呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  十一.  
30度の傾斜角
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藤篠を生徒会長室で見送ってから二日が経過した朝の講堂に、白倉は立っていた。
眼下に並ぶ教師たちの列の中に、彼女の姿はない。
……あの選挙の日以来、藤篠は学校を休んでいる。
姿を見れば瞳を逸らされることが悲しくて、会えない休日は彼女を思って切なかった。
いまは、そのどちらとも違う感情が白倉の胸を支配していた。
胸が締めつけられる、とはよく言ったものだ、と、白倉は思う。
喉の奥、鎖骨の下あたりを強く縛り上げられているような息苦しさは消えず、文字通り、飯も喉を通らなかった。
加害者の自分がこんなにも苦しいのだ、被害者である藤篠がいまどんな気持ちでいるかを想像するには、余りあった。
あのハンカチを彼女が忘れてしまったように、再び総て忘れてくれればいい。
頼むから、誰か、早く誰か、彼女の中の自分を消してほしい。
あの人が泣いていることが、こんなにも耐えられない。
あんなにも忘れられたくないと切望していたはずなのに、まるで裏腹のことを祈る今が可笑しかった。
突然、ゴン、ガシャァン、と、物騒な音が講堂内のスピーカーから響く。
生徒たちのざわめきに、何事だろう、と顔を上げれば、斜め隣の黒崎行幸が目を見開いていて。
ああ、いまは生徒会長交代の儀式の最中だった、と、思い出した。
控えていた放送委員の生徒が、舞台上に転がったマイクを慌てて直している。
額にぼんやりとした違和感があるから、きっと礼をしたときにぶつけでもしたのだろう。
「会長、挨拶を」
囁くように黒崎が言うので、白倉は整えられたばかりのマイクへと振り向いた。
全校生徒、教師陣、千の瞳が自分を見ていた。そこにあの瞳はない。
舞台上からどれほどそれを探しても、藤篠の瞳だけがない。
視界の隅に映る緞帳の影で泣いていた彼女はもうどこにもいない。
「…………」
講堂がざわめいている。わかっている、自分が無言のままだからだろう。
口を開いては、閉じる。喉が塞がれたままなのだ、声など出ない。
あの瞳がどこにもない。だから逸らしてさえもらえない。
「………………」
結局何一つ言葉を発することはできず、一礼だけをした。
瞬間、静まり返った講堂内に、潮騒にも似た拍手が広がる。
30度の傾斜角を描いた背に、葬送の音だけが響いた。



「会長……その、どうしたんですか?」
朝の全校集会での生徒会長交代儀式を終え、ふたりきりになった会長室で、黒崎からかけられた言葉に白倉は首を傾げる。
「どうもしていないよ。それに会長はもう、君じゃないか」
抑揚のない声で苦笑して答えた返事に、黒崎は一層表情を暗くさせた。
彼は一度口を開きかけては閉じ、眉間に皺を寄せ躊躇い、そうして再び口を開く。
「……もしかして、藤篠先生が休んでいることと何か」
黒崎がそんな風に問うということは、彼は何も知らないのだろう。
総てを告白したなら、彼は自分を殺してくれるだろうか?
そう思って、白倉は微笑って口を開いた。
「失礼します!!」
白倉の言葉を遮ったのは、部屋が軋むほどの勢いで扉を叩きつけて登場した、藤篠十巴だった。
言葉通り失礼した彼女の身体からは、湯気のように覇気が立ちのぼっていて、白倉はなおも笑った。
黒崎では、役者不足だ。十巴ならば相応しい。
「会長、イチ姉に何したんすか!」
第一声は怒声だった。
ああ、王子様が遂にやって来た、と、白倉は思う。
「おい、バカ!十巴、落ち着け」
「落ち着けるかバカ!……泣いてるんだよ!!あの選挙の日からずっとだ!部屋からも出ない、飯も食わない!」
黒崎に腕を取り押さえられ、もがくようにしながら十巴は叫ぶ。
「あんたを見て、イチ姉は泣いたんだ!初めてだぞ!あのイチ姉が、初めて泣いたんだよ!」
真剣な表情の十巴が、強い眉をして、まっすぐに自分と向き合っていた。
白倉もまた、眉を上げた。表情から笑みが消えていく。
だからあんなにも十巴が慌てていたのか、と、彼女の行動の理由を解する。
――――生徒のどんな罵りの声にも、謗りにも、いつも顔を上げていた藤篠。
――――自分がどれほどの屈辱を味あわせても、涙だけは流さなかった彼女。
「イチ姉はね!あんな喋り方だし、授業も厳しいし、よく誤解されるけど、ほんとはものすごい乙女趣味で!本棚の奥にボロッボロのキラッキラの表紙の小説が隠してあってなあ!」
そこまでとは思わなかったけれど知っているよ、と、また白倉は強ばった表情のまま、心の中だけで思う。
十巴の熱弁は止まらなかった。
凛々しい眉の下の、血走った瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。
「あんた、イチ姉をふったかなんかしたんだろ!イチ姉はね!イチ姉は――――ずっと!ずっとあんたのことが好きなんだよ!」
「ずっ……と?」
藤篠に好きだ、と言われたのはつい二日前の話だ。それも自分が仕組んだことで。
……ずっと? 二日前のことを"ずっと"と、言うのだろうか、現代用語では。
白倉が眉根を寄せ、時を止めたことに十巴は気づかない。
「だから初めて親父にも刃向かった!見合いなんかしないって!でもあのクソジジイが!だからもうなんとかできるのは先輩しかいないんだってば!なんとかしろよ!!」
とんだ脅迫だ。黒崎の呆れた顔がそう物語っていた。
だが、十巴の言葉も黒崎の表情も、まるで黒く切り取られた画面の向こう側のことのように白倉は感じていた。
耳を、これまでの記憶を疑う言葉のひとつひとつに、ぼんやりとした浮遊感と、頭の芯が冴えていくような奇妙な感覚を同時に味わいながら、背後から黒崎に両腕を羽交い締めにされた十巴と、ようやく対峙する。
「ずっと、って、いつから……」
「知らねえよ!本人に聞けよ!」
興奮しきった十巴が、髪を振り乱した。短い髪の束が風を切るのを白倉は呆然と見ていた。
「落ち着けって!!」
黒崎の怒声に目を開いたのは十巴と白倉が同時。
十巴の動きがぴたりと止まって、 黒崎は彼女を解放した。
沈黙した部屋に響く、一呼吸分の大きなため息。
「藤篠センセイが泣いていることと白倉先輩が関わりがあるっていう確証は?」
対照的な、低い、静かな声。
十巴のきりりとした眉が歪み、そうしてその下の目が、唇が、拗ねた子供のものに変わる。
「み……行幸が言ったんだろ、イチ姉が会長に告られたって!だからあの日、イチ姉が顔真っ赤にしてたんだって!」
白倉は十巴から黒崎に視線を移した。
このときの黒崎の表情を言葉にすれば……"あちゃあ"だろう。
告られた。あの日。
十巴から飛び出す言葉の数々に唖然としつつも、白倉の頭の中で相関図が整理される。
あの、彼女を陵辱した最初の日。おそらく藤篠は、自分の言葉の真偽がわからずに、黒崎に尋ねたに違いない。
姉のようだ、と言っていた黒崎だったから、また、藤篠にとっても弟のような存在に違いないのだろう。ましてや黒崎は、白倉の腹心と言っても過言ではなかった。
だからその黒崎には相談し、この十巴には到底話せなかった彼女の心情もまた、理解できた。
そして黒崎は十巴にだけは話して聞かせた。秘密だぞ、とでも前置きして。
黒崎の顔色を伺う限り、その推理はきっと、的を射ている。
「だからイチ姉は会長と付き合ってたんだけど、お見合いしなきゃならなくて、だから選挙の日に会長見て泣いて!」
ひと昔前のドラマのようなストーリーが十巴の口からまくしたてられて、白倉は切なかった。
そんなストーリーだったならば、どれほどよかったか。
つきあって、愛し合って、引き裂かれて。
仮にそうならば、きっとあんな風に藤篠を泣かせずに済んだ。彼女を攫って、誰にも渡しはしなかった。
――――事実は……君が考えているより、もっとずっと、凄惨だ。
十巴の言葉から逃げるように固く目を瞑った白倉の耳に、空気を弾くような、パチン、という音が響く。
顔を上げて、黒崎が十巴の頬を軽く叩いた音だと理解した。
「そんなの全部お前の思い込みだろうが!イチ姉に確かめたのか?違うだろ?」
白倉は、大きく目を見開いた。
黒崎の詰問に、自分こそが頬を叩かれた。
黒崎も十巴も何も知らない。知らないはずだ。
だが、黒崎の今の言葉は、自分にこそ向けられるべきものではないのか。
――――確かめていない。自分はなにひとつ、彼女に確かめていない。
何かを掴みかける感触が頭の奥にあって、白倉はぎゅっと手を握る。
「ごめん。あたし、気が動転して」
先程までの勢いを唐突に失って、十巴は唇を噛んでいる。
白倉は、縋る気持ちでその横顔を見た。掴みかけているのだ。ずっと靄がかっていた答えを。
「……十巴くん。少なくとも君がそう確信してここに来たからには、他に何かあるんだろう?黒崎に聞いた以外に」
期待と不安で、震える声を抑えることに苦心した。
生徒会長と風紀委員として彼女をある程度は理解しているが、バカがつくほどの正直で、ある意味ではバカがつくほどの真面目な彼女だ。計算はいずれの意味でも苦手だろう。
そしてきっと、おそろしく鈍い。人の心の機微を感知することに長けた感性とも思えない。
だから、その藤篠十巴がこんな発言をするということは、何かしらの確証を得ているのだと、白倉は判断した。
それが知りたい。――――ずっと、と言った、その"ずっと"はいつから?
白倉の声が真に迫るものだったからだろうか、それとも自分の心中を見抜かれたように感じたからか、十巴はどことなくバツが悪そうな顔をして、頭をがりがりと乱暴に掻いた。
「……イチ姉がね、隠してる本の挿絵の王子様に……会長は、そっくりなんですよ」
私は君が好きなんだ。あの人の声が耳の奥で甘く反響する。
白倉の足は身体を支えることができなくなって、よろけた先に机があった。
彼女を載せ、彼女を犯した机。もう自分が座ることも、彼女が載ることもない机。
そこに白倉は手をつく。
「はは……あはははは」
吐き出すように、笑いが漏れた。
ずっと見つめ続けてきた。ずっと逸らされ続けてきた。
彼女は自分を覚えていなかった。それなのに再会の瞬間から敵意さえ感じる程に彼女は自分を見なかった。微笑みかければ、強張って露骨に眉根を寄せる表情がいつもそこにあった。
自分は、彼女だけを見てきた。彼女は――――自分だけを、見なかった。
逸らされていたのではなかったとしたら?
ただ、照れていた?
まさか。
ならば自分はどうして。
「は……ごめん、笑ったりして。……はは、は……」
十巴と黒崎とが呆然と立ち尽くしていることはわかっていた。
けれど、目の前が暗くて、何も見えない。誰も気遣うことなどできない。
白倉は藤篠一乃という人間を知った。肌を知った。愛らしさを知った。勤勉さを奥ゆかしさを優しさを美しさを、もう知ってしまっている。
――――なのにどうして、気づけなかった。
「…………っ」
ダン、と、拳を一度、机に叩きつけた。
視界の隅で、十巴の肩がびくりと跳ねた。
――――どうして、どうしてこんなに簡単なことがわからなかったのだろう。
彼女が自分の瞳をきれいだと褒めてくれたのは、自分がスカートを直したからか?
さみしいね、と、水色のハンカチを差し出してくれたのは、自分が歌を教えた礼だったのか?
――――違うだろう。
教師としての、人としての彼女の優しさで……愛情だった。
そのお返しに、自分は何をした?
――――しなければならなかったことは、ふたつだけだ。
あのときは本当に嬉しかったんです、ありがとうございました、と、ハンカチを差し出すこと。
先生が優しくしてくれて、本当に嬉しくて、ずっと忘れられませんでした、と、伝えること。
そのどちらもできなかった。勇気がなかった。おそろしかった。
それは自分の弱さだ。彼女のせいではひとつもない。
傷つけられたと思い込んで、傷ついた自分を正当化して、贖わせようと懸命だった。
彼女にした総てに、愛などない。
そんな自分だから、忘れられて当然だった。
「白倉……先輩……?」
長い沈黙を破って、黒崎の声が自分を呼ぶ。
白倉はのっそり顔を上げ、振り向いた。微笑んでいた。
「……先生が泣いているのはね、僕が先生に非道いことをしたからだ」
「え?」
黒崎と十巴の声が重なった。
白倉はその二つの視線と正面から対峙した。眉根に皺を作る。
「僕はね、とても卑劣な手段で、"先生が僕を好きになるように"仕向けたんだ」
十巴の凛々しい眉がゆがむ。黒崎の目が見開かれる。
白倉は、薄く笑った。
「先生を、レイプしてね」
「――――!?」
十巴の顔色が瞬間で変わる。文字通り、蒼白だ。
「先生は傷ついて、苦しんで、そのうち僕が与える快楽を愛するようになったのだろうね。知っているかな、虐待を受ける子供の精神構造とおんなじだよ。心の中の自分を守るために加虐者を愛していると思い込むことがあるんだそうだ。思い通りだ。大成功だった」
白倉は笑い出してしまいそうな声音で言い放った。
十巴の影が振れた、と気づいた瞬間には、もう背中には壁の固さを感じていた。
静止した世界で、十巴の足がゆっくりと降りていく。
蹴り飛ばされた腹と、打った背中に衝撃はあった。だが、白倉は満足だった。
「離せよ!行幸っ!!」
「………………」
十巴はもがき、叫ぶ。背後から彼女を取り押さえている黒崎は無言のまま、静かな、厳しい瞳で自分を見ている。
よろけるように身体を起こした。肺が圧迫されて、げほ、と、少し咳き込んだ。空気が漏れただけだった。
暴力を与えられる痛みには慣れていたが、久しぶりのことで身体が微かに軋んだ。
黒崎が止めていなければ、今頃、自分の意識はなくなっていただろうか。
それでも構わなかった。本当に殴られたかった相手は違うけれど、自分を倒すのに藤篠十巴ほどの適任はいないだろう。なにしろ彼女は学園の王子様だ。彼女の王子様だ。
どれほどにこの藤篠十巴という少女が姉を大切にしてきたか、白倉は見知っている。
――――自分もあんな風に優しく、慈しむように彼女を愛せたなら、どれほどよかっただろう、と、憧憬がいつもそこにあった。
白倉は壁に体重を預けながら、まだ立ち上がることはできず、一度、呼吸を整えた。
「……だから、先生に"恋をさせた"のは僕で、そんな僕のような人間と一緒にいてはいけない、と…………思い込んでいたんだよ。さっき、君の話を聞くまで」
暴れていた十巴の手が空気を切って、力を無くす。
自分の言葉の意味を図りかねているのだろう。顔に書かれていた。
反面、黒崎は変わらない静かな瞳のまま、表情ひとつ変えることなく自分を見ていた。
「あの選挙の日、先生が泣いたのが……君が言ったとおりだったら……いいね」
白倉に向けられる十巴の表情からは怒りが消えて、戸惑いだけが留まっていた。
白倉は、眉根を寄せて微笑う。
「本当に、本当に非道いことをしてきたんだ。それでも先生はね、あの日ここにきて言ったんだ」
藤篠と別れたドアを見やって、白倉はあの唇の甘さを思った。
白倉は顔を擦りあげるように両手で覆って、その隙間から、笑った。
「言ってくれたんだ、こんな人でなしでも……好き、だと」
最後は掠れて消える声だった。
あんなにも非道い所業をしてきた自分を、藤篠は好きだと言ってくれた。
いままで見たことがない切実な瞳をして自分を見上げ、唇を震わせて彼女は言った。
どれだけ、勇気がいっただろう。
笑い飛ばされて、どれほど傷ついただろう。
自分には、眩しすぎてできなかったことを、彼女はしたのだ。 してくれたのに。
与えられるばかりで、なにひとつ返せていない。
藤篠はいまも泣いているのだろうか。意に沿わない婚姻に。自分を思って?
――――ならばその彼女のために自分が捧げられるものは、もはやたったひとつしか、ない。
「十巴くん」
壁に手をつきながら、よろけるように立ち上がった白倉に、十巴は理解できない奇妙なものを見る目をしていた。
ああ、その目は以前のあの人によく似ている、と、白倉は思った。
「先生のお見合いの相手は、僕の兄なんだ。君たちのお父さんは"白倉"との関わりが欲しいそうでね。きっと、どんな手を使ってでも、先生を"うち"に嫁がせるつもりなんだろう」
「…………でしょうね」
十巴の眉根が微かに歪んで、白倉の言葉を肯定した。
もう彼女に黒崎の制止は必要ないようだった。
「先生が"白倉"に嫁ぐことは変えられないことで、故にいまも泣いていると君は言う。……お見合いがつらいのか、それとも」
白倉はひきつるように苦笑する。
「……僕が恋しくて、かどうかは、正直自信がないよ。あまりにも、非道いことをしたんだ。それでも君はそう思って、ここに来たんだろう?」
躊躇いのような沈黙の後、十巴は一度こくりと頷いた。
彼女の強い眉が、強い瞳が、藤篠の気持ちを確信のように代弁していた。
「先生が結婚させられる予定の兄は、良い人でね。僕とは違って、先生に紳士的に優しく接してくれただろうと思う。君にとってもいい"お義兄ちゃん"になっただろうね」
だから彼女を手渡すことが愛だと、そう、信じこんでいた。
藤篠の気持ちなどなにひとつ見えず、考えないまま。
何ひとつ、確かめなかった。信じなかったのは、自分の方だ。
何もかもが間違っていた自分の中で、彼女に惹かれたことだけが唯一、正しかった。
言葉を切った白倉を、十巴は見つめていた。目を細めて、見透かすように。
「だから……ごめん。代わりが、僕で」
十巴の許しなど必要としていないことはわかって言った。
本当に謝るべき相手は、許しを請うべき相手は、十巴ではないこともわかっていた。
けれど、だからこそ、彼女には言えない言葉を言った。
許しは請えない。謝ることもできない。やり直すことなど叶わない。魔法が解けてしまうから。
魔法はかけ続けなければならない。あの人の、恋という幻想が終わるまで、ずっと。
「償っていくと、約束する」
頭を下げた。その背が藤篠と同じ傾斜角を描いた。
あの人の、あまりにも美しい傾斜角。
どれだけ謗られても、涙ひとつ見せずに、彼女は決してあの傾斜角を崩さなかった。
いつ、どんな、誰に対しても、美しい礼を持って対峙していた。
――――それが美しさでなくて、なんだろう。
醜い自分を憂鬱な程に思い知っていたから、あの背中に恋い焦がれた。
「先生が、好きなんだ。あの人が望んでくれるのなら……もう誰にも渡さない」
十巴はしばらく、何も言わなかった。
黒崎もまた、無言のまま。
沈黙と、コチコチと小さく響く時計の音。
十巴は答えなかった。
大きく息を吐き出す音。続いて、唇が開く音。
「……次にイチ姉を泣かせたら、フクロにします」
フクロにする、という俗語の意味は白倉にはわからなかったけれど、真意は伝わった。
十巴の強い視線を正面から見据えて、白倉は一度、強く頷いた。
決意すれば、片付けるべき問題は明確で、手強かった。一秒すら惜しかった。
白倉の瞳にもう、十巴と黒崎の姿は映らない。
「あたしはっ!」
踵を返し、何の未練もなく生徒会長室を出て行こうとした白倉を、十巴が呼び止めた。
ドアに手をかけたままで、白倉は十巴を振り返る。
「イチ姉があんたをゆるしても、あたしは……絶対にゆるさない」
研ぎ澄まされた刃のような視線が自分を貫いて、白倉は笑った。
「そうしてほしい」
できる限り長く、できれば一生、許さないでいてくれ、と、願って微笑んだ。
自分の醜さを、過ちを、せめてこの二人には、憶えていてほしい。忘れないでほしい。
もしも自分が約束を違えたとき、同じ瞳で殺してほしい。
白倉はもう振り返らなかった。
足は、いつのまにか駆けだしていた。
あれほどに締めつけられて痛んだ喉の重さは、いつしか消えていた。
代わりに蹴り飛ばされたあばらがぎしりと軋んで、白倉に初めて、愛を教えた。

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