呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  十二.  
30度の傾斜角
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緊張しちゃうなあ、と、間の抜けた声で、隣に座った次兄が言った。
白倉は、そうですね、と微笑んだ。
車はほどなくして、厳かな門構えをくぐっていった。
「それにしても、なんだかすごい荷物だね?」
後部座席に並んで座る白倉が隣に抱える鞄を見やって、次兄がのんびりと問う。
「つきそいを任されましたからね。不測の事態も考えると、準備に越したことはないでしょう」
そう言って笑う。そんなもんかあ、と、またのんびりした返事が返された。
これから自分に何が起こるのかも、知らずに。



見合いの席とは別に、控えとして押さえた旅館の一室で、白倉は足元に昏倒した兄を縛る。
薬がよく効いてくれたことに安堵しながら、鞄の中からロープを取り出した。
長時間の拘束になるから、できる限り無理のない体位で縛り上げると、廊下を隔てて繋がる浴室に布団とともに投げ込んだ。
浴室のドアに目張りをし、移動させた家具で扉を塞ぐ。
――――いまならどんなことでもできる気がしていた。



「弱ったな……」
古紫地に、白と薄黄の花、銀の刺繍があしらわれた上品な着物姿の背中が、いつまでも廊下でうろうろとし続けているのを、白倉はそれ以上、黙って見ていることができなかった。
「どうかされましたか?」
笑いを押し殺しながら、迷い子のような背中に声をかければ、安堵の表情で振り向いた藤篠が、口を開いて硬直した。
「道にでも、迷われましたか」
だから思わず、笑い声を漏らしてしまった。
「しっ、白倉!?」
「はい」
初めて見る、藤篠の着物姿。眼鏡のない、化粧を施された顔。
その総てに白倉は見とれた。ひとつひとつ確認するように、視線で追う。
藤篠は驚きに硬直したままの姿勢で、自分の舐めるような視線に耐えていた。
心から、彼女を美しいと白倉は思う。何度だって思う。
「――やはり、あなたはきれいだ」
「!」
自分の賛辞を藤篠が否定することはもうなく、ただおしろいの下の頬を染めてうつむくので、白倉はその帯のあたりをそっと引き寄せた。
「さ、こっちです」
「え?」
藤篠は戸惑いながらも、自分の腕に従った。
廊下を抜けて、部屋へと向かう足は早くなっていく。
引き戸を開けると、怪訝な顔をさせた藤篠の背中を、そっと押した。
「なっ……!?」
突然背中を突き飛ばされた藤篠が、よろけながら三和土を抜け、畳へと倒れる。
そして床から自分を見上げるその表情は、驚愕以外のなにものでもなかった。
「な、なんで、ここに……!?」
白倉は、後ろ手で鍵をかける。
これで、もう誰にも邪魔はさせない。
「良い部屋でしょう。この旅館とは、祖父の代からのつきあいで」
「そんなことが聞きたいんじゃない!」
叱るように怒鳴ってみせても、そこに拒絶はなかった。ようやく、藤篠の乏しい表情の違いを、白倉は分別できるようになり始めていた。
十巴の言葉が真実ならば――――自分たちのボタンは、ずっと掛け違っていただけなのだ、と。
だから冗談を言って、にこにこと笑った。
嬉しかった。
世界の終わりのようだったあの生徒会長室で彼女を見た最後の日から一転、再びこうして彼女とふたりきりになれたことが。
もう脅しでもなく、彼女を困らせ、苦しませるためでもない。
――――彼女を救うためにここに来たのだと、幻想さえ抱きそうになる。
広義的にそれは間違いではなかったが、畢竟、白倉の我侭なのだ。
「どうして、ここに、いるんだ……」
「わかっているでしょう?」
白倉は藤篠をじりじりと追いつめた後、畳に膝をつき動物が獲物を捕らえるときのような姿勢になって、覆い被さった。
藤篠の顔のすぐ横に手を置く。
乱れた髪が、崩れた襟が、なまめかしい。
「わ、わからない!」
藤篠はひきつった表情のまま、白倉を見上げていた。
「実験だと、嘘だったと……」
声が震えている。見上げてくる瞳が、じわりと潤む。
すまない、と伝える代わりに、白倉は藤篠の唇を塞いだ。口紅の香りがした。
薄目を開けた視界で、藤篠が一度目を見開き、そしてぎゅっと瞑る。
自分とのキスを噛み締めるような表情だった。
諦めたはずの……手放したはずの体温が、どうしたらいいだろう、こんなにも愛おしい。
感傷で涙がにじんでしまいそうだった。
ようやく離れると、藤篠はまだ、白倉の唇を見つめている。口紅が移っているのだろう。
「そう、ですね。ですが、先生への気持ちが嘘だとは一言も……」
笑顔のままで言いかけて、白倉は言葉を止めた。
藤篠の目尻から、涙が細く、流れ落ちている。
傷つけて、困らせてしまった。どうしたら償いきれるだろう。
――――あなたが僕を好きだという幻想こそ、いつ嘘になるかもしれないのに。
それでも、藤篠は自分のために泣く。
――――もう、"本当"が何だって、いい。
いじましさに微笑んで、白倉はその瞼にそっと、唇をあてた。
藤篠の体液を味わいながら、藤篠の身体の上に覆い被さり、二人、畳に横たわったままで頭を抱く。
「……先生、僕はそんなに余裕があるように見えますか」
「見える」
涙混じりの声で即答されて、笑ってしまった。拗ねる子供のようだった。
会うたびに、彼女が愛おしくなっていく。いつか費えることがあるのだろうかと白倉は思う。
心は澄んでいた。
顔を上げて、藤篠を真っ直ぐに見下ろす。いまやあたりまえのように見つめ返してくれる。
――――長かった。
「あなたとは八歳も違う。しかもあなたは教師で、僕を嫌っていた」
自戒のように言って、微笑う。嫌われて当然だと、いまでは思う。
「並大抵の努力ではね、あなたを手に入れることなどできそうになかったんですよ」
いくら僕でもね、と白倉は微笑わずに付け加えた。
――――そして、自分はその方法を間違えていた。いまならわかる。
初めて出逢ったあの夏から五年。再会した夏から一年。
一秒たりとも忘れずに藤篠を想ってきたわけでは、ない。
それでも藤篠の背中を見てきた。彼女の凛とした横顔を時折思い出し続けてきた。
ふさわしい人間足れるだろうかと、自問してきた。追いつけるだろうか、と。
ずっとその気持ちでいればよかった。よかったのに。
「あれ程非道いことをしても泣かなかったあなたにキスひとつで泣かれた時は……さすがに傷つきました。そんなに嫌だったのかと」
本当はその何倍も自分は藤篠を傷つけてきたことをわかっていたけれど、意地悪を言った。
白倉はそっと、藤篠の目尻を親指で拭う。
「あ、あれは!」
藤篠が起き上がろうと身体を起こしかけて、帯が重かったのだろう、床に崩れる。
十巴に言われて予感していたことだったが、それでも彼女がこうして改めて否定しようとしてくれることが、嬉しかった。
どういう気持ちで藤篠が涙したのか、結局のところはわからない。わからなくてもいい。
自分を見て、藤篠が泣いた。それだけが白倉の中で重要な事柄だった。
「わかっています」
床に引き戻されて、慌てる藤篠が愛おしかった。
だから白倉は、微かに緊張する。息を吸い込んで、微笑みながら吐き出す。
「一乃さんは、誰よりも少女らしい」
初めて名前で呼んで、少し喉が渇いた。
まほうのかばん、と輝かせた瞳が、忘れられずにいまここにあることが嬉しかった。
乙女趣味なんだ、と言った十巴の言葉。
あの生徒会長室に向かう途中の廊下で、抱き上げられた自分の姿が窓ガラスに映るのを、腕の中の藤篠ははずかしそうに見ていた。
あの日言ったように、藤篠は白倉にとってお姫様以外の何者でもなかった。
彼女の愛が、その涙が、白倉をようやく正気にさせた。
それでも彼女が愛おしくて、いじらしくて、白倉は藤篠を虐めてしまいたくなる。
「本当はこうして見合いの席で攫われてしまうようなロマンティック、大好きですね?」
「…………っ」
藤篠の顔が、朱に染まった。
どこまでも狙ったとおりの反応を返してくる、彼女の実直さが嬉しくて、頭を寄せるようにして抱いた。
明るい笑い声をあげる。
心の中が、夏の空のように澄んでいた。
「なんて、可憐なんだろう」
たまらなくて、藤篠を抱く腕に力をこめた。すっと、着物の裾を指で割る。
そして白倉は笑顔をとめた。
「他の男になど、渡せるはずがない」
見つめ返してくる瞳も、この肌も、みんなみんな僕だけのものだ。
そう真っ直ぐに伝えれば、藤篠の身体がいっそうぎくりと硬直する。耳までが赤い。
こんなにも、見ていて飽きない。本当なら城に閉じこめて繋いでおきたい。
「ほら、喜んだ」
「う、うるさい」
藤篠の反応を愉しみながら、手で襦袢を割って、生の肌に触れた。つうと太腿を撫であげる。
もっといろんな彼女が見たかった。
そして本来ならば下着が触れるはずのそこの質感に、白倉は指を止める。 驚いた。
「……今日はとうとう下着を着けていないんですね」
問えば藤篠の視線は泳いで、その初々しい反応が白倉の奥に火を点す。
「あなたには、驚かされるばかりだ」
「あ……ぁ……っ」
指でクリトリスを摘んで、擦り上げた。愛液を誘うように膣の入り口を撫でる。
自分の背中を、藤篠がぎゅう、と握った。
もう恐怖からではない。屈辱からではない。 苦痛からでもない。
彼女もまた、自分に触れられることを望んでくれているのだと思えば、我慢などできるはずがない。
「ですが残念ながら、先生を攫いにきたわけでは……ないんですよ」
まだ、早い。
藤篠を完全に捕らえるためには、まだしなければならないことがある。
けれどいまは、いまだけは彼女に溺れたい。
「忘れ物を、取りにきました」
にっこりと笑って立ち上がる。
床に取り残された一乃が、熱を帯びた視線で自分をぼうっと見た。
「忘れ……もの?」
「はい」
焦れる気持ちで服を脱ぎ捨てる。肌で彼女を感じたかった。
ひとつひとつ、自分を焼きつけるように脱いだ。
藤篠に、見られている。そう思えば、既に屹立したそれはより硬く怒張した。
「先生の処女を、いただくのを忘れていました」
白倉は畳に膝をつくと、淀みない仕草で素早く足を持ち上げた。
藤篠の惚けていた瞳にようやく生気が宿り、とどめるように手が伸びる。
「言っていたことと、違……!」
構わずに腰を持ち上げ引き寄せると、白倉ははだけさせた藤篠の裾の間に入り込んでしまった。
――――そりゃあそうです。あなたに愛されていると知らなかったのだから。
けれど、いまは違う。
白倉は藤篠の白い太腿の間で、にっこりと笑ってみせた。
「はい。ですから、結婚しましょう」
「!?」
さっきまで焦るように伸ばされていた手が力を失う。
藤篠の動揺をよそに、白倉はその秘所を指でなぞった。
結婚はまだ早い、そんなことは誰に言われなくても、白倉自身が一番理解していた。
18歳で、高校3年生だ。子供でもなく、大人でもない。だが、成人ではない。
だからこそ、それを急ぐ必要があった。理由は、二つ。
藤篠を二度と離さないため、そして――――成人と同等の権利を得る、ため。
「ぉ……まえは……まだ、学生で……」
「はい。進学もします。ですから、先生には贅沢などさせてあげられませんが」
白倉は片手で一乃の腰を支えながら、一旦愛撫の手を止めると、身体を捻って背後に置いていた一通の書類と、そして小さなケースを取った。
それを帯の上にすっと置く。
藤篠の表情が強張る。彼女に書類を渡すのは三度目で、過去の二度は……ろくでもない内容だつた。藤篠の反応は、無理もない。
どことなく疑るような目で自分を一瞥し、藤篠が書類をゆっくりと、開いた。
そして、そこに書かれた文字に目を見開く。
婚姻届。
動きを止めた彼女の衿の上をころころと、一緒に置かれていた小さなケースが滑って、喉で止まる。その喉を唾液が嚥下されていった。
藤篠が驚いている理由は、単に婚姻届を差し出されたというだけではないことも、白倉はわかっていた。その内容の九割は既に埋めてある。
あとはサインと捺印を済ませれば、公的にも私的にも、彼女を手に入れることができる、いわば白倉にとってこの世で最も大切な権利書だった。
「こ……っ、公文書偽造だ……っ……」
「僕も必死だったんです。大目に見てください」
くすりと笑って言ったが、本心だった。
このことは、自分と藤篠のふたりきりしかまだ知らない。
急ぐ必要があった。
見合いが始まる前に、彼女を確実に自分のものにしなければならない。
藤篠は何も言わなかった。
手の中の婚姻届をいつかのように投げつけることも、破ることもしなかったので、白倉はそれを承諾なのだと理解した。
身体を折って、藤篠の腰を上げさせるとそこに舌を這わせる。
「あ……ぁ、っ!」
舌先で、敏感な蕾を、襞をしとどに舐める。
何も考えられなくなればいい、と、思った。
――――思考を止めて、あなたはただ僕のものになればいい。
そうして藤篠の腰を自分の太腿の上に乗せ、帯のあたりを掴んで引き寄せる。
「さあ、そろそろ認めておしまいなさい。――僕が、好きでしょう?」
「っ!」
にっこりと微笑んだままで藤篠と視線を絡めながら、襞を蕾を、屹立した自分のもので擦り上げる。
藤篠は快感と羞恥の表情をして、唇を噛み締めている。
「答えないなら、挿れて差し上げませんよ」
「だっ、誰が……!」
短く叫んで、藤篠は自身の指を噛んだ。
潤む瞳が、震える襞が、染まった頬が、だらりと力をなくした太腿が、自分を呼んでいた。――貫いてくれ、と。
「ほんとうに、かたくなな人だ」
どこまでも自分自身を開放できない藤篠が愛おしくて、白倉は掴んだ一乃の腰を、荒々しく一気に引きつけた。
僅かに抵抗する襞が強い圧力で左右に割れる。
「もう諦めて、僕のものになりなさい……!」
ぐ、と先端が藤篠の身体を侵食する。
白倉の唾液とそれに導かれた愛液とでじっとりと濡れたそこは、もう白倉を拒むことをしなかった。
「…ひ……っ…ぁ!!」
以前差し込んだ菊門とはまるで違う挿入感。
――――もう、待てなかった。
藤篠の中が、ため息が漏れるほど温かく柔らかくそれを包み込むので、白倉は優しくすることができそうにない。
「あ、ぁ……う、動く……な……っ」
「無理、ですよ。あなたの前では僕は子供になる……」
泣きそうに引きつった声で喘がれたら、なおさらたまらない。
――――もっと困らせて、虐めて、泣かせて、暴いてしまいたくなるではないですか、先生。
「僕は、好きな子をつい虐めてしまう、小学生……です」
「あっ!……は……っ」
自分で言ったのに、あまりにも的確な比喩で、喘ぎの中で笑った。
本当は帯をほどいて、肌と肌で触れ合いたかった。そのつもりだった。
けれど藤篠と擦れ合う快感が思考を止めて、服を脱がせる時間さえ惜しい。
「そしてあなたは……僕に虐められて泣く、女の子だ……!」
「あっ!ぁっ……あ、あ……っ!!」
もっと奥まで抉じ開けて、いろいろな顔が見たい。
急く思いで、白倉は藤篠の身体を揺さぶった。
帯が畳と擦れる音と、彼女の喘ぎと、体液の絡まる音がいやらしかった。
だが、眼下の藤篠が突然に手のひらで顔を覆う。
ひどくしすぎたのだろうか、と、白倉は不安になって動きを止めた。
「一乃、さん……?」
藤篠は答えない。手のひらで覆った顔の隙間から見える唇は、噛みしめられて色を失っていた。
その頬を、涙が伝った。
藤篠は、泣き出してしまっていた。
――――以前の白倉なら、誤解したのかもしれなかった。
だが、いまなら彼女の涙の理由が、わかるような気がした。
もう誰に憚ることなく、だが少女のようなはじらいを持って唇を噛みしめ泣いているその姿を、白倉は心底愛しいと目眩のように思う。幾度となく思う。追憶のように思う。
そっと、髪を撫でた。繋がっている。もう身体だけではない。
藤篠が泣き顔で、自分へと手を伸ばした。抱きしめてくれ、とばかりに。
――――それがどれほど白倉の欲しかったものか、藤篠はきっと知らない。知らなくていい。
微苦笑して、初めて彼女から自分に向かって伸ばされた腕を首に絡ませ、強く抱きしめた。
もう、離さない。
「……先生、叱ってください」
「あ……ぁっ!あ」
耳元で囁いた。
もしかしたなら自分はずっと、藤篠にただ叱られたかったのだろうか、と、思うほど。
「好きな子を虐めてはいけません、と……叱って、ください先生」
泣きじゃくる藤篠がかわいくて、いたましくて、かわいそうで、好きで好きで、白倉は、こんなに激しくしたらつらいんじゃないか、などと、 気遣うことももうできない。
――――僕の愛は、どこまでも利己的で、あなたを泣かせることしかできそうにない。だから。
「叱ってくださらないと……出してしまいそうです」
「だ、め……だ、中は……っ」
禁じられれば抗いたくなる。
彼女が何て言おうと、従うつもりは元よりなかったのだけれど。
何度も何度も、達しそうになる快楽を押し戻す。
本当はもっと長く、藤篠を味わっていたかった。けれどもう、限界だ。
「どうして?結婚、してくださるんでしょう?」
「そ、…な……、ぁ…っ!」
背中を強く抱いた。
がくがくと激しく突き上げられて、可とも否とも、藤篠の声が言葉にならない。
「ね、藤篠先生……っ」
「ひっ……あ、ぁ……!」
藤篠が強く白倉の身体をかき抱くので、叩きつけるように腰を深く差し込んだ。
中がぎゅう、と、白倉を絞り上げるように締まる。
ぴったりと繋がった藤篠の奥に、白倉は射精した。
初めから決めていたことだった。




すっかりと乱れてしまった藤篠の着物を、そして化粧を調え、彼女を見合いの席へと送り出すと、白倉もまた身支度を整えた。
実際はすっかり忘れていたのだけれど、浴室から何の反応もないことが気にかかってそっと覗けば、縛られたままの兄はいまだすやすやと、寝息を立てている。
手の中には、藤篠がサインしたばかりの婚姻届があった。
――――本当にいいんですか、僕で。
覚悟の上で準備したのは自分であるのに、そう問いたくなるほどあっけなく素直に、藤篠は指示に従った。
藤篠がどんな心情でそれに従ったのかはわからない。これから知っていけばいい。
自分と彼女には長い長い時間が用意されているのだから。
鏡の前でネクタイを締め、髪を後ろへ撫でつける。
部屋の中はまだ藤篠の残り香があって、白倉は息を一度深く、吸い込んだ。
ああそういえば、また藤篠を泣かせてしまった。フクロとやらは一体なにをされるのだろうと、十巴の言葉を思いながら、涙に似た、藤篠の香りと体液とがないまぜになった匂いが、鼻腔をくすぐって消えた。



そして次兄が座るはずだった見合いの席に登場した自分を見る、藤篠の表情は傑作だった。



彼女の付き添いであった婦人が去ってのち、藤篠が大きく息を吐き出して、自分を睨む。
「初めから……このつもりだったのか!?」
「まさか」
彼女の指す初め、が、この縁談自体のことを指すのならば、心外だった。
――――これでもね、いろいろ苦労、したんですよ。
そっと、手のひらを鳩尾のあたりに添えた。十巴に折られた肋骨はまだぎしりと鳴る。
白倉は責める視線に苦笑すると立ち上がり、廊下から降りて日本庭園へと立つ。
そうしてゆっくりと藤篠を振り返ると、手を差し伸べた。
「どうぞ」
庭の池に反射して、いくつもの太陽光が藤篠へと向かう。
そのスポットライトに照らされる藤篠は、まごうかたなきお姫様だ。
目の前に広がる景色はバロックではなく純和風で、シャンデリアの代わりに池が煌めき、楽隊の室内楽ではなく鳥のさえずりが遠い空に聞こえる。
藤篠が着ているのは振袖で、自分はいまでも彼女を攫う、悪い魔王だ。 王子様ではない。
――――それでも彼女が、自分の手を取ってくれるなら。
眩しさに目を細めながら見上げれば、藤篠は、差し伸べた自分の手のひらにそっと、細い指先を載せた。
まるで舞踏会のようだ、と、白倉は思った。
「踊って、いただけますか?」
だから冗談を言って、くすくすと笑った。
藤篠がくすりと吹きだして、ゆるやかに笑顔になる。
美しかった。
自分の手をつかみながら飛び石の填められた地面に足をついた藤篠は、用意されていた草履を一度見、けれど足袋のまま、土を踏む。
彼女の口元が、悪戯っぽく一度微笑んだ。
藤篠らしからぬ行動に白倉は一瞬目を見張ったが、すぐにその心情を察して、苦笑する。
――――どこまでも、愛らしかった。
そうして池の前まで足を進めたとき、白倉はふと、あることを思い出して立ち止まった。
「ああ、そういえば僕は初めて嘘をつきました。あまりにも必死でしたので、無意識で」
嘘も方便とはこのことを言うんですね、と言って、白倉は笑った。
藤篠は怪訝に自分を見上げていた。安心させるように、微笑んでみせる。
「紹介状が行き違っていた、という嘘です。つい先程までは、先生のお相手は間違いなく兄でした」
「……兄でしたって……、じゃあ……!」
素直に驚く彼女がかわいくて、眩しくて目を細めた。
さっき自分が抱かれたあの部屋の浴室にそのお相手が監禁されていると知ったなら、彼女はどんな顔をしてみせるだろう。言えない言葉を思った。
藤篠は何かに思い至ったような、はっとした顔をさせて、跳ねるような視線が向けられた。
その表情から理解を感じ取って、白倉はただ微笑む。
「……だから、焦っていたんですよ。でなければあんなリスクの高い手段を誰が使いますか」
あんなリスクの高い手段、と、白倉は今日の一連の所業を指した。
だが、藤篠はもっと別のことを曲解したような表情をして、そこにいた。
彼女との視線がずっと繋がらなかったように、自分たちはいつも絶妙に噛み合わない。
背中合わせだ。
そんなことは少しも問題じゃない。これから少しずつ、わかちあっていけばいい。
本当に大変なのはこれからだ。それはわかっていたけれど、それでもこうするほかなかった。
――――自分の愛は、やっぱりどうしたって利己的で、幼稚でしかない。だからきっとまた、藤篠を傷つける。彼女のためには決してならない。
それをわかっていたけれど、それでもどうしても、藤篠が欲しかった。
幼稚だ、と思えば悔しくて気恥ずかしくて、白倉は藤篠を見るのが怖かった。
「……ちょっと待て、白倉」
「なんでしょう」
低い声に呼ばれて、白倉は笑顔になった。
凝らすような目が、見透かすように自分を見ている。
「つい先程まで、と言ったな……?」
「はい」
嘘はついていない。"先程"の定義はいくらでもつけられる。
それがいつなのか、藤篠は、知らなくていいことだ。
「兄はふん縛って、そこの便所に転がしてきました」
顔の筋肉だけで、白倉は笑った。
あの間抜けな兄は、何も知らずまだ夢の中にいるのだろうか。そう思えば愉しくさえあった。
そうして強張った藤篠の表情に、思わずくつくつと笑ってみせる。
「……冗談ですよ」
視線の先の藤篠は、自分の言葉を信じてはいない顔色をして一度睨み、けれどすぐにやわらかく微笑む。
――――ああ、赦されている。
こんな自分でも、いまや彼女は受け容れてくれるのだ。
心が溢れて、手のひらに載せられたままだった藤篠の手のひらを一度、ぎゅっと握った。
「ここで指輪でも出せれば格好がつくのですが」
白倉は藤篠の左手を掴み直すと、すっと口元に運ぶ。
手の甲に唇を優しく押しあてた。
腰を折って、ゆっくりと礼をする。それは、30度の傾斜角。
「買いに行く時間がなかったので、これで」
白倉は藤篠の左の薬指を、そのまま口に含んだ。ぴくりと、藤篠が身体を震わせる。
白倉はそれを上目遣いで見つめながら、顔を少し傾けるようにして、藤篠の指を含んだ。
歯を、薬指の根元を強く、強く噛む。
藤篠の表情が、うっとりと陶酔したそれに変わる。
自分が与え続けた嗜虐に彼女は快感を覚え、表情に艶を増す。
痛みを快楽を受けて、今頃彼女の脳内では、あの現象が起きているのだろうか。
――――あなたに愛されるのなら、もうなんでもいい。
「これで――あなたは、もう僕だけのものだ」
ふ、と白倉は片眉を上げて微笑った。
藤篠は、まだ知らない。
さっき自分に渡した婚姻届は、代理人によって提出され、いまごろ受理されていることだろう。
惚けたままの藤篠が、小さく頷いた。その薬指の根元には、いま自分がつけたばかりの赤い窪みが残る。
それは契約だった。心臓に最も近いとされるその指を捧げることで、もう彼女は惜しみなく総て、自分のものであるのだと、藤篠に認識させるための。
予想しなかったのは――――藤篠が、そっとその指へくちづけたことだった。
その姿はどことなく神聖で、突き上げるような感激に、白倉は神に捧げる歌を思う。
――――あなたは、永遠に私のもの。
教師としての、女としての藤篠しか、白倉は知らなかった。
だから恋人としての彼女がこんなにも愛らしいのだと思い知れば、泣きたくなるような心地だった。
見つめられていることに慣れなくて、耐えられなくて、白倉は藤篠の身体を静かに抱き寄せた。
さっき初めて抱いた身体が腕の中にある。
頬をくすぐる藤篠の髪の匂いで、白倉は目眩した。
「ああ、大きくなってしまいました」
感傷に浸る自分を誤魔化すように、平淡な声と微笑で白倉は言った。
自分と彼女とを隔てている服さえ、いまは邪魔に感じるほどだ。
世界中の誰よりも愛しくて大切にしたいと思えば、世界中の誰よりもひどくして泣かせてしまいたくなる。
それはきっと自分という人でなしの本能だ。変わることはない。
それでも、見開かれていた彼女の視線が、応えるように次第に艶を帯びていくから。
「どうしましょうか?先生」
いつかの生徒会長室で、問いかけたのと同じ質問。
あのときは一瞥され、逸らされた瞳がいまは見つめ返していた。 色をもって。

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