呉ノ朱

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「ロミオさま、あなたはどうしてロミオさまなの」
バルコニー越しに、行幸が出した裏声に十巴は苦笑いを抑えきれない。
「……お前が頼むからつきあってやってるんだろ?」
行幸は憮然として、続きを読み上げるように促す。
こんなことになったのも、と、十巴は今日のホームルームを思い起こした。

その日、十巴は非常に気分がよかった。
十巴が目指す進路に向けての、国家試験一次審査も無事終わり、残すところ試験はあとひとつ。夢への足音も聞こえてこようというものだ。
だから、クラスメイトの提案にもふたつ返事でOKしてしまった。
「文化祭の演劇の主役?ああ、いいよ」
……それがどんな物語かも知らずに。

そしていま、十巴がおさななじみの行幸を相手に懸命に演じているのは――無論、ロミオである。
「ゴメンゴメン、だってなんかハマリすぎてて……」
「あのな、俺で笑ってるようなら、本番どうすんだよ。あの権田原がジュリエット、やるんだぞ?」
笑い出した十巴は、行幸の言葉にジュリエット役の男子クラスメイトの容貌を想像し、いっそう笑い声を大きくさせた。
権田原。あの柔道部主将で、ゆうに190センチはあろうかという大男が、ドレスを着て、ロミオさま……?
彼がドレスを着、化粧をした姿を想像すれば、たまらなかった。
「考えたやつ、天才だよな」
「笑いごとじゃないんだって」
台本でポン、と十巴の頭をはたいた行幸が、ほら、と言って次のセリフをせかすので、十巴はしぶしぶ台本をぱらぱらとめくった。
「ハイ、もう一回。頭の方から」
ふたつ返事で引き受けたことといえ、いささかうんざりしてきた十巴は、溜息を吐きながらセリフを目で追う。
「せ……『聖者には唇がないのでしょうか、それに……』……じ、じゅ?」
「じゅんれい」
行幸のあきれた声。しかしそれにかまっていられる思考の隙間はない。
「『それに、巡礼には?』」
まったくの棒読みではあったが、とりあえず間違えずに読み終えた。
すると、ベランダの柵ごしに向かい合っている行幸が、これまでに見せたことのない色気の漂う瞳で、はにかんだように十巴を見た。
「『いいえ。お祈りに使わなければならないのですから、唇はございます』」
たっぷりと情感を込めて読み上げられた裏声のセリフは、まるで少女がそう言っているのかと錯覚するほどのもので、十巴はぐん、と芝居に引き込まれた。
「『それならば、私の愛する聖女さま。私の祈りを聞き届けてください。でなければ、私は絶望してしまいます』」
さっきよりはずっと感情の乗った声でセリフを返し、そうして、その隣に書かれたト書きに目を通 して、ギョッとした。
"ロミオ、ここでジュリエットの手のひらにキス。その後、肩を引き寄せて唇にもキスをする。"
「キッ……」
「ほら、早く」
瞬間的に顔を赤らめて絶句した十巴に、行幸はからかうような視線を投げた。
「キスシーンがあるなんて聞いてねー!」
「……まさかおまえ」
顔を真っ赤にさせたままの十巴に、行幸がぎょっとした顔をさせて、したことないのか?、と訊いた。
「悪いかよ!」
感情のままに台本を叩きつけようとした十巴の手首を行幸が掴む。
目の前の幼なじみが、心なしか嬉しそうな顔をしているのは気のせいだろうか。女性経験の豊富な彼のことだ、バカにされているのかもしれない。
「かわいそうになあ。ファーストキスが、権田原、か……」
「イーヤーだー!!」
くすくすと忍び笑いを始めた行幸に対し、十巴はといえば、まるで世界が終わったような心地になった。

鷺ノ宮学園の生徒会長である黒崎行幸と、風紀委員長である藤篠十巴は幼なじみにして、恋人同士である――-。
学園内であまりにも有名な"公然の秘密"だったが、真相はまるで違うのだと知る人間は実は少なく、そして敢えて今更否定もしない。噂なんてそんなものだ。
行幸は行幸でその噂のお陰で、告白され断り泣かせてしまう、といった女子生徒が減ったのを単純にありがたいと思っていたし、十巴に至っては、おそらくそんな噂があることを気づいてもしないだろう。
しかしその噂のおかげか、それとも十巴自身の日頃の行いの成果か……十巴は未だに、男とつきあうという経験をもたなかった。

確かに自分は、そんじょそこらの男子生徒よりは余程、女生徒にモテる、という自覚はある十巴だ。
ラブレターは勿論、あやうく唇を奪われそうになったこともある。
それでも花もはじらうエイティーン、番茶も出花、世間一般の女子高生と同じく、理想の男性との淡い初恋に想像を抱き、夕陽の落ちる公園で…なんてことを夢見たことがないわけでも、ないのだ。
これまで彼女のお眼鏡に適う男子が現れなかった、というだけで。
十巴は心底憂鬱な心地になって、うらめしく行幸を見た。
「……権田原になるくらいなら、いっそ」
「ん?」
ぽつりと呟いて、十巴は行幸の手を取った。
その手の甲に、そっと唇を寄せる。自分の手とは違う、ごつごつとした男の大きな手。
「お、おい」
「『私の祈りを聞き届けてください』」
セリフを口にして、行幸の肩へと手を伸ばした。
少し背伸びをして、ぐい、とこちらへ引き寄せる。
そういえば、と、十巴は思った。
いつのまに、行幸はこんなに背が伸びたんだろう。
子供の頃からずっと、身体が弱くて小さくて、いつもあたしの後ろに隠れていた。
それなのに、いつのまに。
「とも……え」
あまりにも近くで、行幸の喉が鳴る音が聞こえたと思えば、次の瞬間にはゴツンと音を立てて、額がぶつかった。
「いってー…」
「バカ、何考えてんだよ」
なんとも表現のし難い、笑いのような怒りのような、不思議な表情をさせた行幸もまた額を抑えて、息を吸い込みながら台本を拾う。
「いやさ、権田原とするくらいだったら、オマエの方がいいじゃん、最初」
「へえ」
返ってきたのは冷たい声だった。
何も考えずに行動したこととはいえ、思い起こせば気恥ずかしさがふつふつと湧いてくる。
「あー、もういい、今日はここまでにする!」
行幸の顔を見ることさえ恥ずかしくなって、十巴はまだ痛む額を押さえながら踵を返した。
と、突然にぐい、と背後から腕が伸びて、顎をつかまれた。
「………へ?」
後ろ向きの姿勢のまま、顎だけが振り向かされ、上を向き――そして。
「っ…………!」
唇を、あたたかいものが包んだ。
見開いた目に、行幸の長いまつげがきらきらと月光に反射している。
何が起こったのか、わからなかった。
「…………んっ」
触れているのは行幸の唇と気づけば、身体の芯がじんと震えた。
もがいても行幸の手が顎をしっかりと掴んだままで、やがてぬるりと、行幸の舌が十巴の下唇を滑り、そして、離れた。
「はい、ファーストキス」
「!!!」
月光の下で、ぺろりと唇を舐めた行幸が嗤った。
ぱくぱくと、唖然と口を開いたままの十巴は二の句が告げない。
「おっ、まえ……」
「何よ。うまいだろ、俺。よかったなあ」
行幸はあざ笑うように言って、からからと笑う。
確かに、もちかけたのは自分だ。だから行幸に文句なんか言えない。
「……うまいとか下手とか、わかんねーよ!いきなりだったし!」
「あら」
混乱した頭の中で、自分が何を叫んでいるかもよくわからずに、十巴は行幸につかみかからんばかりだった。
自分にとっては一大事のことなのに、平然としている行幸が気に入らない。
彼は経験があるのだから当然かもしれなかったが、そのこともまた、腹立たしかった。
背も、体格も、そういう色事も、いつも行幸は自分を置いていく。
「じゃあ、もう一回してみる?今度は、お前から」
――煽っている。なんで今夜の行幸は、いつにも増して自分を挑発するようなことばかり言うんだろう。
そしてなんで自分は、こんなに苛立つのか。
「いいよ!」
反射的に答えて、がしっと肩を抱いた。
行幸が静かに瞳を閉じる。……なにかがおかしい。
本来ならば女である自分が、こうして肩を抱かれながら胸をときめかせながら、相手からのくちづけを待つものではないのか――。
そんなことが頭をかすめながら、それでも十巴はごくりと唾液を嚥下させた。
まんまるになった月が高く、行幸の整った顔立ちを照らしている。
きれいだ、と、思ったのだ。
「………………」
背伸びをして、そっと唇を寄せた。
体温が少しずつ近くなり、そうして、ふにゃっとした薄い唇の質感が、じんと痺れて染みこんでくる。
唐突に、全身を震わせる雷に打たれたような甘い痺れ。
――キスって、やわらかいものなんだ。
緊張からか、鼓動が早く鳴って耳障りで仕方がない。
――口をくっつけたはいいが、一体どうやって息をしたらいいんだろう。
この後はどうしたらいい? あ、今日の夕飯ギョーザだったっけ。
そんなことを考えていたら、二酸化炭素が逃げ場を失って、肺をぎゅうぎゅうと押し上げ始めた。
「……っ、ぷはっ!」
ようやく唇を離して、肩で大きく息をする。
プールで泳いだ時のように、ぜえぜえと喘ぎながら行幸を見れば、彼はやはり平然として、へたくそ、と一言言って、笑った。
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