呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  九.  
30度の傾斜角
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「では、各立候補者演説、並びに応援演説を……」
迎えた次期生徒会選挙当日、講堂の壇上にずらりと並んだ立候補者たちが緊張した面持ちでマイクへ進んでいくのを、壇上脇のカーテンのすみから白倉は見やった。
壇上とを結ぶ視線の間には、今日も藤篠の背中があった。
藤篠はひたむきな目をして、ある一点を見つめていた。
次期会長として最有力視されている黒崎行幸と、藤篠十巴が並んで座っている。
黒崎はさすが堂々としたもので落ち着いた瞳のまま腰掛けていたが、応援演説をするべき十巴
は普段の彼女に輪をかけてそわそわと浮き足立っていた。
破天荒だが実直で、素直に良い後輩であり……藤篠一乃の、妹。
時折、隣の黒崎が十巴を気遣うように、声をかけては二人微笑んだ。
彼らは恋人同士ではないことを白倉は知っていたが、黒崎のその気遣いがあまりに優しいものだったので、白倉は無言のままに黒崎の心を見たような気がした。
少年少女らしい、瑞々しい恋愛の姿がそこにはあって、白倉は目を細める。
そうして、藤篠の背中を見た。
――――自分たちの間には、何があっただろう。
できることなら、彼女とあんな風に優しく、微笑みを交わしてみたかった。
藤篠が笑いかけてくれたのはついこの間のこと。
『せいぜい魔王だろう』という皮肉のおまけつきだ。
それでもあの笑顔がどれほど嬉しかったか、藤篠に想像できるだろうか。
もう彼女を諦めるのだ、と、決めたのに、姿を見れば簡単にそんな決意は揺らいでしまう。
「そんなに心配ですか?」
ひたむきに黒崎と妹を見つめる藤篠の横顔がいじましくて、白倉は微笑んだ。
藤篠の肩がびくりと一度跳ねて、そうしてゆっくりと振り返る。
黒い瞳が自分を映した。
逸らされることは、もうなかった。
「黒崎くんなら何も問題ないでしょう。藤篠先生にそんなふうに気遣われるなんて……妬けてしまいます」
「ち、違……」
ただ静かに見つめて、見つめ返されることがこんなに嬉しくて、白倉は敢えて冗談を言った。
こんな軽い冗談にも、慌てて弁解する藤篠の実直さが愛らしかった。
見つめ返されていることが、嬉しかった。
だから、期待してしまう。
藤篠の肩に背後からそっと、手を乗せた。もう、振り払われない。
許されているのではないかと、錯覚してしまう。
「声を立てないで。ここは死角ですが、騒げば誰かに気づかれますよ」
声をひそめて、片手でステージと袖とを分けているカーテンを寄せた。
二人きりしかいない、講堂の生徒からも舞台上の生徒からも死角になっている薄暗い袖の、この場所を更に覆うように、ドレープのカーテンで自分と藤篠とを隠した。
「……っ!」
腕で、藤篠の腰を抱いて引き寄せた。
彼女のやわらかい胸が、自分の身体に押し当てられて沈む。どちらのものともわからない鼓動が震動する。
たまらなくなって、強く抱いた。額に唇を触れた。髪が頬をくすぐった。
これで真実、最後だと思えばなおさら愛おしかった。
「白、倉……」
「しっ、静かに」
こんなふうにうわずった藤篠の声を、白倉は聞いたことがなかった。
藤篠の言葉を遮って、唇の前で人差し指を立てる。
そのまま顎へ指を滑らせた。
振り払われない。藤篠が自分を見つめている。見つめている。見つめている。
最後に、一度だけ――――――――唇を。
白倉は震えながら、唇を重ねた。
その柔らかさを、どれほど願ったか知れない。
手を添えた、藤篠の背筋がびくりと伸びる。
拒絶を感じて、白倉は怯えた。
さっきまであった彼女の体温が遠ざかって、いつかの朝のように、目前に藤篠の双眸があった。
熱を帯びた視線が融けるような色をして自分を見ていた。
それを遮るガラスが邪魔で、白倉は藤篠の眼鏡を取り上げる。
抵抗は、ない。
半開きの唇から誘うような吐息が漏れて、白倉は悲しくて、もう笑うしかない。
「大好きです」
口を突いて出た言葉に朱のさす頬が愛おしくて、開きかけた唇を再び塞いだ。
一度きり触れたら、それで終わらせるのだと決めていたのに、その唇が甘いから、求める気持ちを止めることができない。
触れた舌の先端から、痺れるような感覚が白倉を酔わせる。
「……っは、……」
どちらのものともわからない声が漏れた。
抱きしめている彼女の身体が硬直しているのは、緊張からだと白倉は思い込みたかった。
耳の奥には、舞台上で演説する生徒の声。
講堂には全学年生徒と、教師達が集まっている。
その彼らの視線が向けられているであろう舞台のこの片隅で、教師を抱きしめ、唇を奪わっている、生徒の自分。
白倉には、何もかもがもうどうでも良かった。
彼女がいずれ次兄のものになるであろうことも、自分を覚えていてはくれなかったことも、見つめ続けた視線を逸らされ続けたことも、愛されたいと願ったことも、憎まれたいと恨んだことも。
自分の舌に、彼女の甘い舌が応えている。
――――もう彼女を失ってもいい、この瞬間があればいい。厭だ失いたくない、いつまでもこうしていたい。
目眩の中で、白倉は逡巡する。
「……っ、はぁ……」
苦しそうに藤篠が喘いだので、白倉はその腕を離した。
赤いビロードの幕が、するりと元の位置へと戻ってゆく。
幕は放たれて、自分たちをもう隠してはくれない。
――――お姫様のキスで、魔法は解ける。教師と、生徒に戻る時間が来たのだ。
壇上が、自分を待っていた。
「それでは、現生徒会の白倉邑生会長から……」
舞台袖を抜け、壇上へ向かう途中で、白倉は藤篠の眼鏡をかけた。
思っていたよりもずっと度数の低いそのガラスから見えるのは、彼女の世界だ。
眼鏡をかけた自分の姿を認めて、向かい合った眼下の生徒たちが、ざわめくのがわかる。
この眼鏡が藤篠のものだと気づかれただろうか?――――知るものか。
「現会長の白倉です。この鷺ノ宮学園の生徒会長として三年の任期を……」
自分にとっては最後の舞台だった。
会長の任期を終え、もう生徒会長室に行くこともなくなる。
藤篠との思い出が浸み込んだ机にはおそらく、黒崎が据えられることだろう。
――――これでもう、自分には何もなくなる。
眼下には、鷺ノ宮の全生徒の千の目があった。
12歳から18歳まで、体躯も表情も幅広く、ひとつとして同じ顔はない。
その中に、13歳の少年だった自分の面影を見る。
突然、後方で椅子が倒れる音がした。
背後を藤篠十巴が駆け抜けていった。
講堂がざわめく。白倉もまた言葉を止めて、その背を追った。
彼女が駆け寄った先、壇上からしか見えない舞台袖に、藤篠が床にしゃがんでいた。
何を話しているかは、聞こえない。
だが、藤篠が――――泣いているのだということだけは、理解できた。
彼女の涙を見るのは初めてのことで、白倉は、時が止まったような感覚さえ覚えた。
藤篠が泣いている。
床にしゃがみこんで、少女のように泣いている。
それは落雷のような衝撃で、これまで感じてきた優越感と隣り合わせの憐憫の情とはまるきり違っていた。
すまない――――と、初めて、本当にこのとき初めて、白倉は思った。
お姫様のキスでその涙で、白倉にかかった魔法はすっかりと、解けて消えた。
そうして気づいてしまえば、自己への嫌悪で肌が粟立った。
どれほど非道い行為をしても涙ひとつ見せなかった気丈な彼女が好きだった。
だから本当はどこかで、自分は彼女に赦されているのだと錯覚していた。
――――赦されないことをしたのだと、悟った。
くちづけのことだけではない。初めから終わりまで、彼女にした総てが間違っていたのだと。
白倉は、自分の足元が翳るのを見た。
円く切り込みが入った舞台中央、白倉が立つその場所は、板一枚を隔てて、奈落と呼ばれる床下へ繋がっている。
おあつらえ向きだ、と白倉は一度、苦笑した。
白倉は、藤篠の眼鏡を外し、胸へとしまうと、笑顔を作って、講堂を向いた。
まだ、果たすべき義務があった。
瞬間だけ重なって、すぐに遠ざかる。
――――僕とあなたとは、ずっとそうでしたね、先生。
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