呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  最終話.  
30度の傾斜角
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燦々と差し込む光の中に彼女がいて、白に融けてしまいそうで、怖かった。
介添えに手を引かれて、発光しながら一乃が現れたからだ。比喩ではなく。
「似合わない、か?」
自分の視線に不安を感じたのだろう、美しく化粧された瞳で見あげてくる一乃は眉を微かに寄せて、白倉は首を振る。
結い上げた黒髪にティアラの銀が映える。ローブデコルテ様式のウエディングドレスに包まれた肩からのぞく腕もまた白い。
「どんなお姫様より、きれいですよ」
一乃は、またそんなことを、とでも言いたげに唇を少し尖らせる。
白倉こそ、不思議でならなかった。どうして彼女はいまだ、自分の美しさに気づかないのだろう。
一度、息を吸い込んだ。肺が拡がって少し痛んだ。
「…………きれいだ」
総ての呼吸を吐き出す思いで、言った。
白倉は身体の芯、呼吸さえ透きとおるような心地で、ただ、感動していた。
本当は抱き上げてくるくると回ってしまいたい心地なのに、触れてはいけないような神聖さを持って一乃がそこに立っているので、動くことができなかった。
教会でふたりきりで式を挙げたい、というのは自分の我侭で。
そんなことが許されるはずがないこともわかっていたので、親兄弟や親族が参加する神前による式もまた、後日控えてあった。
二度も式を挙げるなど、と、当初反対した一乃も、ドレスを着せてしまえば、頬を染めて黙った。
彼女を抱いたのは夏だった。
あれから、周囲を説き伏せるのには多少の手間と時間を要した。
既に戸籍上、一乃は自分の妻であったし、いざとなれば駆け落ちであろうと白倉は厭わなかったから、その覚悟ゆえに、結局は、白倉の思い通りに事を進めることができた。
"白倉家"というひとつの生命体にとって、いまや失えない存在に成長できていたからだ。
あの無力な13歳の自分から、ようやくここまで、来た。
籍を入れてしまってあることは、双方の両親の血圧のためにも内密として、だからこれまでの数ヶ月間、白倉と一乃はこれまでと同じ家でこれまでと同じ生活を続け、真実、夫婦ではまだ、なかった。
あっという間のような、とてつもなく長かったような、そんな日々を超えていま、部屋をどこまでも眩しく照らす、大きな窓から差し込む日射しはやわらかく、再び春が来るのだと教える。
一乃はどことなく落ち着かない様子で、そわそわと宙を見やっていた。
白倉は一度苦笑して、その絹手袋に包まれた腕を引き寄せる。
「本当に、僕でよろしいんですか?」
近くで自分を見上げた一乃が微かに眉根を寄せて、そうして苦笑の形の唇で笑う。
「いまさら何を言って……」
籍はとっくに入ってるだろう、と、言いたいのだろう。
白倉は笑わなかった。
今日だけは――――今日だからこそ、尋ねてみたかった。
神の前で誓うのだ。生涯離れないと。病めるときも健やかなるときも、と。
神に聞かせる前に、誰より自分自身が知りたかった。
――――どうして僕だったんですか?赦してくれたんですか?愛してくれたんですか?
もう白倉は高校生ではない。一乃はもう自分の先生ではない。
けれどいつだって白倉は、一乃に質問してみたかった。先生、と。
白倉の真剣な視線に気づいたらしい一乃が、やわらかく微笑んだ。
それはいつかの音楽室の微笑みと同じで、大丈夫よ、と、言われているようだった。
「他に、いない」
笑みの形の桜色の唇が、優しい音を鳴らした。
それは少しもロマンティックな言葉ではなかったけれど、白倉にとっては十分だった。
真横から差し込む光が、一乃の横顔を輝かせて眩しい。
不意に、館内放送のスピーカーから流れたBGMに、白倉は目を見開く。
反射的に、それを奏でる方角を見上げた。
それは一乃と、同時だった。
――――Amazing grace how sweet the sound.
白倉はいまだに、音楽室での話を一乃に伝えてはいなかった。
伝えなければならないと思えば思うほどに、自分と彼女とを隔てていた時間は重く、また、その隔たりが彼女にかけた魔法を解いてしまうのではないか……と、おそろしかったからだ。
だからこうしてまた、彼女とふたりきりの部屋でこの歌を聴ける日が来るとは、思ってもみなかった。
胸が、痛いほどに苦しい。
一乃は、憶えていないはずだ。
あのときのことは、自分と彼女のふたりきりしか、知らないことのはずだ。
だから白倉は、彼女がこの歌に反応したことを不思議に感じて、一乃を見た。
視線の先の口元が、微かにゆるむ。
その表情が優しかったから、いまなら、と、白倉は、喉を一度鳴らした。
「この曲に何か、思い出でも?」
はっとした顔をさせて、一乃が白倉を向く。
どこまでも、自分は臆病で狡い。おそろしくて、こんな訊き方しかできない。
遠い目をした一乃が、くすりと微笑む。
「……昔ね、歌ったことがある」
――――知っています。
懐かしい瞳のままで、一乃は続けた。白倉はその先を待った。
「私は音痴で、うまく歌えなくて……助けてくれた生徒が、いたなあと思って」
――――それは、僕です、藤野先生。
こんな瞬間ですら、喉は詰まって名乗り出ることができない。
いま言わなければ、きっともう二度と告白する機会などないのに。
「……どんな生徒だったんですか。妬けて、しまいます」
いま彼女が蘇らせているであろう、13歳の自分に嫉妬する。
――――How precious did that grace appear, The hour I first believed.
曲はゆっくりと、だが少しずつ進んでいく。転調した。
終わる前に、終わるまでに、思い出してくれるのか。
ハンカチを返したあの日と同じ祈りを、白倉は思った。
一乃は白倉の言葉に、しょうがないな、と言いたげに苦笑して、また遠い目をさせた。
「優しい子だったよ。困っていた私を二度も、助けてくれた」
二度。
スカートのことを指しているのだと理解して、尚更胸が熱くなる。
「優しい」
一乃に問いかけるのではなく、白倉はぽつりと繰り返した。
――――'Tis grace hath brought me safe thus far,
こくりと、一乃が頷く。
「とても優しくしてくれた。そういえば……すごくきれいな瞳をしてい……」
そこまで言って、一乃の遠かった瞳にいまが宿る。
五年……まもなく六年になる時を隔てて、現在の一乃の黒い双眸が、あのときと同じように自分を見つめた。
白倉はそれに映ってしまうことを、怯えた。
自分の中にはもう、あんな純真さも優しさも、どこにもないと思えたからだ。
――――起こしたくない。
優しい記憶で、彼女の中に眠っていてくれたのだ。それで本当に、十分だった。
あれほど思い出してもらえることを切望し祈ったのに、その瞬間が訪れて、気づかれたくない、と、思ってしまった、どこまでもどこまでも、狡くて矮小な自分。
それでも、言わなければならない。
自分はこれから誓うのだ。彼女を生涯、守るのだ、と。償っていくと、約束した。
白倉は拳を一度握って、顔をあげた。
「白倉……その」
「一乃さん」

重なった二人の言葉と視線と、曲の最後のフレーズを遮るように、控え室のドアが開いた。
介添え人が、彼女の手を引いていく。式が始まる時間なのだ。
白倉は、一乃の困惑したような視線に、ただ微笑んでそれを見送った。
曲は終わっていた。





荘厳なカトリック教会の祭壇前で、白倉は花嫁を待っていた。
教会を訪れたのは……母親の葬儀以来だった。
だから、白倉が教会での挙式にこだわったのは、一乃のウエディングドレス姿を見たいがため、という理由だけではなかった。
うっすらと暗い教会の中に、パイプオルガンが奏でるラルゴが流れ始める。
静謐なメロディを受けて、正面の扉が開いた。
溢れるほどの光が、放射線状に教会内を輝かせる。
光の中から、一人きりで、一乃が現れた。
目が眩むほどの光の中から。
いまとなってはもう立つことがない思い出の、生徒会長室と同じ色をした絨毯の上を、背を凛と伸ばした彼女が、たった一人でこちらへと一歩、また一歩、歩みを進めた。
心の中がどこまでも澄んで、白倉は何の感情も浮かべることができなかった。
一乃がバージンロードの途中に差し掛かる頃、司祭に促されて、白倉もまた、赤い絨毯に足を沈める。
腕を軽く曲げて立った白倉に、一歩、一歩、踏みしめるように一乃が近づいてくる。
ベールの向こうの瞳が白倉の姿を認めて、はずかしそうに微笑んだ。
ただ、眩しかった。
一乃の指が自分の腕に添えられる。そうして二人、歩みを進めると、祭壇を向いた。
天井まで伸びる十字が、天窓からの光を受けて輝いていた。
司祭の言葉を、胸の内で復唱する。
――――愛は寛容であり、情け深く、また、妬むことをしない。
愛は礼を失せず、総てを忍び、総てを信じ、総てを望み、総てに耐える。
そして決して、滅びない――――と。
淡々と進められていく儀式の中で、白倉の心は静かになっていった。
「主なる神は、人、イシューのあばら骨の一部を抜き取り、その骨でもうひとりの人を造り上げられた。これがイシャーとなり、ふたつは一体である、と定められました」
司祭は穏やかな、暖かい声で旧約創世記の一説を読み上げる。
病室で母が弱々しい指でめくっていた革張りの表紙を白倉は思い起こした。
「つまり、男と女がひとつになった一体こそが神であり、結婚をし、一体として生きていくということは、生命を育み、見守り、愛していく。神としての経験をなぞること、とも言えるでしょう」
白倉は瞳を閉じた。
真実一体になれたならどれほど良いだろう。
自分はどこまでも神にはなれない。人ですらなかったのだ。
ゆえに、努力をしていかなければならない。これから。
「結婚により、人は、本当の人間となります」
――――ほんとうの、にんげん。
その言葉に白倉は、目の前の、神と契約した人の穏やかな瞳を見つめ返した。
ひとでなしのじぶんでも、と、問うように。
――――That saved a wretch like me.
司祭の代わりに、あの歌の一節が、懐かしい思い出の声が、頭の奥で答えてくれる。
「……本当の人間となる覚悟はできておいででしょうか?」
自分の心のうちを見透かされたような言葉に、白倉は一度、決意を確認するように、目を瞑る。
「はい」
白倉と一乃の声が、示し合わせたわけでもないのに、重なって、石造りの教会の壁に反響した。
司祭はにっこりと笑って、白倉と一乃とを向き合わせる。 促されて、一乃のベールを摘んで引き上げた。
霞の向こうから、一乃の静かな瞳が現れる。
黒い睫毛が音もなく上がる。その瞳に自分が映る。まだ、本当は少し、こわい。
司祭は自分の手と一乃の手とを繋がせ、その上に聖布をかけると、宣誓の言葉を告げた。
やわらかい指が、そっと握り返してくる。体温がじわりと沁みた。
「この、手と手を繋いだ形は、無限を意味しています。神のあらわす愛のかたちです。……決して、離すことのないように」
離さない。ようやく掴んだ手だ。ようやく繋ぐことのできた手だ。もう離さない。
白倉は十字を決意のように見上げ、息を吸い込む。
「わたくしは、一乃を妻とし、善きときも悪しきときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を別つまで、これを愛し、いつくしみ、守ることを、神聖な契約のもとに誓います」
一節一節、区切るように、誓った。
愛し、いつくしみ、守ることを。……死が二人を別つまで。
一音、一音、声に変える毎に、喉は甘く締めつけられ、痛んだ。
言い終えて、一乃を見ることが、こわくなった。
そう、自分はいつまでも少年で、いつだって怯えていたのだ。
けれど少しの沈黙の後の一乃の声が、白倉の夜を終わらせる。
「死が二人を別つまで、これを愛し、いつくしみ、守ることを、神聖な契約のもとに誓います」
心に光が射す。
耳の奥で、いまは聞こえていないはずの賛美歌が反響した。
――――Was blind but now I see.
一乃の横顔が眩しくて、目が眩んだ。
せんせい。あなたはいつも、ぼくのひかりでした。
夢を見ているような心地で見やった先の、輝く凛とした横顔は、いつまで経っても色褪せそうになかった。
この瞬間を、生涯どうか忘れないでいられますように。
今度こそは、どうか忘れないでいてもらえますように。
白倉は、祈る。
誓いを終えて、聖水のふりかけられた指輪をそっとつまんで上げる。
一乃を向いて、差し出された手を取った。
あの日、自分が噛んでつけた痕はもうそこにはなかったが、唇でそうしたときと同じ感情で、白倉は指輪を一乃の指へと滑らせていく。
――――Will be forever mine.
一乃が、白倉の唇を受けるために僅かに腰を折る。
瞳を閉じて、白い額をこちらへ向けた。
光の中で、一乃の背が、美しい傾斜を描いていた。
天井から差し込む光が、彼女を。
眩しくて、目が。
白倉は瞳を閉じた。そうして、唇をそっと、彼女の額へと添わせた。
――――死が二人を別つまで、私もまた、あなたのもの。
白倉の心に、ようやく、どこまでも澄んだ、穏やかな静寂が訪れた。







総てを終えて、白倉は一乃の指の感触を腕に確かに感じながら、祭壇を後にした。
自分たちを送るのは、パイプオルガンが奏でる、アメイジング・グレイス。
本来であればここで流れるはずのない曲に、一乃の指が反応する。
控え室から一乃が去った後、急遽、依頼した曲目の変更に、演奏者は快く応じてくれた。
どうしても、彼女に伝えなければならないことがある。
自分はもう、誓ってしまった。
彼女を守り、いつくしみ、総てを信じ、総てに耐えると、誓ってしまった。
ようやく今日、自分は人になることができたのだ。
真実、一体になるために、これから努力をしていかなければならない。
礼を失せず、総てを忍び、総てを信じ、総てを望み、総てに耐える努力を。
腕を組んで歩く隣の一乃が、メロディに自分を見上げたのがわかった。
本来ならば浴びせられるはずのフラワーシャワーも、拍手もない。
二人きりの静かなバージンロードで、白倉はゆっくりと、一乃を向いた。
この一言、たった一言を告げるのに、随分遠回りをしてしまった、と、思いながら。
「――先生」
懐かしい呼びかけに、一乃の瞳が見開かれる。
見つめ返して、微笑んだ。
「あのときは、ハンカチをありがとう」
一乃の黒い虹彩に映る自分自身から、白倉はもう、逃げなかった。

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執筆開始 2010/10/6 脱稿2010/10/31 校了・連載終了 2010/12/4 総文字数 約 7万7千字
     
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