呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  十.  
30度の傾斜角
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「こちらにいらしたんですか」
扉を開けて、白倉は内心、驚いた。
まさか会長室に藤篠の姿があるとは思わなかったからだ。
藤篠はもう見慣れた彼女に戻っていた。
目の端に、涙が残していった赤みを、白倉は目を細めて見やった。
「眼鏡を」
「ああ、そうでした」
自分の熱を帯びたそれを胸ポケットから取り出すと、蔓を開いて藤篠の顔へと戻した。
藤篠は、まっすぐに自分の瞳を見つめていた。
その黒い双眸が、いつかの朝、きれい、と言ってくれたあの表情をしていたように感じられて、白倉は藤篠に触れていることを恐れた。
「こんなもので隠すのが心底惜しい」
心からの賛辞にも、藤篠は応えなかった。
彼女と自分との間の空気は張り詰めていて、白倉は終焉を悟る。
藤篠にした総てを思い出せば、とても正気ではいられない。
幼稚で、一方的で、強引で、卑劣な自分を藤篠に見つめられることが耐えられない。
「それと、盗撮したテープを……返してくれるか」
「いやだと言ったらどうなります」
それでも、藤篠の口からその言葉を聞くのが寂しくて、意地悪を言った。
藤篠の決意は固いのだとその伸びた背中が伝えていて、自分と同じことを考えていたのかと、白倉は笑った。
彼女に渡すつもりで、自分もここに来たのだから。
「――そうですね。残念です」
白倉はああ本当にもう何もなくなってしまうのだ、と、思いながら、会長机へと足を進めた。
制服の内ポケットから小さな鍵を出すと、それを引き出しに差し込んで中からテープを取り出す。
「ダビングなどはしていません」
椅子に座ったまま手を伸ばして藤篠へと手渡すと、彼女はそれを強く、押し潰しでもしてしまいそうなほどに強く、握りこめた。
手の中のテープがまるで彼女の中の自分のようにも感じられて、白倉は静かに心を沈ませる。
「これで……おまえと私は対等だな?」
「何が、仰りたいんでしょう」
藤篠の言葉の意図がわからなくて、白倉は眉を顰めた。
もう、用事は済んだのではなかったのか。
自分がしたことの自覚が憂鬱に闇く圧し掛かって、白倉はもう、まっすぐに藤篠を見られない。
「……もう一度……」
声が震えていた。
震える声を聞けば、どれほど彼女を怯えさせたか痛いほどだ。
ただ澄まして藤篠の叱責を待っていた白倉の耳は、藤篠が続けた言葉を疑った。
「もう一度、初めからやり直すことはできない、か……?」
意味がわからなかった。
わからなくて、反芻する。
もういちど。はじめから。やりなおす。できないか。
いつから、なにを?
――――初めもなにも、あなたとの間には、やり直すべきものなど何ひとつないでしょう。
自分が一方的に彼女を傷つけ、蹂躙し、陵辱しただけだ。
ようやく白倉は、藤篠の心情を察知した。
初めて彼女を支配した日に言った、自分の言葉を思い出したからだ。
――――肉体に受けた快感は扁桃体から視床下部に伝わり、A-10神経細胞がドーパミンを受け止めて興奮する。……その興奮こそが、恋。
――――あなたは僕に恋をする、と、お姫様に呪いをかけた。
白倉は、苦笑した。思わず声が漏れ出した。
「藤篠先生らしい」
くつくつと肩を震わせるほどに、笑い声が漏れた。
藤篠の前に立ち、彼女の髪をそっと掴んだ。
「あなたはすっかり錯覚してくれた。僕が与えた快楽で、今や僕を愛しているかもしれないとさえ、思っている。違いますか?」
「違う!」
――――違わない。
「ならば、きちんと言ってください」
白倉は藤篠を見下ろしていた。心の中はひどく冴えて、寒々と冷たかった。
「私、は……」
「はい」
藤篠が自分を見上げた。これまでに見たどの彼女とも違う、切実な瞳が、そこにあった。
「私は、おまえを……好きなんだ」
――――せんせい、それはぼくがあたえたのろいです。みせているまほうです。
ずっと聞きたかった言葉のはずだった。それさえ聞けたなら彼女を何処まででも攫っていけると思い込んでいた。
彼女にその言葉を言わせたのは、自分だ。
実験だ、と、彼女に告げた。
どんな可能性でも縋りたかった。
けれどそれが結実したいま――――こんなにも悲しいのは、何故だろう。
「……好き?僕を?」
――――せんせい。せんせい。それはあなたののうがおこしたさっかくです。あなたにそれをいわせたのはぼくです。あなたはぼくをあいしてなどいない。だってそうでしょう、あいされるべきうつくしさなど、ぼくのどこにあります?
「あはははははは」
初めから何もかもが間違っていたのだと、先生ごめんなさい、赦してください、とは、もう白倉は言えなかった。
とてつもなく惨めで、どうしようもない自身への怒りが湧いた。それは笑いに変わった。
彼女の身体と心を蹂躙した自分は赦されてはならなくて、だから、罰を受けなければならない。
これは罰だ。
愛されたいときには憎まれて、嫌われようと思えば愛される。
どこまでも、自分と彼女の視線は繋がらない。
次の言葉を告げるのに、白倉は少し、呼吸を整えなければならなかった。
彼女にかけた呪いを解く時間が来たのだ、と。
混乱の表情をさせたお姫様は立ち尽くしていて、白倉は一人、そっと離れる。
「実験は成功、ですね」
「実、験……?」
用意してあった言葉は、台本を読み上げるようにスムーズに唇からこぼれて落ちた。
白倉は涼しい顔を作って椅子に戻ると、さっき鍵を開けた引き出しから、レポート用紙の束を取り出して机の上へと投げるようにして置く。
これは、武器だ。彼女を傷つけ、目を覚まさせるためのナイフだ。
「僕は卒業後、心理学と脳内神経学の研究へ進む予定です。その予行演習として、先生を対象に選ばせていただきました」
ゆっくりとした仕草で、白倉は机に肘をつき、手を組んで鼻先にあてた。
藤篠の表情が力を失っていく。瞳は凍りついていた。
白倉にとって最も難解な問題は藤篠の心だったので、そのレポートは間違いなく本物で、彼女への思いが、その道を選ばせた。
そして仮説でしかなかった空理空論の結末を彼女はいま、こうして見せてくれた。
それは真実に違いなかった。
「A-10神経系統と精神または身体快楽の作用性について」
それでも、違う。違うのだ。
そのために彼女が在ったのではなく――――彼女のために、それが有った。
けれどいま、白倉は、最初に彼女に告げた時とはまったく逆の目的で、同じ言葉を口にした。
「先生、おつきあいいただきありがとうございました」
わかっていながら、藤篠が傷つく言葉を、曲解される言葉を選んで、言った。
できうる限り傷ついてほしかった。
いつか彼女に思ったのとはまるきり違う感情で、心底そう思った。
打ちひしがれて、傷ついて、一刻も早く彼女のその魔法が、洗脳が解けるように、今度こそ本当に自分を嫌ってしまってほしかった。
それでも藤篠の沈んだ瞳を見れば、胸は重石を呑んだように痛むのだ。
抱きしめて、慰めて、撫でてやりたい気持ちを殺して、白倉は、微笑む。
「そんな顔、なさらないでください。……もしこれが実験ではなく真実、僕とあなたが思いを通じたとしてどうなるものでしょう。共に駆け落ちでも、心中でもしましょうか」
藤篠がようやく自分を向いた。
呆然とした目に射抜かれて、白倉はもう微笑うことしかできない。
――――実験ではなく真実、初めからあなたが僕を愛してくれたなら、何を殺すことも僕はきっと、いとわなかった。
「否、僕は白倉の家を、あなたは藤篠を棄てることなどできない。違いますか?」
――――あなたには、できない。
藤篠は答えなかった。感情のない目で自分を見たまま、唇が微かに開く。
白倉は、言葉を待った。
ようやくその黒い瞳にくっきりと自分が映る。ひどい顔をしていた。
「全部……嘘だったのか」
見開かれた瞳で、藤篠がぽつりと、言った。
静かな濃淡のない声だったから、それはいっそう、彼女の絶望を教えた。
「私を好きだと言ったのも、全部」
藤篠の声が掠れていた。泣き出しそうな声だった。
――――先生、僕はあなたを好きだと思わなかったことが、ありませんでしたよ。
そんな言葉をいま言えるはずもなく、白倉は静かに藤篠を見た。
嘘だと思ってくれれば、それでいい。
どうか失望して、嫌って、憎んでください。
そうして訪れたしばしの静寂を、スピーカーからのチャイムが破る。終幕を告げる鐘が響いた。
「ああ、12時だ……」
魔法がとける期限を告げる、鐘の音だった。
あの頃には、まほうのかばん、と輝かせることができた瞳を、いまこんなにも曇らせている。
もう笑えもしなかった。
しばらくの沈黙の後、藤篠がゆっくりと踵を返した。
おそらく二度とは振り返らない背中を、白倉は見つめた。
衝動的に突き上げる感情があって、彼女の肩を掴んで、引き戻したかった。
抱きしめたかった。
……壇上から、藤篠の涙を見た。
その涙が、白倉に真実、愛について教えた。
知ってしまったから、白倉は、藤篠を引きとめられなかった。
――――おひめさまのひとしずくのなみだが、のろわれたまほうをといたのです。
そうして呪いが解けて人間に戻れば、これまでに幾度、彼女を殺したかを理解した。
物語の中の、のろいがとけたまものは、それまでの罪に苛まれることはなかったのだろうか。
「お見合い、されるそうですね」
藤篠に触れることなく、背後から声をかけた白倉を、振り返って藤篠が見上げた。
泣き出しそうな、少女の顔をしていた。
だから、我慢ができなかった。
「私は……私はお前となら……っ」
最後まで言わせずに、扉に藤篠の身体を押しつけた。
どうしようもなかった。
どうしようもなく愛おしくて、白倉は藤篠の唇を貪った。
藤篠の唇が、舌が、あまりにもやわらかいから、彼女のためにならないと知っているのに、手放すことがこんなにも惜しい。
自分の愛は、結局どこまでも利己的で、どこまでも醜いのだ。
「先生」
そうして白倉は、押しつけていた背中の扉を開いて、 藤篠を解放した。
もうこの部屋で彼女と会うことは、二度とない。
「お幸せに」
扉がゆっくりと閉まって、藤篠の姿が吸い込まれるように、消えた。
握った拳を叩きつけることは、白倉にはできなかった。
18歳になった白倉の背に、夏が追いついていた。
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