呉ノ朱

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  30度の傾斜角
  一.  
30度の傾斜角
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教壇の上で一礼した彼女の残像が描いた見事な角度に、白倉は教室の中でただ一人、目を見開いた。

「今日から四週間の間、日本史を担当する藤野です」
顔を上げた彼女は、ひとつに結んだひっつめの黒い髪と、白いブラウス、紺色の膝下のプリーツスカート。赤みがかったシルバーフレームの眼鏡が唯一、仏頂面に微かな女性らしさを添えていた。
地味な女だ、というのが彼女への第一印象で。
教室内の空気が瞬間で、 落胆のそれに変わったのも無理はなかった。
女子大生の教育実習生、と聞けば、まだ中学校にあがったばかりの青尻の男子に期待するな、と言う方が酷というもの。
「おい、白倉」
背中に感じるシャープペンシルの感触で振り返ると、白倉はクラスメイトと視線を交換し、彼の心情に添うように、苦く笑い合った。
口に出さずとも、教室中の男子が皆、同じことを思っていただろう。
はずれだ、と。
その空気を、藤野と名乗った教育実習生が察知したのかどうかはわからない。
藤野は、失敗したのかと不安になるほどに短く切りそろえられた前髪の下の眉をぴくりとも動かさなかったし、また、よろしくお願いします、と言いながらも、にこりと微笑むようなこともしなかった。
「委員長」
声と共に、担任の視線が白倉へと向けられた。
はい、と、声変わりもまだ済ませていないボーイソプラノで立ち上がる。
続けられる言葉が何なのか、わかっていたけれど。
「昼休み中、藤野先生に校内を案内してあげてください」
「はい」
担任の言葉に、藤野が小さく会釈をした。
それはやはり、ものの見事な30度の傾斜角で――――顔をあげた瞬間に向けられた視線に、白倉は得意の優等生スマイルを向けることができなかった。




「これで各教室のある教室棟は総てで、渡り廊下で繋がった向かいの教科棟に、教科別の専門教室が入っています。間に中庭、ふたつを接続するコの字の短辺の位置が、各委員会の委員会室と会議室がある会議棟、その裏に別棟で部室棟があり、その隣が温室と各種グラウンドです」
「ありがとう。もう十分です」
並んで歩きながら、相変わらずの抑揚のない声で藤野が言った。
この私立鷺ノ宮学園は、いわば良家の子女ばかりを集めた中高一貫教育のマンモス校であり、故に、敷地の広大さも他校とは比較にならない。
どれほど記憶力に自信がある人間だとしても、端的に言葉で説明した限りでは決して覚えきれるはずがなかった。
「もしかして藤野先生も、鷺ノ宮のご出身ですか?」
先程の藤野の一言だけでそう察することができるから、白倉は学年随一の優秀生といえた。
藤野の眼鏡の奥の切れ長な瞳が驚きの形に見開かれたのを見て、白倉は自分の問いかけが正しかったと、返答を待つまでもなく、確信した。
「ええ。幼稚舎から大学まで付属育ちなので」
「ではきっと、僕より詳しいですね」
まさに筋金入りだ、と内心思って、白倉は立ち止まった。
藤野が何か言いたげに口を開いたまま止まったからだ。
「ええと……」
「白倉です」
察して名乗った白倉に、藤野は一度頷いて、何事もなかったように言葉を続けた。
「白倉くんは、中学から?」
「はい」
ここでいつもならば、先生の学生時代はどうでしたか、といった通例の世間話でも広げる白倉だったが、返事だけで留めたのは、何の発展性も生み出さないことを悟ったからだった。
彼女がもう十分だ、と言った時点で、自分は委員長としての責務を全うしている。
意外にも、言葉を続けたのは藤野の方だった。
「この学校は……楽しい?」
虚を突く質問だった。
"この"学校が楽しいか、と問うということは、すなわち、彼女はそうではなかったということを暗に示しているように思えた。
それを察して、一呼吸の沈黙ののち、楽しいですよ、と、白倉は言った。
藤野はそう、とだけ、言った。
――――どこまでも、陰気で地味。
それが、藤野に対する白倉の評価で、それ以上でも、それ以下でもなかった。
ただ、あの礼だけが唯一白倉にとっては美しく、彼女の秘めた品性を示していた。


彼女と廊下で別れてのち、次に再会したのは数十分後の午後の授業だった。
その、初めて受ける彼女の授業で、白倉は再び目を見張ることになる。


「聖徳太子の別名は?――はい、戸田さん」
「え、えっと」
名指しされた生徒は、慌しく教科書を目で追い、そうして「厩戸皇子です!」と叫ぶように言った。
なんだろう、この授業は。
声には出さないままで、教室内の空気が僅かにざわめく。
「正解です。ちなみに聖徳太子という名前は没後につけられた名称で、当時は……」
これではまるで、クイズではないか。
教室の最後部にパイプ椅子に腰掛けている監督教師もまた、怪訝な顔をさせている。
「……ですね。では、聖徳太子が行った代表的な政治的施策は?――山上さん」
「十人全ての話を聞いた……とかいう?」
自信なさげな声に、教室内からくすくすと笑い声が漏れる。
だが、藤野は笑わなかった。教室内のくだけた空気が瞬時に引き締まるのがわかる。
「笑った人はわかってるということでいいのでしょうか。はい、原さん」
「あ!あのっ、冠位十二階を定めました」
「そうですね。それはどういう制度ですか?」
矢継ぎ早の質問に、それまでぼんやりしていただけの生徒たちの目の色にも変化が訪れた。
次は自分かもしれない、という焦り、当てられて答えられなかったら恥をかく、という焦りが、クラスの誰をも、教科書へと釘付けにさせる。
藤野は、それまでの教師たちのように、黒板につらつらと書き出してはノートに写させる、いわゆる版書をしなかった。
生徒の回答を黒板に書くこともない。
冷ややかにさえ見える厳格な声のトーンは、必要なのは教科書に書いてあるでしょう、とでも言いたげだ。
だが、質問の仕方も、声のトーンも的確だった。
決して責め立てるようなものではなく、答えられない生徒に対して蔑むような声でもない。
彼女は、朝と同じ硬い表情で教壇の上に立ってはいたが、輝く眼鏡の奥の瞳を白倉は見た。
「――次の授業では、聖徳太子の生きた時代の変化について取り上げます。予習してください」
チャイムの音とともにそう告げて、礼が終わって去っていく背中は颯爽としたもので、藤野と監督教師が出ていってのちの教室は、ひそひそとあちらこちらから声があがった。
なにいまの授業、あれでいいの?予習きついよ、なにあの教生、今頃叱られてるよ、でも歴史好きになりそう、めんどくさい――――反応は千差万別ではあったが、授業が終わった後の教室がこんな様相を見せたことがかつてあっただろうか。
白倉はただ、唖然としていた。
彼女のやり方が正しいかどうかは自分に判断できるものではなかった。
それを判断できるほど、白倉は学生生活を経験しているわけではない。
しかし、これまでの、教科書をただ読み上げる教師の声を聞き流しながら機械のように版書を写すだけの授業とは明らかに違う。
この1時間で、クラスメイトの多くは、見開き2ページに記載された内容をじっくりと読み込み、覚えたことだろう。
「なんかすごいな、あの地味女」
「そう、だね……」
すごいな、という言葉が単純な褒め言葉でないにせよ、話しかけてきた級友の瞳もまた、いつになく輝いていた。
――――彼女は、どういう人なのだろう。
白倉が他人に興味を抱き、誰かを知りたい、と思うのは、これが初めてのことだった。



藤野と会うのは日に二度、授業がある日は日に三度。
低血圧なのか、と、こちらを不安にさせるほどの仏頂面で朝のHRに立つ。
そして相変わらずの授業。
だがそれを監督教師が止めることはなく、また、何らかの叱責を受けた様子も見られない。
藤野の授業の前の休み時間は、テストの休憩時間さながらに、教科書を開くクラスメイトの姿が次第に増えていった。
藤野は笑わない。まだランドセルを背負っていた面影を残す女子生徒があれこれと話しかけても、微笑んで応えることさえしなかった彼女の周囲からは、駆け寄る生徒の姿は次第にぽつり、ぽつり、と減り始めた。
白倉もまた、個人的に彼女に話しかけることはしなかった。
ただ、観察していた。
13歳になったばかりの白倉にとって、21歳の藤野は初めて出逢った、尊敬に値いすべき大人だったのかもしれなかった。
少なくとも、彼女の授業と、あの、礼に限っては。
そうしてその評価をまたも別な形で覆したのは、彼女からだった。



「先生……?どうかされたんですか?」
声をかけた白倉を、潤んだ瞳が縋るように見上げた。
藤野の実習が一週間ほど経過した、朝のことだ。
学校より少し離れた、通学路ではない公道の脇で送りの車を止めてもらい、通学路へ向かっていた白倉の視界の隅に電柱の柱に隠れるようにしてしゃがみこんでいる人影が映った。
普段であれば、無視して通り過ぎたはずだった。
……その人影が、藤野でさえなければ。
「ええと、1−Aの……」
「白倉です」
毎朝毎夕、教室で顔を合わせているのに、名前すらいまだに覚えられていないことが、いかにも彼女らしく、白倉はくすりと微笑む。
以前と同じやりとりをして、藤野を見やれば、腰をかがめ、カバンで腰のあたりを隠すように不自然な体勢をとっていた。
ストッキングは伝線し、膝はかすかに汚れている。
「……転んだんですね?お怪我はありませんか?」
勿論、藤野が怪我をしようと本当は知ったことではなかったので心配して言った言葉ではなかったが、白倉はできる限りの優しい声でそう言った。いつ、どこで誰に聞かれてもいいように、だ。勿論。
「大丈夫です。それより……白倉くん、ガムテープなんて持っていませんよね」
「ありますよ」
さらりと返答した言葉に、瞠目したのは藤野の方で。
ガムテープ、という単語で、白倉は、彼女の体勢の理由を言われずして悟った。
手渡したガムテープから二十センチほど切り取って、身体をひねった藤野は、どうやら臀部あたりに貼り付けようとしているようだった。もちろん、うまくいくはずもない。
二度、三度とやり直すうちに、時間は刻々と過ぎていく。見ていられるものではなかった。
「……よかったら、僕が貼りますけれど」
「え!ええと……いい、のだろうか……?」
場所が場所だけに、という意味と、こんな場所で、という意味と、生徒に、という意味と。
様々な意図が含まれた言葉だったけれど、白倉は答えずに、隣にひざまづく。
「すみませんが、チャックを少し降ろして、スカート自体を回転させることはできますか?」
「こ、こう……かな」
狼狽しているからだろうか、妙な男口調だった。
これが素の彼女の喋り方なのだとしたら、やはり相当な変人に違いない。
白倉の指示通り、太もものあたりまでチャックを降ろすと、伸縮性のある生地の黒いタイトスカートを
くるりと回転させてみせた。
縫い目に沿って見事な裂け目が太ももの上の方まで続いている。
これは確かに、このままでは歩けまい。
「少し、失礼します。すみません」
白倉が謝る必要はどこにもなかったが、常套句としてそう言って、ちぎった布ガムテープを口にくわえると、白倉はタイトスカートの内側へと手を差し入れた。
「!」
びくりと藤野の身体が震えた。まさかスカートの中に手が入れられるとは思ってもみなかったのだろう。
手の甲に太ももの感触があたり、むっとこもった熱が制服のシャツ越しにも伝わってきた。
中学生男子からすれば、たまらない熱だ。
だが、白倉は顔色ひとつ変えずに淡々と、破けたタイトスカートを手繰り寄せると、内側、スカートの裏側をガムテープで固定する。
「な、なるほど……」
ようやく白倉の意図がわかったのだろう。感心したように呟いて、けれど藤野の身体は硬直したままだった。
――――ああ、処女……っていうものなんだろうなあ、やっぱり。
その感情は、憐憫に似ていたかもしれない。
彼女を知っているのはたかだか一週間で、白倉はまだ13歳の少年でしかなかったけれど、藤野のどこをどう探しても、女性としての魅力、というものを見つけられそうにはなかった。
あの、美しい礼を除いて。
「先生、このままでは歩けませんので、スカートに穴を開けても問題ありませんか?」
「問題ない」
時間が押し迫っている。ここでちくちくと裁縫するわけにもいかなかった。
白倉は鞄からホッチキスを取り出すと、布をたぐり寄せ、下から差し込めるだけの範囲まで押し当てて、バチン、バチン、と、細かく針を打っていく。
白い太腿があらわになって、少年心にもどきりと心臓が鳴る。
「魔法の鞄だ……!」
ガムテープに続きホチキスが登場したことに、上方から、再び感嘆の息が振ってきた。
はしゃいだ声に反射的に見上げれば、白倉の鞄を見つめるその瞳は輝いている。
まほうのかばん。随分と子供っぽい、あるいは少女のような表現に、白倉はまた、くすりと声をたてずに微笑んだ。
やっぱり、自分が手伝ってよかった。
歩くごとにはがれてしまうガムテープでベタ張りにしたスカートを履いて、よろよろと校門へ向かったはずの藤野の姿をありありと想像することができたからだった。
「……これで、なんとか学校まではもつと思います」
よいしょ、と身体を起こした白倉の背丈はまだ小さく、女性にしては長身な藤野の背丈は見上げるほどで、すぐ目の前に藤野の顔があった。
「ありがとう!本当に……ありがとう」
それが、満面の笑顔へと変わる。
――――どきりとした。
授業の時に見せた輝く瞳とも違う。
屈託のない、教師としての彼女ではない、21歳の素の彼女の笑顔。
それは、まほうのかばん、とはしゃぐ少女の顔だった。
二の句が告げられないまま静止した白倉の顔を、ふと、何かに気づいたように藤野は笑顔から真顔に変えて、見つめはじめた。
「君は……不思議な瞳の色だね」
息が触れるほど近くにふたりの顔はあったから、普段はあまり気づかれることがない白倉のその特徴に、藤野だけが気づいた。
白倉の虹彩は人より薄い茶褐色で、その円をじわりと滲ませるように緑のふちが取り囲んでいる。
笑顔を作っていることの多い白倉のそれを気取った人間は、いまのところはまだ、家族以外にはいない。
ましてや家族にとっては、その瞳の色こそが侮蔑の対象だった。
だから、罵られることには慣れていた。それでも、身体が微かに震える。
「あ、は、母が、外国の血が」
見つめられたことに狼狽して、自分らしからぬしどろもどろな回答を返したことに、白倉はいっそう、慌てた。
まるで子供が葉にとまった虫を観察しているような目でじい、と見つめ続けていた藤野の、自分とは対極的な真っ黒な虹彩が、黒い睫に狭まれて微笑みの形に変わる。
「きれい」
「!」
ぽろりと、唇から思わず零れ落ちてしまった、という音で言って、藤野もようやくはっとしたようだった。
見つめられたことが恥ずかしくて、微笑まれたことが嬉しくて、褒められたことが切なくて、白倉もまた、焦るように立ち上がる。
「あ、ありがとうございます。では失礼します」
そう言って、足早に賭け去ったのは、時計が始業時刻の5分前を示していたという理由だけではない。
どんな顔をしていいか、わからなかったからだ。
頬にあたる風を心地よく感じるのは、顔が火照っているからだろう。
白倉はまだ恋を知らなかった。
恋もまだ、始まってはいなかった。
13歳の、初夏だった。
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