呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  七.  
30度の傾斜角
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それから数日、白倉は、待っていた。
快楽は与えたはずだ。彼女の心に自分は突き刺さり、おそらく塞げない穴を残したはずだ。
肉欲でもいい、憎悪でももういい。藤篠が自分を見、声をかけてくる時をただ、待った。
――――来ない日を、ただ待った。
だが、と言うべきか、やはり、と言うべきか。……藤篠が声をかけてくることは、なかった。
そればかりか、 白倉の影を感じては、逃げる背中を見るばかりの数日。
――――ああ、今度こそ本当に、本当に嫌われてしまった。
もう教師と生徒として、取り繕ってさえもらえない。
おかしくて、笑った。
いっそ憎まれてしまえば楽になれると思ったのに、喉に詰まる石は重くなるばかりだ。
実験など、理論など幻だ。愛してなどもらえないではないか。
どうしたらよかった? どうしたらよかった? どうしたらよかった?
「……先生、教えてください」
声は余りに小さくて、廊下の雑踏に掻き消され、誰の耳にも届かない。
結局いつまでも、白倉は藤篠の背中ばかりを追っている。


その白倉の背中を、夏は、ついに掴んで引き寄せると、耳元で囁いた。
ゲームオーバーだ、と。


「お受けしようと、思うんです」
その一言で、口の中に含んでいた夕食の残骸は砂に変化してしまった。
久方ぶりに家へと戻ってきた次兄は少しやつれて、研究がうまくいっていないのだということをその表情から悟る。
めずらしく全員が席を同じくした食卓で、家長席に座った父が微かに眉を上げて、そしてああ、と、次兄の言葉の意味を理解したようだった。
本気か、と、長兄がまた、嘲りの下卑た笑顔をさせる。
「お前も物好きだよなあ、あんな扱いづらそうなブ……」
隣に座った長兄がそれを言い終わるか終わらないかのうちに、白倉の手が振り上げられる。
長兄の耳元を拳がかすった。風の音が鳴った。
「お……うみ……?」
顔のすぐ横を拳が通り過ぎたことに身体を硬直させた長兄だけではない、次兄も、父も、そしていつもは無反応な末兄さえも硬直して、自分を見ていた。
「ああ、失礼しました。……蠅が」
白倉は、ゆっくりと筋肉を笑みの形に動かす。
「五月蠅かったものですから」
にっこりと微笑んで、そう言って広げた手のひらには、黒くぽつりと、潰されたばかりの蠅の死骸がついていた。
しばらくの緊迫した空気の後、咳払いをして、言葉を続けたのは次兄からだった。
「夏までに、と言ってましたからね。結局これといった成果も上げられなかったことだし。結婚でもして、父さんの駒に加わりますよ」
箸を握る指が白くなった。
彼の言葉に対する苛立ちと同時に、高揚するような可笑しさを白倉は味わった。
――――じろうにいさん。あなたがむかえるそのはなよめは、もう。
暴いて、見せつけてやりたかった。
藤篠の喘ぎを、艶かしく揺れる白い胸を、濡れた肉を、自分だけが既に、知っている。
既に弟の手が触れた彼女の肌を、彼は何も知らないまま舐るのか。
藤篠は、どんな顔をしてそれを受け入――――――――厭だ。
コツン、と、手の端にあたったグラスが倒れて、テーブルクロスの上を水が放射状に滑っていく。
「ああ、すみません」
家政婦に手渡された布巾で、散った水滴を払った。
――――厭だ。嫌だ否だいやだ。耐えられない。
ぼんやりとした、輪郭を持たなかったはずの次兄と藤篠との縁談が、ついにくっきりと形を得て存在したことが、こんなにも自分を動揺させるのだと、白倉は予想していなかった。
よろめくように立ち上がると、体調が悪い、と言い残して一礼した。
あの冬、初めて縁談を耳にしたときと同じように、廊下はぐにゃりと歪んで見えた。
足早に自室に戻り、ベッドの上に腰掛ける。
藤篠はこの縁談を受けるのだろうか。
父親にどこまでも従順らしい彼女のことだ、白倉の家との縁戚を望む父親の意向に反するとは思えなかった。
縁談の相手が、自分の兄だと知っても――――彼女はきっと、受け入れる。
あるべき道理の前に、彼女はどこまでも自己を殺せる人間だと、白倉は既に理解している。
あの五年前の記憶だけではなく、その強靭さをいまや愛している。
自分に蹂躙されてなお、平然とした教師の顔をして自分の前に立ち続けることのできる彼女の凛とした背中を、白倉は愛している。
コンナニ淫蕩ナ女ナンデスヨ、ヤメテオイタ方ガイイデスヨ兄サン。
そんなふうに彼女を他者の前で貶めることなど、できるはずがない。 彼女を愛しているからだ。
結局、なにも変わらない。
愛していると伝えた。彼女の肌に触れた。けれど、何にもならない。
また、藤篠だけが自分にこんなにも無力さを教える。
あんな理論など、実験など、なんの成果もないではないか。
藤篠が、自分を愛する日は、まだ来ない。
落とした暗い視線の先に、立てかけてあった鞄が映った。
引き寄せて、胸ポケットの生徒手帳に挟んであった鍵を取り出すと、底をまさぐる。
アタッシュケースにも似た学生鞄の底には小さな鍵穴があり、くるりと回せば二重に仕込まれた蓋が開いた。
入っていたのは、あの藤篠の映像のマスターテープと、一台の携帯電話だった。
欲しかったものは、何だろう。
ただ、藤篠に笑いかけてほしかった。それだけでは、なかったか。





生徒会定例会議の席上で、数日ぶりに顔を合わせた藤篠は、自分を見て瞬間、ぎくりと身体をこわばらせた。
白倉はそれを視界の隅で確認し、けれど、藤篠を見なかった。
これまでずっとそうしてきたように、無理を押して、笑いかけることももうやめた。
――――彼女の元には、まもなく次兄との縁談の話が来るだろう。
白倉にはもう、何もできない。そう思えば、彼女を見ることができなくなっていた。
数日後に控えた、新生徒会選挙に向けての段取りを簡潔に打ち合わせると、役員たちは皆、分担された自分の仕事に従って席を立っていった。
ぽつりと、藤篠だけが所存なさげに残されていた。
白倉は立ち上がり、藤篠の隣へと立つ。
「もう、先生は職員室に戻ってくださって結構ですよ」
そう声をかければ、条件反射で藤篠の身体がびくりと震えた。
自分を見上げているのがわかったから、視線を合わせることのないまま微笑んだ。
会議室と会長室とはドア一枚で繋がっていて、白倉はそのまま藤篠を一瞥もせず、会長室へと向かう。
背中に藤篠の視線を感じていた。
「白倉」
声をかけられて、振り向いた。
藤篠が自分を見上げている。名前を呼びとめた。
たったそれだけのことが、まだこんなにも嬉しい。
――――ああ、どうしようもなく好きだ、と、白倉は思う。
「なんです?」
だから、目を合わせなかった。
視界の隅で、怪訝な表情をした藤篠が二度、口を開いては閉じる。
……その戸惑いが、愛おしかった。
「い、いや……なんでもない」
言葉を続けることなく、藤篠が俯く。
彼女の戸惑いが、手に取るようにわかった。
二日続けて、あんなにも変質的な行為をしておきながら、それきり放置される。目を合わせることもない。好きだと言っておきながら、まるで興味を失ったようなこの態度。
混乱は、当然だった。
その混乱が、嬉しかった。
白倉は噛み締めるように沈黙した後、窓の外を見やった。春の名残りは、もうどこにもなかった。
「――この選挙が終われば」
流した視線を、藤篠へと戻す。藤篠もまた、白倉を見ていた。
目が、逸らされることはなかった。
ようやく、と思えばことさら悲しい。
「もう、先生と授業以外で関わりを持つこともできなくなりますね。残念です」
声に出せば、それはあまりに寂しく響いた。
白倉は丁寧に一礼して、会長室のドアを後ろ手で閉める。
そしてようやく、深く息を吐き出した。
自分の中の、藤篠に対する黒い感情が浄化されていることに、白倉は気づいていた。
数日をおいて、藤篠と顔を合わせる時間がなかったせいだろうか。
それとも、ずっと押し込めてきた感情を彼女に向かって放出する機会を得たからだろうか。
次兄との縁談が確定的なものになったせいだろうか。
――――違う。藤篠が、自分を見つめていたからだ。
たったそれだけのことが嬉しくて、彼女に向いていたあの苛まれるような怒りが、憎悪が融けて消えていた。
その空いた隙間に、彼女の喘ぎが、 熱が、ぬめりが、見上げる瞳が流れ込んで埋まる。
埋まれば、愛しくて息ができなかった。
ポケットの中に手を差し込むと、一台の携帯電話が触れた。
役割をずっと待っていたそれを、白倉は握り締めた。
まだ、片付けなくてはならないことが残されていた。幕はこの手で引かなければならない。
春はもう終わった。そして二度とは来ない。
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