呉ノ朱

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  30度の傾斜角
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30度の傾斜角
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その日の朝のホームルームで教壇に立った藤野のスカートに、まだガムテープとホッチキスの痕跡を見つけて、白倉は教室内で一人、吹き出しそうになる口元を必死にこらえた。
数人の女子生徒もまた気づいたようで、ひそやかにざわめき始める教室でも、藤野は顔色ひとつ変えることなく、短い朝の挨拶を終える。
次の授業の準備に廊下へと出た白倉は、はるか前方で、隣の教室から飛び出してきた年配の女性教師に連行される藤野の背中を見た。
「ぷ……っ……くくっ……」
堪えられなかった。
彼女はいったい、いつまであのスカートで過ごすつもりだったのだろう?
思わず一人、吹き出してしまった白倉に、隣のロッカーのクラスメイトが怪訝な顔を向ける。
「なに?なに?なんかおもしろいこと?」
「いや、思い出し笑い。昨日、兄さんがさ……」
顔色ひとつ変えずに、彼を満足させるような話をとっさに考え、笑顔をつくる。
藤野を見ていたのだと、なんとなく、気取られたくなかった。
兄さんがさ、なんて、家族団欒の話は創作もいいところだったけれど、友達とする他愛もない会話の中でくらい、自分を夢の世界に置いておきたいと思う程度には、白倉はまだ子供だった。



藤野に初めて会ったあの日、この学校は楽しい?と訊かれて、楽しい、と答えた言葉は真実だった。
朝の足取りは羽のようで、帰りの足取りは鉛のようだった。
毎日、迎えの車の後部座席に腰掛けた瞬間から、白倉は緊張と覚悟を強いられなければならなかった。
一年前までは顔も見たことがなかった人間を、どうして兄と呼んで慕えるだろう。
白倉自身、心底そう思っていたのだから、兄たちの反応も当然のことだった。
――――妾腹の、混血の、卑しい子供。
陰で噂されることに慣れてはいても、面と向かって堂々と罵倒されたのは初めてだったので、白倉はむしろ、引き取られた先の本家の異母兄に対して、好感さえ抱いた。
父親は、白倉の家に後妻として入ることはできなかった混血の母を愛し、負い目からか自分には甘い人だった。
それがいっそう、年の離れた兄たちの苛立ちを掻き立てることを知ったので、白倉はかえって存分に、父に甘えることを自分に許した。
幸いだったのは、屋敷には執事と家政婦数人、そして三人の兄と父親だけで、白倉にとっては、ひどく御しやすい環境であったということだった。
長兄は、20も年が離れた、粗野で愚鈍、おまけに不遜な男だった。熊のような、という表現すら、熊に失礼に思えたほどに。
次兄は、善良な人間だった。争いを疎んじ、長兄によって割れたガラスが入れられたコップの水を飲まされ血を吐き出した白倉を見て、ただ青ざめた顔をして席を立つような、善良な人間だった。
末兄は、白倉の存在自体をないものとして振舞った。"白倉"という貴族気質そのものを正統に受け継いだのは、誰よりもこの末兄なのかもしれなかった。
家は、三人のうちの誰かが継ぐのだろう。
既にそれぞれ、家に課せられた役割の一端を担い忙しくしているので、家で顔を合わせることもそう多いとは言い難かった。
それでもあの家の扉は重く、部屋の中は暗く、空気は淀んでいた。
だから余計に、今朝の藤野の笑顔がまとわりついて、離れない。

――――最後に、あんなふうに笑いかけられたのはいつだっただろう。

美しかった面影をすっかりとなくした母が、病床で見せた笑顔が浮かんで消える。消毒液の香りのする、あの笑顔ではない。
もっとずっと以前、自分が子供でいられた頃に、手のひらで頬を包まれて与えられたそれに、あの笑顔はよく、似ていた。





藤野が笑顔を見せたのはあれきりで、授業のさなかに瞳を輝かせることがあっても、目尻を下げる姿すら、口角をくい、と上げる姿すら、見かけることはなくなっていた。
だから、どうしても目で追ってしまっていた。
廊下ですれ違っても目が合うことはなく、彼女の世界に自分はきっと存在もしていない。
そんな思いにとらわれると、どこか不安で落ち着かない心地にとらわれた。
彼女の口からその後、スカートの話が出ることもなかった。

――――そうして過ぎた数日の帰りのホームルームで、担任がある提案を口にした。
「藤野先生が実習を終えられる日は、ちょうど校内合唱コンクールの日にあたります。そこで、藤野先生にはこれから、生徒たちの昼休みの合唱練習を指導していただきます」
ええー、だとか、めんどくさい、だとかいう小さな声が漏れることはあっても、明確な異論があがることはなかった。
これがもう少し年を重ねていたなら、個人の行動の権利を侵害するはどうだこうだという声もあったのかもしれなかったが、つい半年前まではランドセルを背負っていたクラスメイト達の頬はまだ桃色で、白目は青みがかるほどに、子供だった。

翌日の昼休みから、合唱の練習が開始された。
「村石さんと高木さんの声しか聞こえないので、二人はもう少し声量を抑えて。他の皆はもう少し腹筋に力を入れてください」
教壇にずらりと並んだ生徒を前に、藤野はタクトを持った手をす、と上げる。
背筋をぴんと伸ばした彼女は、上背があるだけにすらりとして、白倉はまた、藤野を美しいと、錯覚してしまいそうになった。
「では、はじめから」
机の上のCDプレーヤーのスイッチを押し、弧を描くタクトに合わせて、教室に歌声が響く。
メロディにあわせて、藤野も口を動かしていた。
彼女の歌声は、周囲のテノールにかき消されてちっとも聞こえはしなかったのだけれど、凛とした佇まいによく似合う、美しい声なのだろうと、白倉は思った。
恋がどういうものか、まだ誰も教えてはくれなかった。
だから、タクトを振る白く細い指のなめらかさを白倉がどれほど美しいと思っても、それは、恋ではなかった。




朝のホームルームと、授業と、昼休みの合唱練習と、帰りのホームルーム。
藤野と顔を合わせるのは、日に四度に増えていた。
委員長として何らかの伝達をすることはあっても、個人的に会話をすることはない。
高校生だったなら、もう少しうまく会話もできたのだろうか。
彼女が何を専攻していて、教育を離れた彼女はどんな声で何を喋り、何に興味を持ち、何を思っているのか、何ひとつ知らないままに、藤野の実習が終わるまで、三日を残すばかりとなっていた。
夏休みの終わりを数える気分のようで、もどかしいような、焦れるような日々。

どれほど耳を澄ましても、合唱中に藤野の声が聞こえることはなかった。
彼女が率先して歌う形で、合唱の調整を行うこともなかった。
だから、放課後の音楽室の個室のドアから聞こえてきた歌声がまさか彼女のものとは思わずに、扉の前で白倉は立ち尽くしてしまった。
鷺ノ宮では、各教科別の専門教室を備えた教科棟があり、その一部に音楽室が設置されている。
良家の子女を預かるだけに、音楽系大学へ進学する生徒も少なくないため、通常授業で使用する音楽室の他に、時間制で借りることのできる小さな防音個室の練習部屋が6つほど作りつけられていた。莫大な寄付が成せる業だ。
その中のひとつ、アップライトピアノが設置された部屋の中に、藤野が立っていた。
ドアの小窓から覗き見える斜め横顔はいつになく真剣で、困ったように眉間にしわを寄せた表情は見たことがない種類のものだった。
防音個室のはずのその部屋のドアは数ミリ開いていて、だから藤野の歌声は、音楽室にCDデッキを返却に来た白倉の耳にもきちんと届いた。
――――その歌声を文字にするならばきっと、「ボエー」がふさわしい。
歌っては止め、首を傾げ、また歌いだす。
表情はころころと変わって、自分自身でも歌声に対して自覚があるのだろう、地団太を踏むような仕草までしてみせた。
「……ぷっ……」
思わず、声が出てしまった。
あまりに懸命で、それがいっそう滑稽で、そしてあまりに、可愛らしかった。
数ミリの防音室の隙間は、白倉の吹きした笑い声もまた、きっちりと藤野へと届けてくれたようで。
反射的に振り返った藤野と白倉とは、お互いに見開いた目のままで、はっきりと見つめ合うことになったのだった。
「あ、ええと、あの……」
言い訳をしなければ、と思うのに、舌がもつれて言葉が出てこない。
かわいかったので、という言葉も失礼にあたるだろう。
あまりに音痴で、などと言えば、寝込んでしまうかもしれない。
言葉を探すより早く、身体が動いていた。
「あの、合唱の練習ですか……?」
ドアを開け、防音室へと足を踏み入れた。
次に藤野が言う台詞は想像できていた。「ええと」「白倉です」というやりとり。
だが、藤野の返答は違っていた。
「……白倉くんも、聞いたでしょう。私は音痴です」
眼鏡の奥で、心底恥ずかしそうに瞳が細まって、頬に朱が差した。
拗ねた少女のような表情と、口調。
それと、ついに名前を記憶されていたことの、ふたつの衝撃に、白倉は二の句を告げられず、ドアに手をかけたままで、立ち尽くしてしまった。
当然のことだった。実習開始から三週間が経過しようとしているいま、担当しているクラスの生徒の名前を覚えていない教育実習生など、落第もいいところだ。
だが、顔を覚えられ、名を呼ばれるという、ごく普通のそれだけの些細なことが、 白倉の胸を震わせていた。
ドアの位置から一歩その部屋に入るのに少しの勇気を必要とする程度には、白倉は等身大の少年らしさを持ち合わせていた。
「先生は、音階が合っていないだけではないですか。きっと……もう1オクターブ、高いはずです」
そう言って、ピアノの前へと腰掛けて鍵盤蓋を開けた。
自然な仕草だっただろうか。鍵盤に乗せた指は微かに震えていた。
ポーン、と、ラの音が、狭い密室に反響する。
「ピアノの音を聞いて、その音と同じ声を出してみてください」
藤野はこくりと頷き、素直に白倉の指示に従った。
当初は外れていた音が、次第にピアノに寄り添った澄んだ声に変わる。
奇妙な時間だった。
鍵盤を沈めて、彼女の声を待つ。
その数秒が、まるで永遠のようにも長く、瞬きのようにも短く感じられた。
静かな、時間だった。
背中に差し込む6月の陽射しはやわらかく、どこか切なかった。
2日後にはもうここからいなくなって、もしかしたなら永遠に会えなくなってしまうであろう彼女に対して、言いたい言葉が何か、あるわけではなかった。
だから、いまこの時間があるだけで十分なように思えた。
「一度、最初から歌ってみていただけますか?」
発声練習と、音階練習をひと撫でして促せば、藤野は若干の緊張した面持ちで、深く呼吸をした。
その唇を、白倉は見つめていた。
彼女の淡い、桜色の唇が開かれて、中から白い歯が覗く。
伴奏に乗せて、そこから零れ落ちたメロディは、廊下で聞いたものではもうなかった。
「!」
歌声の変化に驚いているのは、白倉よりも藤野だった。
目を見開いて、白倉と重ねた視線が雄弁に物語っていた。
「続けて、続けて」
伴奏の手を休めずに促すと、藤野はこくこくと頷いて、応じる。
その表情はあの日の朝、ふたりきりの道で見せたものと同じ眩しいそれで、白倉は、彼女と自分とが、まるで至極対等で自然な、教室で机を隣り合わせているクラスメイト同士のような錯覚さえ覚えた。
――――アメイジング・グレイス。
伸びやかなソプラノの声が、透明になって消える。
毎日の合唱練習の中で、白倉が聴きたいと願って耳を澄ましていた、想像通りの声が、そこにあった。
いつしか伴奏をとめてしまっていた。
藤野は歌をやめなかった。
神へと捧げる歌が、静かに空へと吸い込まれては、消えた。
…………嫌いな歌だった。聴けば、花に囲まれた母親の姿がどうしたって浮かぶのだ。
この歌は、いつも自分を無力な子供へと引き戻してしまう。
それでも、藤野の歌声はひどく、ひどく優しかった。
だから、白倉は、嗚咽を止めることができなくなってしまった。
唐突に歌が止んで、藤野がこちらに来るのが滲んだ視界でわかったのに、唇をかみ締めても、涙が留まらなくて、白倉は肩に顔を押しつけるようにして涙を隠した。
「すみません、先生の声がきれいだったので」
そう言って、笑おうとしたのだ。
けれど、半分も言葉になってはくれなかった。
13歳で、中学生だった。
「………………」
藤野は何も言わず、白倉を泣かせるままにしていてくれた。
ぴたりと閉められた防音室は、まだ声変わりも済ませていない少年の泣き声を、廊下へ漏らすことはなかった。
しばらくの後、差し出された水色のハンカチを受け取って、白倉は涙を拭いた。
どんな顔をしていいか、わからなかった。
ハンカチは花の香りがして、I.Fと、小さな刺繍がされていた。
「母が、亡くなったんです。クリスチャンで、それで」
藤野は愚かではなかったので、その言葉だけで、白倉の涙の理由を悟ることができた。
「……それは、とてもさみしいね」
飽きるほどかけられた、慰めの言葉とは少し、違っていた。
「とても、さみしい」
もう一度、噛み締めるように、言った。
顔をあげた白倉に向けられていた視線を、憐憫ではなく、同志のように感じたのは間違っていなかったのだけれど、このときの白倉は、まだ何も、知らなかった。






藤野の白く細い指が、タクトを摘んでつい、と空で踊った。
流れ出すピアノの旋律に、高い声が重なっていく。
講堂の空気をじんわりと透明なそれに変えるように、響いていく、アメイジング・グレイス。
白倉はまっすぐに藤野を見ていた。
メロディにあわせて、藤野の口が歌詞の形に開いては、閉じる。
それは普段の彼女が見せることがない、微笑みの形に表情を作る。
今日の彼女は指揮者で、歌っていないことはわかっている。
けれど、ただ一人、白倉の耳にだけは、あの歌声が聞こえていた。
目が合うことはなかった。
天井からのライトが、彼女の白いブラウスを反射させていた。
汗が頬に玉をつくって、首筋に流れるのを、白倉は見た。
どきりと胸が鳴って、あやうく裏返りそうになった声を留めるのに、少し、苦心した。
――――やがて、優勝を告げる声に、わあ、とクラス中が笑顔に変わった。
藤野もまた、微かに微笑んでいた。
それは白倉が見たかったあの笑顔とは少し違っていたけれど、その輪の中に入ることなく、遠くから見つめているだけで、白倉の呼吸を楽にさせたのだった。


その日の放課後には、ささやかな花束と、生徒たちからの言葉で藤野は教室を去っていった。
白倉は、ポケットにしまったままのハンカチを差し出すことができなかった。
あの日渡された水色のハンカチを、洗って返します、と約束したまま、約束を果たさなかった。
藤野が白倉へと駆け寄り、いろいろとありがとう、なんて言うこともなかった。
彼女はきっと、すぐに自分の名前も忘れてしまうのだろう。
そう思うたび、兄にガラスを含まされた時よりも強い痛みが胸に走ったけれど、じゃあ、どうしたらよかったんだろう。
13歳で、中学生で、少年だった。
だから自分もすぐに、藤野の名前も思い出せなくなる。
それでもきっと、何処かでアメイジング・グレイスを耳にするたび、あの日の放課後の音楽室、陽射しに透けた彼女の黒い瞳を思い出す。
まだ、恋ではなかった。恋になっては、いなかった。
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