呉ノ朱

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  30度の傾斜角
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30度の傾斜角
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――――四年が経って、白倉は17歳になっていた。


あの日の白倉が思った通り、彼女のことを思い出すことは次第に少なくなくなっていた。
テレビで、街角で、不意にあの曲を耳にするたびに蘇る記憶はあったものの、敢えて反芻するようなことはなくなっていた。
ハンカチは、箪笥の奥にしまわれたまま、目にする機会ももう、ない。
高校2年、鷺ノ宮学園では5学年生。
昨年就任した生徒会会長の責務と、会長就任と引き換えに任されることができた父親のグループ企業の経営補佐で毎日は忙殺され、過去を懐かしむことなどできなかった。
背は伸び、声は低くなった。彼女が褒めてくれた瞳の色は、年月の経過とともに随分と濃くなって、いまとなっては陽の下で余程注目しない限りはわからない。
もう、アメイジング・グレイスをあのボーイソプラノで歌うこともできない。
どこか道ですれ違っても、自分も、そして彼女も、きっと気づかないまま通り過ぎる。
……いつかのように、彼女がスカートを破いて、しゃがみこんでもいない限り。
季節は、あの日と同じ、逝き過ぎる春を迎えていた。





「今日から日本史を担当する、藤篠一乃です」
新たに赴任してきた教師を淡々と迎えた教室の中で、ひとり、白倉だけが30度の傾斜角に刮目していた。
ふじしの、いちの。
四年前から抜け出したような彼女が、そこに立っていたからだ。
藤野、ではなかったのか。……結婚でも、したのだろうか。
時間の流れが彼女から失わせたのは、名前だけではなかった。
表情はより強張って、態度はより厳格に、より頑なに変わっていた。
何が起こったのか、白倉にはわからなかった。
ひとつに結んだ黒い髪、フレームレスの眼鏡、ブラウス、黒いタイトスカート。
四年の時間の経過を経て、肉付きが少し変わっていても、変わらない日本人形のような、すっきりとした顔立ちに、長身の伸びた背中。
眉根には常に皺が寄せられていて、乏しかった表情の変化をいっそう貧しいものにしている。
6月という、こんな中途半端な時期に赴任してくることも違和感があった。
――――ただひとつ、あの美しい礼だけが、時間を留めてそこにあった。



四年の月日は、白倉をも平等に、変化させていた。
生徒会室で、入手した藤篠の資料に目を通す。
藤篠、という名前で、彼女の出自は既に知れていた。理事の一人と同じ姓を持つからだ。
大学は、鷺ノ宮学院大学。史学部で、考古学専攻。成績は至って優秀。
一年目で院を辞め、系列の高校教諭になっている。
結婚暦は、なし。
なるほど、と、彼女の姓の変化について、白倉は納得した。
正式に教師になったいまならともかく、教育実習生だった四年前の彼女が、理事の関係者だとわからないようにするための策だったのだろう。
――――院にまで進むほどだ、よほど研究熱心だったに違いない。
それが一年で辞め、教師になった。
系列校への赴任は、この鷺ノ宮へ赴任させるための緩衝材だったのか。
白倉は、理事の藤篠という男を知っている。
同じく理事の一人である父と懇意にしていたし、家で何度か言葉を交わしたこともあった。
あの彼ならば、娘を自分の道具として使うことも、厭わないだろう。
それで彼女は腐ったのだろうか。
もしかしたなら、前任の高校で彼女を失望させる何かがあったのかもしれない。
単なる時間の経過による変化なのかもしれない。
それはもう、白倉が調べられる領域ではなかった。
人は、取り巻く環境で簡単にその本質を歪めてしまう。良い方向にも、悪い方向にも。
白倉が、もう四年前の白倉ではいられなかったように、藤野……藤篠もまた、そうだったのだろう。
同情心は、なかった。
ただ、一抹の寂しさが胸にあった。
感傷を止めたのは、ノックの音だった。
続いて生徒会室に訪れた人は、いま手元の資料にプリントされた顔写真そのままの、藤篠の姿だった。
細い糸のような気持ちで、会いたいと願っていた人が、いまそこに立っていた。
「今日から、生徒会顧問を引き継ぐことになった藤篠です。君が……会長の白倉くん?」
「ええと」とは、もう彼女は言わなかった。
先程胸に生まれたさみしさが、じわりと大きく広がっていくのを、白倉は感じていた。
「白倉邑生(しらくら おうみ)、です。今日、先生の授業も受けました。良い授業でした」
本心からの言葉で、笑顔で差し出した手を、藤篠は握らなかった。
代わりによろしく頼む、と短く言って、一礼した。その傾斜角、30度。
視線が合っても、彼女が自分の名前と姿に表情を変えることはなく――――忘れられてしまったのだと、思い知らされる。
「先生は、鷺ノ宮のご出身ですか?」
「ああ」
「では教育実習も、鷺ノ宮に?」
素っ気のない返答にも怯まずに、笑顔を崩さないままで白倉は言った。
思い出してくれるだろうか。自分のことを。
名乗りをあげるのでは、意味がないのだ。
あの日の夕陽の音楽室を、アメイジング・グレイスが美しかったことを、憶えているのは、胸を震わせていたのは、自分だけではなかったのだと、彼女の唇から、証明してほしかった。
「そう。だからここのやり方は心得ている。君たちに干渉する気もない」
――――そんな言葉が、聞きたいんじゃない。
「君はひどく優秀なそうだから、何も心配していない。先生方も一同に君を褒めていたよ」
――――棘のある言葉。嫌われている?どうして。理由がない。
「……もう、行ってもいいだろうか?」
問いかけられた言葉で、暗い視界が広がった。
はっとして、慌てて笑顔を取り戻す。
「わざわざ、ありがとうございました。これから御指導、よろしくお願いします」
礼をして顔を上げれば、藤篠はもう教室を出て行く背中で……いつかの彼女を見送った日と重なった。
――――藤篠は、一度も視線を合わせようとも、しなかった。
どさりと、力無く椅子に腰掛ける。
藤篠の態度の意味がわからなくて、自分が滑稽で、白倉は一度、短く息を吐き出すようにして、笑った。
忘れられている、どころではない。
校内の、校外の誰からも、こんな態度を取られたことはなかった。兄二人を除いては。
取らせないよう、努力を重ねてきた。
そうして時折崩れそうになる心を支えるたび、あの見つめた瞳が、あの日の音楽室が蘇った。
きれいだ、と、さみしい、と、言ってくれた人が、確かにいたと。
それは白倉の中でとてもやわらかく、優しい記憶だった。
あの日の音楽室は、彼女にとっては取るに足らない出来事で……それとも夢だったのだろうか。


積み残した庶務をそのままに、白倉は家路へと急いだ。
あのハンカチは、どこにしまってあっただろう。
自分がそれをすぐには思い出せないように、もしかしたなら彼女もそうなのだろうか。
そう思えば、あの日の記憶を証明する忘れられたハンカチがひどくさみしく、哀れな存在に思えた。
普段は使用しない季節のものを入れたクローゼットの奥のケースの底に、ぽつりとそれはあった。
水色のなめらかな質感のハンカチは、しわくちゃになって、けれど刺繍だけはくっきりと、I.Fと、彼女のイニシャルを告げていた。
――――夢では、なかった。
思った瞬間に、安堵と、そして暗い感情が同時に訪れた。
失望と、悲しみと、怒りと、単語にできない感情がないまぜになって、白倉は強く、掌中のハンカチを
握り締めた。
―――― これを、渡したなら。
今日のあの時間だけで、総てを判断するつもりはなかった。
忘れているのなら、思い出してもらえるだろうか。
ああ、あのときの!と……あの朝の笑顔で、もう一度笑いかけてもらえるかもしれない。
母譲りの瞳をきれいだ、と、褒めてくれた人間は、結局、彼女の他にはいなかった。
思えばあの日から、あんなふうに心底澄んだ、感情を伝えるためだけの笑顔を誰からも向けられていなかったのだと、白倉は気づいていなかった。
気づきかけるたび、自分の根幹が、築いてきたものが、ひどく脆く、弱いものになる予感がして……感情を引き出すことを止めた。そういう訓練を重ねてきていた。
17歳、高校2年生になっていた。
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