呉ノ朱

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  七.  

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千尋の携帯が鳴る、というのは至極稀なことで。
ましてやその相手が志波だというのだから、さらに稀なことに違いなかった。
件名、なし。
本文には短く、「記事できたぞ」と、一言だけ。
それでもその一言に、普段あまり見開かれることのない、前髪の向こうの千尋の瞳が大きく開き、口元がにんまりとゆがんだことに、間違いはなかった。


すぐにでも駆けてゆきたい気持ちを抑えながら、待った放課後。
モーゼさながらに廊下の人ごみを二つに割りながら、千尋はいつもの部室へとやってきた。
「志波!」
そうして飛び込んでみても、そこに志波の姿はない。
きょろきょろと室内を見渡す。
雑然としていたはずの、デスクの上はきれいに片付けられ、PCが鎮座しているのみ。
志波が言うところの記事らしきものも見当たらない。
なんとなく興をそがれた気分になって、千尋はいつもそうするように、まず窓を開け、ちらりと温室を確認する。
明らしい姿は見つけられない。
二度、がっかりした気分に、小さなため息をついたときだった。
ばさ、と音がするのは、背後の歴史年表が動いたからで。
「あれ?」
その聞きなれた声、もはや聞きなれたその音に振り返れば――---そこに、明がいた。
「…………!」
本当に驚いたとき、人は声を発することができなくなるのだと、千尋は知る。
明は千尋の姿を認めて、いつものやわらかい微笑みでにこりと笑った。
「透に呼ばれて来たんだけど、千尋ちゃんがいるとは思わなかったよ」
そう言って明は、ぐるりと室内を見渡した。
「ここが、こんなふうになってたなんて」
志波と同じ音質をもちながら、まるきり違う、やわらかい、静かな声。
一歩、二歩と、千尋へと近づいて、明はソファーへと腰かけた。
「あ、そ、そうなんですね!すごい!偶然!私も志波先輩に呼ばれて!!」
明の言葉より数秒遅れて、千尋はあわあわと、大げさな身振り手振りで明を向く。
明は一度首をかしげて、ふいに視線を千尋の向こう側へ向けた。
「なんでそんなところに座ってるの?」
「あ、ああああ、こ、これはですねっ、か、観察!人間観察!研究を!」
明の視線を隠すように、ぶんぶんと大きく腕をふりまわしながら、千尋は必死に弁解をする。

――――---ここからいつも、あなたを見ています。
――――---あなたが変なことに巻き込まれている気がして、心配で、いつも見ています。
――――---いつも、あなたを。

そんなこと、言えるはずがない。
言えるはずがない言葉が、喉の奥で詰まって、千尋はうつむいた。
「? 千尋ちゃん?」
ソファーから身をかがめるように、明が千尋をのぞきこむ。
突然に手が千尋の頬に触れて、千尋は、まるで雷が自分に落ちてきたのかと、思った。
「せ、せせせせ先輩?」
裏返った声を、明は気にとめなかった。
頬から額に手をすべらせて、千尋の前髪をす、と上げる。
そうして、にっこりと微笑んだ。
「うん、やっぱり、前髪を上げたほうがずっといい」
額にあてられた手があまりにひんやりとしているので。
声が耳にあまりに優しく響くので。
先輩が、あまりに優しく微笑むので。
千尋は、どんな顔をしていいのか、一体次に何の言葉を発していいのか、まるきりわからなくなってしまった。
「………………」
そうして真っ白になってしまった頭の隅に残ったのはただひとつ。
いまが、"あのこと"を聞く、絶好の機会なのではないか。
志波は、もしかしたならそのために、ここに自分と明とを呼び寄せたのではないのか。
――――---それでも聞いてしまったら、そしてもし自分が調べたことが、自分の予感が当たっていたなら、私は、明先輩から永久に遠くなってしまうんじゃないか。
初めて今回の一件を知ったときから、心の奥で渦巻いていた思いだった。
自分から直接、明に確かめる勇気などありはしなかった。
それは、千尋が知る、千尋が恋焦がれた明という人が、自分の知る明とはあまりにも違う存在に変わってしまうような事件に思えたからで。
明がそんな人間であるのだと、信じたくないという気持ちと、同時に、それを明に伝えることで、明の中の千尋が"邪魔な存在"に変わるのではないかという恐怖からだった。
――――---私をこんなふうに、まっすぐに見てくれる人は、先輩しかいないのだ。
そんな、トンネルの中でか細く見える小さな光のような思いが、千尋の口をつぐませた。
「………せん、ぱい」
千尋は迷いの中で、顔をあげる。
一度、大きく息を吸い込み――--そして吐く。
次に明を見据えたとき、千尋の中にもう迷いはなかった。
「明先輩、時々、あの温室に誰か……来ていますよね」
「そりゃあ、みんなのための温室だもの」
明はなおもにこにこと、表情を崩すことはない。
「うちの生徒じゃなくて、もっと年上の人。先輩から、何かを受け取りに」
千尋がそこまで告げたところで、明の表情から笑みが消えた。
「あ、ああ、あれは業者さんだよ。肥料とかを分けてもらって、そのデータを」
「ケシの、樹液を渡して?」
千尋はポケットから携帯電話を取り出して、少し操作をする。
その間、明は言葉を続けることも、動くこともなかった。
そうして突きつけたのは、一枚の写真。
「これってアヘンケシ、ですよね」
告げた声は、微かに震えていた。

千尋が撮影した写真を元に、千尋なりに、いろいろと調べてはいたのだ。
明が栽培しているのは、ヘロインや阿片の原料となる、アヘンケシであるということ。
もちろん、栽培しているだけで、違法行為に他ならない。
その上で、明はそれを誰かに渡し――――対価を、受け取っている。
けれど千尋は、そのことを明にどうしても、問いただすことはできなかった。
――――--嫌われてしまうのが、おそろしかったからだ。

「…………ふ」
千尋の突きつけた写真をしばらく凝視していた明が、くすりと肩を一度揺らして、そうしてくつくつと笑い出した。
明がこんな笑い方をする姿を、千尋は初めて目の当たりにする。
「いやー、やっぱ最高だよ、おサダ」
聞こえてきたのは、耳を疑うような低い声。
そうして再び千尋を見たその目は、もう"明"のそれではなく――-よく知る、"志波"のものだった。
「し、ば……っ!!!!!」
これ以上見開けないほどに大きく双眸を開いて、千尋はへたへたと、その場にしゃがみこんでしまった。
"志波 明"の変装を解き、"志波 透"へと戻った目の前の彼は、目にかかるほどの色素の薄い前髪をばさりと上げ、後ろに撫で付けると、例によってにやりと笑う。
「――――怒るなよ、今回はからかったわけじゃねえからな」
そう言った声は思いのほか真剣で。
志波はどっかりとソファーに腰掛けると、制服のポケットをまさぐり、一枚のプリント用紙を取り出した。
「記事は作ってやった。でもな、おまえがもし何にもしないで俺にまかせっきりにするんだったら――---これじゃない、適当なやつを渡してやろうと思ってさ」
「だから、テストしたって……いうの」
床にしゃがみこんだまま、千尋は立つことができない。
足にも腰にも力が入らず、手はまだぶるぶると震えている。
――――――おそろしかった。
人の心をたしかめるということが、こんなにおそろしいことだなんて、思いもしなかった。
「やっぱおサダ、おまえはカッコイイよ」
そう言って、志波はどこかまぶしそうに千尋を見た。
「だからコレは、おまえにやる」
志波の声があまりに真剣なものだったので、千尋の心は静かだった。
差し出された記事を、震える手で握り締める。
受け取った瞬間、思わず視界がぼやけた。
「…………!」
涙が出る、と思い、さっき明に上げられた前髪をばさばさと必死で下ろす。
その手を志波が突然止めた。
「隠すなよ。そっちのがいいって言っただろ」
「う、うるさいよ!」
しっしっ、と、残った手で志波を追い払うようにしながら前髪を直し、ようやく握ったままだった皺の寄った新聞記事を開いた。
「………………」
「書いたことは、さっきおまえが言ったこととほぼ同じだな。あとは学校側がこの事態を把握してるか調べたいとこだけど」
ジャーナリストさながらの言葉を言って、志波も新聞記事を覗き込む。
明の写真は載せなかった。名前もまた、記載がない。
その方が、この記事で明が何らかの動きを見せたときに都合が良いからだ。
千尋は、前髪の間から透ける真剣な瞳をして、食い入るように記事を見ていた。
「……あとは、好きにするといい。発行する準備はいつでもできてるよ」
ぽん、と千尋の頭に志波の手が乗る。
その手が、さっきの明(と思っていたとき)の手と同じように優しいことに、千尋は初めて気づいた。
「ねえ、志波」
「あ?」
千尋から離れ、ソファーにごろりと寝にかかった志波を千尋は向いた。
浮かんだのは、素朴な疑問。
「志波はどうして、私に協力なんかしてくれたの」
千尋もいまや、いつもこの部屋にいるときの千尋ではなくなっていた。
おそらく2ヶ月で初めて、千尋と志波とは、本当に真剣に、対峙している。
そんな空気がふたりの間を流れて、志波はどことなく居心地が悪そうに顔をゆがめる。
「さあな。俺にもわかんね」
それは本音だった。
同時に、答えのようなものもわかっていた。
――――---本来はさみしいと思うようなことを、千尋自身がさみしいと気づいていないことが、志波にとって、さみしく感じるのだ、と。
いつも、ひとりでいること。
ごく普通の、友達が友達にするには当たり前すぎる笑顔や思いやりの態度を明が見せたことを、あんなにも彼女が大切にしているのだということ。
本当は、あまりにごく普通の等身大の16歳の女子に違いないのに、わずかにそれがずれているだけで、まわりが、そして千尋自身もそのことに気づいていないのだろうということ。
そのひとつひとつが彼女を強くさせ、同時に、それが志波にとって、たまらない。
「おまえのことが好きだからじゃねーの」
あくまで平然と、志波は言った。
普段、周囲のレディたちを口説くときとは全く違う、志波の真実の声で、飾らないそのままの声で出た言葉だった。
「……そっか。ありがと」
千尋もまた、平然とそれを受け取った。
ちらりと横目で千尋を見やれば、いまの志波の告白ともとれる言葉など、まるで通り抜けたような顔をして、ただ記事へと視線を落としている。
志波は一度眉をひそめて、そうしてすぐに、薄く微笑んだ。
なんとはなしに心が満ちていることに気づいて、志波は一度、瞳を閉じる。
「で、どうするんだ、それ」
瞳を開けずに、志波は千尋へと言葉をかける。
少しの間の後、千尋はまっすぐな声で言った。
「先輩に、聞いてみる。これを使うかはわからないけど、それが正しいんだと思う」
千尋のはっきりとした声に、いつかこの部屋で彼女が言った言葉を思い出していた。
――――――--好きな人を、正しく好きでいるには、何が正しいのかな、と。
真実を暴くことが明のためだ、なんて誤魔化しは決して言わない。
千尋のそういうところに惹かれたのだと、志波はもう、自覚している。
自分の恋を守るために、もう彼女は揺らがない。
その横顔を、志波は初めて、本当に心底、美しい、と、思った。
「おう。がんばれ」
そして、志波はもう千尋を見なかった。
それでも彼女がこくりと頷いたであろう姿を、はっきりと瞼の裏に思い描くことができたのだった。

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