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  最終話.  


遅くまで帰らない姉を捜して邸に戻れば、彼女の姿はもうどこにもなかった。
風が強い夜だった。
庭にはからたちの花だけが、落ちていた。
ひとつ手にとれば、それは咲いたばかりのものだった。
まるで花が、彼女を連れ去ってしまったようだった。
----姉は結局、あれほどまでに待ち望んでいたこのからたちの花を、見ることはできたのだろうか。
それとも花が咲いたから、姉はいってしまったのか。
私はついに、ひとりになった。
手元には邸だけが残され、やがて私はその邸に住むことを決めた。
踏みしめた廊下がぎしりぎしりと音をたてるある夜、ふいに、奇妙な感覚にとらわれた。
壁から光がひとすじ漏れているのだ。
「……?」
触れてみれば、長い間ずっと壁とばかり思っていたそこには小さな取っ手がついており、まるで隠すようにひっそりと壁に同化している、ドアのひとつに違いなかった。
「こんなところに、部屋が……?」
廊下に差し込んだのはその部屋から漏れる月明かりだったのだと、引き戸を開けて、私は知った。
「…………!」
やけに月明かりが眩く見えたのは、部屋中の壁に貼られた何枚もの絵のせいだった。
----何枚もの姉が、そこにいた。
そこは狭いアトリエで、壁に、床に、何枚も何枚もの女性の絵があった。デッサン、着色されたもの、古く焼けて黄ばんだ、たくさんの、たくさんの姉。
「これは……」
笑顔、怒り、微笑み、泣き顔……やがて、裸体が現れた。
そうしてめくってゆけば、少しずつ少しずつ、絵の中の女性は、美しく年老いてゆく。姉の姿をしているのに、姉ではない。
----愛しい、愛おしいと、呼ぶ声が聞こえてくるような筆だった。
これらは、祖父が遺していった祖母の絵だろうか。
祖父母と自分たちとは、血のつながりがないと聞いている。にも関わらず、こんなにも似るものなのだろうか。
もしもこれが祖父が描いた祖母の絵ならば、祖母はきっと、幸せだったのだろう。絵の中の女性は幸福そうに見えた。
「……?」
絵をめくり終えたのち、机の上に一通の封筒を見つけた。
中には固い感触があり、開けばころりと指輪があらわれた。
月明かりに透けるその石は緑の色をして、姉が肌身離さずつけていた、母の、そして祖母の形見だと悟った。
封筒の中には、一枚の便箋。
九雀へ、と書かれたそれに、私は目を見開いた。
そうして振り返った先に、ひときわ月明かりに眩しく発光する、立てかけられた、一枚の大きな絵。
「姉さん……」
姉がどうしていなくなってしまったのか、その絵が語った。
一面の緑が、そこにあった。からたちの花が眩くて、その前で、振り向き微笑む女。
なんとなくもう二度と、姉に会うことはできない予感がした。
だからその手紙は、遺書だった。
それでもからたちの白い花が咲くたびに、私はなんとなく思うのだ。
彼女はきっといまも、幸福だろう、と。








からたちの花が咲いたら会いにゆく、という約束のもとに、九雀が須磨子を連れていった場所は、墓地ではなかった。
こじんまりとした小さな郊外の美術館で、初夏を待つ緑にその白い建物は眩しく映えていた。
「思えば、こうしてふたりで出掛けるのは初めてですね」
須磨子の指摘に、九雀がそういえば、と、苦笑する。
「これからは、もう少し、いろいろなところにも行きましょうか」
あまり得意とは言い難いけれど、と、そう言って、朝から笑顔の絶えない須磨子を、九雀は時折眩しそうに見た。
平日の美術館は人もまばらで、静謐な空気に満ちている。
いくつかのフロアを過ぎたのち、九雀は一枚の絵の前で立ち止まった。
「----姉さん」
九雀は懐かしげに目を細めた。
一面の鮮やかな万緑のこちら側で、一人の女性が微笑んでいた。
「……!」
須磨子は惹きつけられるように、その絵を見上げた。
その手には溢れる白いからたちの花。髪にからまった花は、おそらく彼女が微笑んでいる先の人間が悪戯につけたものだろう。
愛しい愛おしいと、囁く声が聞こえてくるような、良い絵だ。
「いつだったか、画家のモデルをしていると、ぽつりと話してくれたことがあってね。……姉は、その画家を愛しているのだと、思ったことを覚えている。これはその時に描かれたものかもしれない」
「----松山、雀蓮」
作家名を読み上げて、須磨子は首を傾げた。
生没年不明、絵がいつ描かれたものかというのも記載されていない。
「姉が……いなくなってからしばらくしてこの絵の存在を知って、この画家を随分と捜したけれど、結局、なにもわからなかった」
松山雀蓮という画家は、結局、この一枚だけしか世に残さなかった。
この傑作と名高い一作だけを残し、画壇から姿を消してしまった、謎めいた存在。
それでも、生命力に満ちた、瑞々しい緑とこの姉の笑顔。
少なくとも九雀にとっては、この一枚だけで、充分だった。
「いまでもときどき思うのだけれど……もしかしたなら姉はいまも、この画家と幸せに暮らしているんじゃないか、と……そんな気がしてならないんだ」
「……はい」
須磨子もなぜだか素直に、そう信じられた。
そうしてこの絵を描いた画家は、彼女のことを愛していたのではないだろうか、と、思った。
優しい色々は、九雀が自分を見るときの瞳の色とよく似ていたので。
「しあわせそう」
ぽつりと言ってしまった言葉に、九雀が須磨子を見上げたので、須磨子はあわてて口元に手をやった。
「ご、ごめんなさい。でも……愛されていたんじゃないかって」
「……うん」
微笑んだ須磨子の言葉に、九雀も静かに頷いた。
「そうであったらいい」
そうして須磨子を見やった九雀の瞳は、やはり絵と同じ、優しい色をしていた。
ふと須磨子は、いつもとは違う感触が指にいつのまにか在ることに気づいた。
気づかぬうちに填められていたそれは、ひんやりとした温度と、確かな重みを持っていた。
「これ……?」
左の手をあげれば、そこあるのは見慣れない古びた指輪。
「納屋の整理をお願いしたのは、それを探すためで」
指輪と九雀を見比べるように見れば、九雀は俯いて、髪の間から見える頬は僅かに赤い。
「祖母と、母と……そして姉がつけていたもので」
もどかしく言葉をつなぎながら、九雀は須磨子を見なかった。
須磨子は左の薬指に填められたばかりのそれを、陽に透かすように手を伸ばした。
「きれい……」
深い緑をしたその石は陽に透けて、きらきらと美しかった。
からたちの色だ、と、須磨子は思った。
その指の向こうで、同じ碧に囲まれた女性が優しく微笑んでいる。
「つけて……いてくれるだろうか。その、できれば……ずっと」
ようやく須磨子を向いた九雀は、それでも弱った表情をさせて、それは須磨子をどことなく悪戯な気持ちにさせた。
答えなど、確かめずとももうわかっているはずなのに。
「…………」
須磨子は九雀から視線を離して、すっと、絵に近づいた。
向き合った絵の中の九雀の姉……ひばり。
ひばりのこの笑顔は、赦しているのだと、須磨子に知らせた。
絵のこちら側、おそらくはこれを描いた画家を、赦している。彼に心を許している。
九雀もまた、もうこんなにも須磨子に……赦されているのに。
「ねえ九雀さん。この絵の題名、なんて読むんですか?」
わざと答えずににっこりと笑って振り向けば、九雀は一度驚いたように目を見開いて、そしてゆっくりと、微笑んだ。
絵に駆け寄り、こちらを振り向いた須磨子のその表情は、絵の中の姉と、まるで同じものだった。
白い花のかわりにきらきらと、彼女の手の中の指輪が、反射して眩しかった。
----赦されているのだと、九雀は知った。
「きこくてい、と読むんだろうね。枳殻----からたちのことです」
指でなぞるようにして、絵に添えられたパネルを見ようとした須磨子が、からたち、と呟いて顔を上げる。
フロアにはもう、自分たちの他には誰もいなかった。
寄り添うように近くへと来た九雀の顔が、降るようにして近づいてきたことに、須磨子は久方ぶりに、鼓動を早くさせた。
九雀からこんなふうにして触れてくるのは、思えば初めてのことだった。
「……枳殻邸、にて」
九雀が離れたあとの唇で、須磨子はぽつりと呟くように読み上げた。
その名が自分たちが暮らすあの邸と同じ名なのだと、ふたりが知るのはもう少し、後のことになる。