そこ行って、行幸は何になんの?」
「……まだ確定じゃないけど、検察官、かな」
検察官、つまりは検事、という言葉に、十巴の瞳が大きく見開かれた。
行幸は一度頷いて、安心させるように、その髪を撫でる。
「お前が刑事になってせっかく悪いやつ捕まえたって、罪に問われなったら意味ないだろ?お前が捕まえた奴を、俺が……って、そうなったらいいと、思わないか?」
「思う……」
見開かれた十巴の目に、みるみるうちに涙がたまっていった。
子供の頃から彼女を夢中にさせた刑事ドラマは、いつも犯人逮捕で幕を閉じる。だが現実は、そうはいかない。
それを早くに気づいた行幸は、自然に志す方角を定めていたように思う。
勿論、十巴が刑事になれるかどうかは定かではないし、自分はおそらく検事になれるとして、星の数ほどある事件の中、重なることがあるかなんて、わからない。
それでも行幸にその道を選ばせるほど、こんなにも行幸の中は十巴でいっぱいなのだ、と――彼女は、少しは気づいてくれただろうか。
拭った十巴の涙は、その頬と同じく熱かった。まだ熱が下がりきってはいないのだろう。
頬に触れた行幸の手を、そっと伸びてきた十巴の手が握る。
「……でもそんときさ、オマエにきれいな嫁さんがいたら、ちょっと、ヤダな」
熱にうかされた赤い顔で、照れ笑いのように、へへ、と十巴は力無く笑った。
十巴から聞く、初めてのそんな言葉に、行幸は瞬間、眉を寄せる。
いままでバレンタインデーに山ほどチョコレートを抱えて帰ろうと数を競おうとし、自分が何人恋人を作ろうと、まるで無関心に見えた、十巴が。
――熱の、せいだろうか?
「じゃあ、結婚なんてしないよ」
行幸は、微笑んでそう言った。
熱のせいだとしても、よかった。嬉しくて、十巴の手を強く握る。
十巴はもう一度淡く微笑んで、そうしてすう、と眠りに落ちていった。
行幸はその寝顔を見つめ、繋がれたままの手に額を寄せた。
「嫁さんなんて、もらえないよ……」
握り締めた十巴の手に額をつけて、消え入るような声で、そう言った。
目を閉じて浮かぶのは、いつかの誕生日のビデオの映像。
『みゆきくんはしょうらい何になるの?』という母親の呼びかけに、にっこりと笑って、『ともえちゃんの、およめさん!』と答えた自分。笑う家族と十巴たち。
そんなことを思ったら、涙が出た。
「そういえばあのときも、おまえは『けいじ!』って言ってたっけな……」
くすりと笑ったら、目の端から涙がこぼれそうになって、慌てて拭った。
十巴はいつだってまっすぐに遠くを見ていて、自分はその背中を追い掛けていくので精一杯だ。
窓から、青い光が差し込んでいる。
ビニールシートの青が透けて、ゆらゆらと部屋を揺らした。
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