呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  四.  
30度の傾斜角
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藤篠に思い出してもらえる機会はないままに、陽射しは夏の色を濃くしていた。
藤篠とは、授業、生徒会共に顔を合わせる頻度は少なくはなかったものの、自分への態度が変わることはなかった。
藤篠が藤野であったことに気づいた生徒は白倉の他にもいたようだったが、現在の彼女の授業や態度は失望を呼び、駆け寄っていく生徒の姿は見受けられなかった。
厳しすぎる態度は次第に、藤篠への侮蔑や謗りの声へと変化していった。
擦れ違い様、あからさまに「ブス!」と声を上げる生徒もいた。
藤篠は、顔色ひとつ変えず、また、うつむくこともしなかった。
毅然と背を伸ばしたまま、
「……それで?」
と相手を向き直る姿に非難は更に強くなっていった。
廊下で、教室で、生徒会室で。
白倉が笑顔で向ける挨拶にも、視線が返されることはなく、ポケットの中にしまったままのハンカチは、いつかと同じように渡す機会を失して、握り締めるばかりだった。



やがて、次期の部活動予算案の承認を得るために、藤篠とふたりきりになる機会を得た。
白倉は、秘かに緊張していた。
訝しまれてはならない。ごく自然に、あれを差し出さなければならない。
あの、と、声をあげようとしたとき、不意に窓の外から大声があがる。
顔を上げたのは、同時。席を立って、窓際へ向かった白倉に遅れて、藤篠が続いた。
眼下に見えるグラウンドで、歓声があがっている。
行われていた地域予選試合に勝利したらしいサッカー部の面々が、誇らしげな顔で笑いあっていた。
「これは、次期のサッカー部の予算を上げなければなりませんね」
そう言って、白倉は藤篠を振り返った。
振り返って、どきりとした。
「ああ」
と言って、藤篠は微かに笑った。
自分に対し――正確には白倉に対してではなかったものの――それでも、数年ぶりに白倉が見る、ずっと見たかった彼女の笑顔だった。
夕陽に透ける彼女の黒い髪が眩しかった。
ポケットの中のハンカチを思い出す。
――――いまなら。あの日と同じ夕陽の中でなら。もしかしたなら。
「……藤篠先生、そういえば」
唐突な白倉の声に、藤篠が振り向いた。
瞬きほどの瞬間目が合って……そしてすぐに逸らされる。いつものことだ。
慣れていても、胸がじくりと痛んだ。
だから、次の言葉へ繋げるのに、勇気を出さなければならなかった。
「これは……先生の持ち物では、ないですか?」
自然に聞こえただろうか。
まっすぐに藤篠へと向けた視線は、祈りだった。
――――憶えていてほしい。思い出してほしい。
喉が渇いていた。
言葉を待った。聞きたい言葉があった。かけてほしい言葉があった。
このハンカチはあの時の。白倉くんだったのね。懐かしい。あの朝はありがとう。
礼を言われたいわけでは決してない。
昔話をしたいわけでもない。
憶えていてほしかった。それだけでよかった。
だが――――差し出された水色のそれを一瞥した藤篠が、表情を変えることは、
…………なかった。
受け取って、そこに記された刺繍を確認する。
「確かに。ありがとう」
小さな会釈。
そして藤篠は窓際を離れようと、踵を返す。
これは、だとか、どこで、だとか、そんな言葉すら、なかった。
おそらく彼女の持つハンカチには同じ刺繍を施したものがあり、もしかしたなら水色のハンカチも数枚、所持しているのかもしれない。しれないじゃないか。
「あのっ!」
引き止める気持ちが、声をついて出た。
窓から差し込む夕陽が赤かったから、まだ、諦められなかった。

――――白倉です。四年前、一緒にアメイジング・グレイスをふたりきりで練習した白倉です。初夏でした。先生の前で泣いた白倉です。あのとき、誰にも話していなかった気持ちをさみしいと、そうさみしいと言ってくれた。僕はずっと、覚えていたんです。忘れられなかったんです。気持ちに寄り添ってもらえたのは初めてで、だからずっと、本当はずっと、忘れられませんでした。憶えていました。母と同じ瞳の色を褒めてもらえて、すごく、すごく嬉しかったんです。誇らしかったんです。あのガムテープを貼ったスカートはもう捨ててしまったんですか?あのとき見せてくれた笑顔が、本当の先生ではないんですか?ずっと僕こそが御礼を伝えたかったのに、どうすることもできなかった自分が悲しくて、笑いかけてももらえない自分が悔しくて、だから頑張ることができたんです。藤野先生、先生、せんせい。憶えていませんか?忘れてしまったんですか?先生にとって僕は受け持った数十人、数百人のうちの一人だとしても、僕にとってはたった一人でした。13歳の夏でした。背は伸びて、声も変わって、瞳の色も暗く濁ってしまったから気づいてもらえなかったかもしれませんが、白倉です。先生。藤野先生。

胸の中に押し込めた気持ちが暴れだしそうで、そう叫んでしまいたい気持ちを宥めるのに、白倉は拳を固く、握り締めなければならなかった。
藤篠は、呼び止めた白倉を怪訝そうに見ていた。
瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
黒い双眸のその色は、白倉を絶望させるのには、十分だった。
「い、いえ……。すみません」
首を振って、再び、眼下のグラウンドへと視線を落とした。
17歳になっていた白倉が、涙することはなかった。
ただ、透き通った水の中にぽつりと、黒のインクを落としたように、黒い感情が波紋を呼んで、水全体を濁らせていく。
その黒は、藤篠のさっきの瞳の色だった。
白倉は席へと戻ることができなかった。
窓ガラスに押し当てた手が暖かく感じるのは、自分の手のひらが冷えているからだ。
そのまま拳で、叩き割ってしまいたい衝動に駆られた。
ガラスに押し当てたまま、握り締めた拳は、色を失って白くなっていた。
下校時刻になってもまだ落ちずにそこにある夕陽が、春の終焉を告げていた。

白倉は、初めて恋を、知った。
17歳の、夏だった。







あのハンカチを失くして初めて、あの日の記憶が無意識下で自分を美しく優しく、支えてくれていたのだと、白倉は知った。
授業で、廊下で、生徒会室で。
顔を合わせる度に、白倉はいつもと変わらない笑顔で微笑みかけた。
藤篠はいつもと変わらない眉根に皺を寄せた表情で、それを拒んだ。
見つめ続けて、逸らされ続けた。
だから笑顔のままで、白倉は存分に傷つき続けることができた。
やがて藤篠と顔を合わせるたびに、肩を掴んで壁に叩きつけてしまいたいどす黒い感情が、沸くようになっていった。
じくじくと、湧く。ふつふつと、沸く。
怒りのような、憎悪のような、黒い、黒い感情だった。
ゆるやかにゆるやかに、心に空いた虚に、水を多く含んだ泥が満ちていくように、白倉の中に残酷な感情が沈殿していった。
季節は冬になっていた。
忘れてしまえ、もうどうだっていいではないか、あんな女。
夜毎に囁く声がする。
それでも翌朝、姿を見れば目は勝手に彼女を追っていく。
彼女が褒めてくれた瞳が彼女を勝手に追っていく。
美しい女ではない。
どうして固執する必要がある?
何度自問しても、答えは出ない。
それでも白倉の中で、藤篠は美しかった。
どうしようもなく美しく、恨めば恨むほどに彼女だけが灰色の世界で光輝いて見えるほどに、美しくなっていく。
幾たび瞳に彼女を映しても、彼女は振り返らない。自分を見ない。
どれほど優秀であろうと、どれほど容姿が優れていようと、学園中の女子生徒が自分に恋焦がれようと、夏が終わって秋が来ても、ついには冬が近づいても、藤篠一乃だけは、白倉を見なかった。




「……会長?」
並んで歩いていた黒崎行幸(くろさき みゆき)の声で、白倉ははっと視線を彼へと戻す。
自分より少し背の高い彼を僅かに見上げれば、黒崎は、さっきまでの白倉の視線を追って、中庭を挟んで並ぶ渡り廊下を向いていた。
「藤篠先生、ですか?」
白倉が見ていたものを追って、黒崎がその名を呼んだ。
「そういえば、黒崎くんは藤篠先生と幼なじみ、だったね?」
彼の問いかけを受け流して、自然と質問を重ねる。
黒崎と藤篠とが隣家であり、さらには藤篠一乃の妹、十巴(ともえ)と恋人同士でもあるという噂(実際に噂にすぎないようであったが)は、学園内の誰もが知る周知の事柄であった。
同時に、藤篠一乃が、十巴、百花(ももか)といった妹たち、そしてこの黒崎行幸に接するときだけは、その厳格な教師の顔を僅かに緩ませることも既に知られていて、ゆえに、それはある種の学園名物のようにも、なり始めていた。
――――決して自分には笑いかけない、彼女の笑顔が。
「そうですね。幼なじみというよりは、姉のようでしたが。よく叱られました」
自分とはまた違った種類の整った顔立ちが、苦笑の形にきれいに歪む。
「やっぱり、昔から厳しかったのかな」
白倉もあわせて笑った。
藤篠の授業や態度がとりわけ厳格であることもまた、もはや鷺ノ宮名物のひとつとなっている。
黒崎は記憶を辿るように視線をちらりと上空に向けて、少し、首を傾げてみせた。
「本当は……本当に優しい人なんですよ。とにかく一生懸命で。人の期待を裏切れない」
薄く微笑んだ黒崎の言葉に、白倉もまた僅かに目を細める。
知っている、と、白倉は思った。
彼女の優しさを、白倉は知っている。憶えている。
「そうだね」
だから自然と、そんな言葉が口をついて出てしまった。
黒崎の瞳が、意外そうに見開かれる。
その黒崎の表情を見て、白倉はふと、彼を利用することを思いつく。
「あの環境では……ご苦労、されたようだね。お父様も随分厳しい方だし」
実際のところ、藤篠一乃のプロフィール以上の詳しいところまで、白倉は知らなかった。
だから 調査では知ることができない彼女を知りたくて、ブラフをかけた。
白倉は黒崎という人間をよくわかっていた。決して口が軽い人間ではない。頭の回転も速い。
その彼と自分が決定的に違うのは、彼が実直な好青年である、というところだった。
だから白倉の言葉を受けて、黒崎は、白倉の狙ったとおりの表情を、回答を返してくれた。
知っていたんですか、と。
けれど、次に黒崎が言った言葉は、白倉の想定にはないものだった。
「早くにお母さんを亡くされていますから、余計に、でしょうね」
白倉は僅かに目を見開く。気取られる前に目を細めて、そうだね、と繰り返した。
そうして、緩やかに理解する。
あの音楽室で、藤野が……藤篠が言った言葉の真意を。
――――さみしいね、と、言ってくれた。あれは、彼女の中にもある孤独だった。
あの日、彼女と自分とは、確かに同じ孤独をわかちあえていたのだと。
けれど、ならば、どうして?
どうして、自分は忘れられて、そして視線すら逸らされるほどに嫌われ、避けられている?
生徒会室に資料を運び終えて、黒崎が退出すると、白倉は一人、窓際へと立った。
ハンカチを返した日のあの横顔を昨日のことのように思い出せるのに、何ひとつ変わらない日常が自分と彼女を押し流していく。
なにもできない。
13歳だった自分と、何が違うというのだろう。……無力であることに、何の違いもない。
幾たび、心を折ったか知れない。
彼女を見つめ微笑みかけたときに湧く白く清廉な愛おしさと、その視線を逸らされ眉を顰められたときに沸く黒い醜悪な劣情とが混沌として、白倉の中は、もう随分と、濁ってしまっている。
一度濁ってしまえば、もとの澄んだ水に戻すことはできそうになかった。




その日の家の玄関扉は、いつにも増して重かった。
「ただいま帰りました」
おかえり、と返す暖かい声など一度も聞いたことがないので、単なる儀式でしかない言葉を告げて、正面の階段を上がる。
自室へと伸びる長い絨毯敷きの廊下、階段を上がってすぐ右手にある応接間の扉は開いたままで、めずらしく、父と長兄、次兄の姿を目にとめた。
本当ならば、すぐにでも部屋にこもり、誰とも口などききたくはない。
だが、父と視線を合わせてしまっては、そうもいかなかった。
開いている扉の中に一歩、足を踏み入れて、一礼する。
「ああ、邑生(おうみ)」
父が手招きをして、ようやく白倉は部屋の中に入ることを許された。
父の正面のソファーには、穏やかな笑顔を浮かべた次兄、その向こう側にはウイスキーグラスを片手に相変わらずの不遜な目をした長兄が立っていた。
父と次兄を隔ててあるテーブルの上には、ベージュ色をした冊子が置かれていた。
次兄が人の好い(あるいは臆病な)笑顔で、その冊子を取ると白倉へと差し出す。
「邑生は、この人は知っているかい?」
眼鏡の向こうで細い目が笑う。
差し出されたその冊子を受け取り、開くと―――― 一番見たくなかった姿がそこにあった。
綸子の紺色の振袖を着て、結い上げた髪に、いつもとは少し違う化粧した顔でこちらをまっすぐに見る、仏頂面の、地味な女。
不整脈のように心音が乱れて、白倉は思わず、目を見開いた。
「鷺ノ宮の教師をしているそうだ。生徒会顧問もされているそうだから、知っているだろう?」
父親の声が片耳からもう片方へと、風が抜けるように通りぬけていく。
どうして彼女の写真がここに、など、問わなくてももうわかっている。
だからいっそう、動揺を隠すことができずに、冊子を持つ指は小刻みに震えた。
「やはりね、お父さん。邑生もよく知る人を妻にする、というのは……ちょっと」
つま。
つまとは、どういうじをかくのですか?
「はっきり言えばいいじゃねえか。こんな地味な女いやだ、って」
そうですね、ぼくとしてもあまりおすすめしません、たいちにいさん。
がっこうでもあまりにんきもないですし、ぷらいどもたかくあつかいづらいようにおもえます。
「失礼だよ、兄さん。きれいな人じゃないか」
そう、きれいなひとなんですよ、じろうにいさん。
みんなきづいていないだけで、きっとほんにんもきづいていないだけで、ほんとうはきれいなひとなんです。
わらうともっときれいなんですよ。あなたはしらないでしょう。
ぼくがどれだけかのじょにわらいかけてもらえることをねがっているかあなたはしらないでしょうそらされるしせんをおってまいにちまいにちかのじょをみつめているかしらないでしょうわらいかければまゆをひそめられていることをそのたびにいくどこころがおれていることをきずついていることをなにもしらないでしょうしゃしんとしんじょうしょでしかかのじょをしらないいましったばかりでしょうそれなのになぜあなたはつまにするかのうせいをうることができたのでしょうかいずれかのじょにくちづけてくみしいてはだにふれからだにゆびをしずめてあなたのたいじゅうがのることでかのじょはあえぐんでしょうかだれにもみせないかおをあなただけがしるんですかどうしてそのけんりがなんのちからをつくすこともしていないあなたに?
「……うみ、邑生?」
声をかけられて、はっと顔を上げた。
貧血を起こしたときのように狭窄していた視界が、瞬時に広がる。
そうして映った視界の父と兄たちの表情が、自分がいまどんな顔をしているかを無言のままに、教えてくれた。
掴んだままだった藤篠の写真は、指の形に皺を作ってしまっていた。
「あ――――ああ、すみません。とても……驚いたので」
「そうだろうね。邑生にとっては先生だもの」
次兄が手を伸ばして、自分の手の中から藤篠の写真を奪っていった。奪っていった。
「ええ。良い先生ですよ。厳格ですが、真面目で教育には真摯です。女性としては……僕にわかる範疇では、ないですが」
そう言って、微笑みをつけ加えることも忘れなかった。
つられて笑った父と次兄を見ながら、心臓は早鐘で、吐き気を呼ぶ。
「まあ、もう少し時間をください。いまは研究もあるんで、夏まではとても考えられそうにないですし。急ぎの話でもないんでしょう?」
「そうだな。あちらにはそう伝えておく」
父親に続き、次兄も席を立ったので、白倉もまた、一礼して廊下へと戻る。
赤絨毯の敷かれている廊下はいつもより暗い。
ぐにゃりとたゆんで、生き物の腸の中にでもいる気分だ。
壁に手を添えて、それでも足早に自室へと入ると、扉を閉めた。
――――夏までは。
商才も覇気もないことを早くに見切られて、大学で微生物と日々顔を突き合わせている次兄は、研究が忙しい時期に入ると、この家には帰ってはこない。
どちらかといえば内向的で一人を好み、気弱で臆病でうすっぺらな優しさを持ち、争うことを嫌う善良な次兄と、院に進んでまで考古学研究を続けていた真面目一本気な藤篠とは、おそらく気が合うのだろう。
並べてみれば、実に凡庸で平坦で、なんてお似合いの夫婦。
――――夏までは。
次兄は、夏まではこの家に戻らない。
夏までは、縁談が進むことはない。
兄……"白倉家"との縁談がある限り、他の縁談が舞い込むとは考えにくい。
彼女が自発的に恋人を持つとも想像し難い。
つまり、夏までは、藤篠は誰のものにもならない、ということ。
――――夏までに。
ならば、夏までに、彼女が誰かのものになってしまったら?
それでも、つまとやらにするんですか、にいさん。
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