呉ノ朱

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旧校舎と新校舎の間に位置する、古い古い温室。
昔は美しいバラ園だったと、もはや伝説のように語られるそこに、この人はいつも、いる。
出会った日のことを、千尋はきっと、忘れない。
きっと一生、忘れはしないのだと、齢16にして、信仰のように思う。

人が多い場所は、好きではなかった。
誰かと会話をすることも、笑いあうことにも、興味はなかった。
どうして、と問われても、別段理由があるわけではなく、小さい頃からずっと、ただ、別にそれでかまわなかった。
人とじっと、目が合うことも好きではない。
だから、前髪を長く伸ばして、表情がわからないようにしているのは、心地の良いことだった。
自分のその姿を見て、誰もが瞬間、ギョッとした顔をさせる。
遠巻きに、さわさわと噂する声が聞こえる。
もしかしたならごく一般的な人間は不快に感じるかもしれないそれも、千尋にとってはどうでもいいことだった。興味がなかったのだ。
自分は人と感覚に対するチャンネルがズレているのか、なんて不安に思うこともなく、また、これまでもそうしてきたように、いま現在の自分をどうにかして改革しよう、人に好かれるべく努力しようなんてさらさら思うこともなく、千尋の毎日は、(彼女にとっては)ごく普通に平凡で、それはそれで、幸せに過ぎていた。
だから、昼休みはいつも、この温室へと、来た。

積年の埃と汚れでくもったガラスから差し込む日差しは優しく、誰も手入れをすることがなくなった緑の植物はそれはそれで活き活きと、時折飛ぶ羽虫に神経質にさえならなければ、まるで天上の楽園、とさえ思えるような空間だった。
元々は休憩所か何かだったのだろう、蔦の絡まった石造りのテーブルとチェアに弁当を置き、持参した漫画や本を読みながら過ごす、優雅な昼休み。
この時間のためだけに学校へ来る価値があるものだ、と思いながら、平穏な日々は続いていた。
「……あれ?」
だから、キィ、というガラス戸がきしむ音とともに聞こえてきた声に、千尋は飛び上がらんばかりに驚いた。
内心、舌打ちさえしていた。
誰にも邪魔されたくなかったから、わざわざ戸の前に「蜂ノ巣アリ。危険。立チ入リヲ禁ズ」とご丁寧に張り紙までしていたというのに、日本語の読めない人間がいるようだ――――――なんて思いながら振り返った千尋の、黒い前髪のカーテンで程よく遮られた視界に、彼の姿が映った。
「ここで、お昼ごはん?」
人気のない温室にたった一人、ましてや誰もがギョッとする"幽霊"である自分の姿を見つけてもなお、その人は笑顔だった。
話しかけられたことにまず驚き、次に、笑顔を向けられたことに驚いた。
日常的に聞こえてくる低い、嫌悪感を含んだいつもの口調ではなく、柔らかく、まるで千尋を"人間として"きちんと認識しているかのような、問いかけられる声に、驚いた。
驚いたから、思わずこくりと、頷き返してしまった。
「蜂は、大丈夫?ケガとか……」
「……蜂は、嘘。書いた。私」
それだけ言った声は、掠れていた。
こんなふうに、家族でも教師でもない人間と会話を交わすことは久しぶりで、だから余計に、どうしていいかわからない。
目の前の、ネクタイの色からするとどうやら六年生……千尋より二級、年上のこの男子学生は一度目を見開いて、千尋の言葉を理解すべく少し、考え込んだ。
………叱られるか、呆れられるか。
どちらにせよ慣れていたけれど、身構えた千尋に、けれど彼は、笑ったのだ。
「よかった。じゃあ、ケガはないよね」
…………と。




「………へぇ――-……」
何の興味もない、といったトーンの声で頷いて、志波は腰掛けていた椅子をぎしりと鳴らした。
「へーって失礼。聞かせろって言うから話してやったのに」
口をへの字に曲げて、そっぽを向いてしまった千尋に肩をすくめてみせて、なんとなく、おもしろくない気分がするのは、決して愉快な存在とは思ってはいない実兄を、褒め称える言葉の数々だからにちがいない。きっとそうだ、と内心言い聞かせるように思う。
協力する、なんて言ってはみたものの、正直、一体何をすればいいのか、具体的な案などないまま、またいつもの放課後、志波は、千尋と並んで窓の外を眺めていた。
旧校舎の4階に位置する、歴史資料室の奥の隠し部屋であるこの部室からは、やはり同様に誰からも忘れ去られたようにぽつりとある古い温室が肉眼でもなんとなく、中の動きが見てとれる。
ふと静かになったことに気づくと、千尋は既に熱心にストーキング行為中で、志波は気まぐれに、ひょい、とその双眼鏡を取り上げた。
「おまえさ、こんなとこでストーカーしてないで、直接会いに行けよ」
目の周りにうっすらと双眼鏡の痕を残して、千尋が志波を見上げる。
いつものように、厚い前髪から隠されたその表情からは、何の感情も読み取れない。
「だってほら、昼休みにも行ったんですよ、お弁当を食べに」
「うん、それで?」
「だからほらな、放課後までなんの用事もないのにってのはどうかと思うじゃないですか?ですよね?」
「だから、このいい角度で見える部屋を探して……ってことか」
千尋が初めてこの部屋を見つけたあの日のことが、いまでもありありと脳裏に蘇る。
同時に、あの時がっぷりと食いつかれたアノ痛みも蘇った気がして、志波は瞬間、身震いした。
うんうん、と大きく頷きながら、双眼鏡を取り戻そうと手を伸ばしてくる千尋を適当にあしらいながら、志波は不意に、当時は気づかなかったある疑問に気づかされた。
「でもさ、おまえだって鷺ノ宮タイムズがどういうものかは知ってたんだよな?」
「うん?うん、知ってた」
きょとん、とした顔をさせて、千尋は伸ばしていた手を止める。
「知ってたならさ――--例えば、ここに部室があるのをバラすぞー!とか、俺が書いてるつてバラすぞーって、俺を脅すことだってできたわけだろ」
志波の言葉に、千尋はしばらくその言葉の意味を租借するように表情を止めて何かを考え込んでいたが、唐突に、
「ああ!そうか!!」
と、大きな声を上げ、頭を抱えた。が、すぐに元の姿勢に体を戻すと、
「うん、別にいいや。どうでも」
と、言った。
その一連の仕草に、志波はまるで質の悪い一人芝居でも見ているような心地になりながら、慌てて千尋を向く。
「でもな、でもな、例えばおまえは実はこんなにいいやつだった!ってのを書かせて、おまえの株を上げることだって、逆に、おまえを虐めてるような奴らを吊るし上げるような記事を書かせることだってできるんだぜ!?」
そう命じられて、自分がそれを記事にするかはともかく、いまのいままで、千尋はまるでここが恐怖新聞発行所なんてことは一切考えもしなかったかのような顔をして、ただ窓から温室を眺めるためだけに、ここに来ているのだ。
毎日届く、記事執筆依頼のメールの文面に毒されているせいだろうか、どうして彼女がそういう考えに至らないかが、志波には不思議で仕方なかった。
しかし千尋は相変わらず口を半開きにさせた、ぽやんとした表情のまま、小首を傾げて志波を見ている。
「なんでそんなの書かせなきゃならないの?誰も悪くないのに」
心底不思議だ、とも言いたげな声音で、千尋が志波を見ていた。
「私が避けられるのは、私が歩み寄ろうとしてないからでしょ。自分が周囲に迎合しないで、周りの人のことをどーでもいいと思ってるのに、それで相手に拒絶されたって責めるのは、なんか間違ってる」
「………………」
きょとんとした表情のまま、すらすらと小難しい言葉を吐いて、千尋はひょい、と志波の手の中から双眼鏡を奪還してしまった。
「なんて言うか…………強いな、おまえ」
いまの千尋の言葉に、どういう類の言葉を返していいかわからずに、志波はぽつりと言った。
千尋はもう志波を見てはおらず、黙々と再び、ストーキングを開始している。
「強くなんかないよ」
志波を見ることもなく、言った言葉は思いのほか低かった。
なんとなくそのまま、言葉をなくして、志波はぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓から差し込む、初夏を迎えようとする風が頬に涼しく、心地がよかった。
眼下には、煤けたガラスと蔦の絡まるあの温室。――--だが、いつもとどことなく、様相が違っていた。
「あれ……?誰かいないか、他に」
ガラスの向こうにいつもあった人影はひとつ。明のものだけで、稀にこの千尋が訪れる程度の、閑散とした温室のはずだった。
それが今日は、ぽつ、ぽつと、うっすら透ける黒い影が他に2つ、ある。
「………時々、誰か来てるみたい」
「へえ。物好きがいるもんだ」
答えた千尋の声が暗かったことには気づかなかった志波は、半ば強奪するように、千尋の手から双眼鏡をひったくると、ただでさえ悪い目つきをより細くして、覗き込む。
ワイシャツだけの男が一人。これは明だろう。他に、制服を着た男が二人。……見覚えのない、生徒だった。
双眼鏡越し、しかもただでさえ視界の悪い温室のガラス越しでは、彼らの容姿などわかりようもない。
「恐喝、とかだったりして」
意地悪く笑えば、千尋がハッとした顔をさせて志波を向く。
「バカ、冗談だって!」
振り向いた顔があまりに真剣で、志波の心がざわりと揺れた。
慌てて笑い飛ばそうとした志波に、千尋がまた一度、すがるような顔をさせては、うつむく。
「……何か、知ってるのか?」
「最初は……そうなんじゃないかと、思ってた。もしそうなら――--証拠がいると思って」
言葉を切るようにして始めた千尋の言葉に、志波はさっと表情を変える。
"だから"なのか、と。
だから、この部屋を探して、だから、双眼鏡でずっとのぞいて……。
――--明を、守ろうとして?
「ねえ、志波」
いつのまにか千尋が自分を見ていたことに、志波は気づかなかった。
呼ぶ声に二度ハッとして振り向けば、真剣なままの瞳が、黒い髪の隙間からのぞいている。
「志波は、この間、まぐわってたあの女子のことが好きなんだよね。」
「へ?」
明の話じゃなかったのか、と、唐突な質問に答えを詰まらせて、けれど千尋の視線があまりにも真摯なものだったので、空白になってしまった頭の中に散らばる、無数の女の子たちの姿から、適切な答えを探した。
「ま、あ。そうなるかな」
本当は知っている。――---俺は、別に誰のことも好きなんかじゃない。
どうしてこんな質問をされているのかわからないまま、口をついて出た答えは寂しいものだった。
千尋は、そっか、とだけ言って、またうつむいてしまった。
「え?さっきの話とそれが何の関係――――」
「好きな人を、正しく好きでいるには、何が正しいのかな」
なぞなぞのようなとんちのような、よくわからない言葉で志波の問いかけを止めて、千尋は窓の外を見やっていた。
普段の千尋らしからぬ様子に、志波はさらに、言葉を失ってしまう。
そのまま、千尋も言葉を続けることもなかった。
いつのまにか湿り気を含んだ風がカーテンを揺らして、そのまま、それが雨に変わるまで、千尋は黙ったまま、そうしているのをやめなかった。
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