呉ノ朱

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  三.  

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……まさかこんなことになるとは。
一人、自室のベッドに横たわりながら、行幸は自分の唇を指でなぞった。
その仕草がまるで、初めて恋をした少女のそれのようで、そんな自分に苦笑しながらも、思い出すのは、あの十巴の唇のやわらかさばかりだ。
十巴とあんなキスをすることなんて、生涯ありえないだろうと思っていた。
閉じた睫毛が震えていたことだって、きっと十巴は気づかなかっただろう。
堪えきれずに顎をつかみ引き寄せながら、同時に、どれほど自分が怖れていたか、十巴が知ることはきっとない。
それでも、触れたくちびるの柔らかさに、どれだけ感動を覚えたか――-。
「わからないんだろうな……」
行幸は仰向けに横たわったまま、一人苦笑した。
そうして、それでいい、と思う。
できることなら一生、彼女がそれを知ることがないように、と、願う自分は、千尋が言ったようにやはり臆病なのだろうか。
そんなことを切々と考えながら、ベッドの上で一人、身体を丸めた。
その耳に届いてきたのは、ガサ、ガサ、と、乾いたビニールが擦られる音と、人の足音。
行幸は一度、ため息を吐く。
どうやら感傷に浸る暇も、彼女は与えてくれそうに、ない。
「いま何時だと思ってるんだ?」
ベランダの窓を開ければ、そこには十巴が、憮然とした姿で立っている。
「だってさ!オマエがいつまでも来なかったからだろ!?あたしはちゃんと教室で待ってたのに!」
――待ってたのか。
薄闇でも十巴が顔を赤くして憤慨しているのがわかり、行幸は一度大きく目を見開いた後、ふきだしそうになって顔を背けた。
放課後の教室で、おそらく緊張しながら行幸のキスを待つ十巴を思えば、一方ではおかしくて、一方では愛おしくて、たまらない。
「とりあえず入んなさい。声が大きいんだから……」
しかし十巴はあくまで真剣で、いま自分が笑っていることが知れたらまたきっとかんしゃくを起こす。
それがわかっていたので、必死に笑い声を殺しながら部屋の中へと促した。
ベッドサイドのオレンジの間接照明しかない部屋は暗く、ベッドに座った十巴がぼんやりと浮かび上がった。
九月ももう終わる頃だったが、十巴はタンクトップに短パン姿で、すらりと伸びた細い足がオレンジ色にてらてらと光る。
視線を上げていけば、拗ねているのだろう、やはり憮然とした顔の十巴が、床をじっと見つめていた。
「待ってたって、そんなに俺とキス、したかった?」
窓に身体をもたれさせた行幸が、至極普通に言った言葉に、十巴の顔がばっと上がる。
「違げえよ!オマエとキスがしたかったんじゃなくて!……その、なんていうか……」
紅潮した顔が、オレンジの光でなおさら赤い。
言葉に詰まって再びうつむいた十巴の隣に、行幸は腰を下ろした。
瞬間、びくりと十巴の身体が硬直したのを見逃すはずもなく。
「いま、してやろうか」
手を伸ばして、膝の上で握りしめられたままの十巴の手に触れる。
過ごし慣れた自分の部屋だというのに、今は空気がまるで違う。
とろりと甘い、けれど緊張を含んだ――艶のある空気。
十巴の握りしめられた手がぴくりと反応して、けれど彼女は顔を上げなかった。
「夕陽の教室、じゃないけど。目をつぶって想像してれば、オレンジ色なのには変わりはないだろう?」
囁くように言いながら、ぞくぞくと、自分の中のオスが覚醒していくのがわかる。
まったくもって千尋の言った通りだ、と、行幸は頭が下がった。
どれほど固い意志を持ってそれを拒もうとしていても、いざ目の前に訪れた瞬間に、こんなにも脆い。
どれほど言い訳をしたところで、どれほど理性で押し殺そうとしたところで、結局のところ、十巴が欲しくて欲しくてたまらない。
「…………」
十巴は答えなかった。身体を強張らせたまま、視線を落としてラグの敷かれた床の一点を見つめていた。
行幸の手が、ゆっくりと十巴の拳を撫でるように滑る。
ゆるゆると、十巴の握りしめられた手が開いて、行幸の手を受け容れる。
十巴ももう、気づいているはずだ。
いまやこの部屋が、彼女が慣れ親しんだ幼なじみの部屋ではないことに。
「そっ!」
行幸の指が、十巴の指と絡もうとしたその時、十巴が唐突に声をあげた。
「それじゃ、意味、ないだろ!あたしがしたいのは、夕陽の教室で――」
反射的に十巴は、行幸を振り向いてしまった。
やがてすぐに、振り向かなければよかった、と、後悔した。
あまりに近くに、行幸の顔があり、その彼は、十巴のよく知る幼なじみの顔はもう、していなかった。
「み、ゆき……」
行幸は答えることなく、指がぬるりと十巴の指を愛撫する。
感じない、わけがない。
胸をせりあがってくるような、初めての快感に、十巴はもう、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
真剣な瞳の行幸の顔が、静かに近づいてくる。男の顔をしていた。
心臓が、痛い。
いつものように誤魔化すことも、突き飛ばすことももうできない。
十巴の肩が上がった。身体中が竦んで、触れてくる体温に、ぎゅう、と目を閉じる。
やがて触れてくる、唇の感触。
……しかしそれは十巴の唇にではなく、頬に。
そして一瞬柔らかかったそれは、すぐにチクリとした痛みに変わった。
「いてっ!」
噛まれたのだ、と気づいて、十巴は怪訝な顔で、行幸を見た。
「バーカ。お前な、そんなこと夜、男の部屋で言うなよ」
行幸はいつもの彼の顔をして、嘲るように十巴を見る。
しかし、笑ってはいなかった。
「俺だってもう男なんだから、いくらお前が相手でも、妙な気分になるだろうが」
「なっ!」
倒れ込むようにベッドに寝っ転がった行幸の言葉に、十巴はいっそう、顔を赤くさせた。
「いくらってなんだよ!あたしだって……」
それなりに覚悟を、したのだ。行幸とキスをするんだ、と。
怒鳴りかけた十巴の口を、素早く身体を起こした行幸の手が塞いだ。
「しっ!夜中なんだから」
眉を顰めた行幸に、十巴は素直にこくこくと頷いた。
「こういうことは、ちゃんと、好きなやつとしなさい。ちゃんと、両思いで、恋人になってから」
いつもの馬鹿にした口調ではなく、行幸の声はどこか寂しげで、十巴は行幸の手が離れ自由になった後でも、口をつぐんだまま、頷くしかなかった。
行幸は再び、うつぶせでベッドに寝ころんでしまった。
オレンジの間接照明が、天井をゆらゆらと揺れている。
――ちゃんと、好きなひと。
十巴はふと、いま演じているロミオとジュリエットのことを考えた。
あれがいわゆるひとめぼれっていうやつなんだろう。
難しい言葉を並べてわけわかんねえ、と思うこともあるけれど、ティボルトとロミオの決闘シーンなんかは胸がドキドキとした。
いとこを殺されて胸を痛めながら、それでもロミオを好きでしかたがないジュリエットのシーンでも、同じ女のはずなのにと、自分が持ち得ない感情を持つ彼女に嫉妬さえした。
おまけにそれをまた権田原があの姿をして、あまりに情感溢れる演技をするものだから、周囲は涙を流すほどで……。
「そうか、決闘か!」
「は?」
小さく叫んで、突然立ち上がった十巴に、行幸は身体を起こす。
振り返った十巴は、さっきまでとはうってかわった満面の笑みで、行幸はぞくりと背筋が寒くなるのを抑えられない。
「そーかそーか。うん。じゃ、おやすみ」
「え?十巴?オイ……」
うきうきとさえさせながら、一人、何かに納得して部屋を出ていく後ろ姿を見送って、行幸はいろんな意味で、脱力した。
あのままキスをすることだって、きっとできた。
キスだけではない、いまや何もかもが違う自分が、これまでにはできなかったことをすることだって、できた。
「臆病者、かな……」
それでも、しなかったのではない。――できなかった。
行幸は自嘲に、情けなく笑いながら、肩を落とした。
手をついた先のシーツには十巴の体温が染みていて、その温かさとは裏腹に、よりいっそう、行幸の心を沈ませたのだった。
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