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  十.  


葬式の準備から何もかもは、私が手配した。
ふと姉の姿を捜せば、 背後のざわめきや経文をよそに、姉はただ、ぼうっと縁側に座っていた。
からたちの緑に、ぽつぽつと白い蕾がのぞいていた。
「姉さん……大丈夫?」
「九雀」
縁側に座って外を眺めてばかりいた姉の隣に、私は腰掛けた。
姉の瞼は赤く腫れて、彼女の悲痛を無言のままに私に伝える。
「九雀にばかり働かせて、ごめんね」
「僕もそんなには動いてはいないよ。お弟子筋の方たちが全部してくれているから」
眉根を寄せて薄く微笑み、私を見上げた姉に私は静かに微笑んで、背後を示すように振り向いた。
弔問客は、尽きることはなかった。
竹河十郎、という画家は、いわゆる教科書に載るような大家ではなかったが、彼の絵も人柄も、静やかに愛されていたのだと、葬式になって初めて私は知ることになった。
結局自分たちは、祖父について何も知らないままだ。
「よく知る前に、逝ってしまった」
喪服の内ポケットから煙草を取り出して火をつけた私に、姉は珍しく「 一本ちょうだい」と、煙草をねだった。
受け取った煙草に火をつけてくゆらせる。
吸い込んだ煙が肺を軋ませたように姉は少し、咳き込んだ。
「----みんな、いなくなっちゃったわ」
姉は泣き笑いのような表情をして庭を見やった。
庭にはからたちの花が、いまにも咲きそうな蕾をそよがせている。
まるで葬送のようだった。
「……あと数日あれば、咲いたのに」
「からたちの花……?」
私の言葉にこくりと頷いて、姉は少し首を傾げた。
「よく、知っているのね、からたちなんて」
私は少し、言葉に詰まった。
僅かに眉根を寄せて、好きな花なんだ、とだけ言った。
姉はそれ以上は問わなかった。
「見せて、あげたかった
祖父に、だけではないのだろう、と、私は庭のからたちを見つめたままの、青白い姉の横顔を見つめた。
姉が、このからたちを一年をかけて植えたのだということを知ったのはつい先程で、私は随分と驚かされた。
私はついに今日まで、この邸が祖父の持ち物だということを知らなかった。
だから一年前にこの邸が燃えたことも、姉の捜す画家の話も、本当につい先程まで、知らずにいた。
姉は、夜に溶けてしまいそうにまるで生気を失って、私はそのとき、もしかしたならそう遠くない先に、彼女までも失うのではないか、と、思ったのだった。
そのまま黙って、しばらくふたりで庭を眺めていた。
白い煙が夜空へとあがってゆく。
「……これが枳殻邸……ですか」
ふと聞こえてきたのは弔問客のうちの誰かの世間話に過ぎないようだったが、姉は惹きつけられるようにそちらを見、立ち上がった。
彼女の瞳に強い光が宿るのを、私は目を見開き、見た。
「あの!いま、枳殻邸って……」
「え、ええ」
突然駆け寄ってきた姉に、初老のその男性は面を食らったように頷いた。
「枳殻邸って、松山雀蓮の……?」
「よく知っているねえ、松山雀蓮なんて」
姉が食いつくように話しかけた客人は、驚いた顔をして、そうしてぐるりと邸を見渡す。
私も立ち上がり、彼らの近くへと、行った。
松山雀蓮という名も、枳殻邸という言葉も、私にとっては聞き覚えのないものだったが、姉の様子は明らかに、先程までとは違っていて----その、松山雀蓮という画家が、彼女が捜しているその人なのだと、私は無言のままに悟ることができた。
「彼を、探しているんです。何か、ご存じでは」
「いや、すまないが……」
姉の表情が余程真剣なものだったからだろう、男性は困り顔で、首を振った。
「ああ、ただ、竹河先生なら何か知っていたのかもしれないね。この邸はずっと彼の持ち物だったのだし、一時期、妙な噂が立ったこともあった」
「噂?」
首を傾げた姉に、男性は慌てて手を振って、苦笑する。
「松山雀蓮は、竹河十郎の別名義なんじゃないか、なんて」
男性の言葉に、急速に姉の表情がこわばってゆく。
冗談めかして言った風の彼の言葉に姉が笑わなかったことで、男性はなおも弱ったような表情をして、いま自分が言ったばかりの言葉を打ち消す。
「いやいや、本当にただの笑い話だよ。雀蓮の "枳殻邸にて" が世に出たとき、弟子筋は皆悔しがったもんさ。この邸を題した絵を、描くことをゆるされた画家がいる、一体誰だ、と嫉妬してね。……それくらい先生は、この邸を大切にしていたから」
そう言って、男性は古びていまにも朽ちそうな柱を撫でた。
いまこの邸で葬式をしているのも、祖父の遺言によるものだ。
「奥さんとの思い出があったからだろう」
「亡くなって以来、ぱったりと筆を折ったもんなあ」
周囲にいた別の画家らしき男達も、頷きながら会話に加わった。
私も、祖父の作品群を、画集だったろうか、一度だけ目にしたことがある。
竹河十郎という画家が生涯に描いたのは総て人物画で、一人の女性をモデルにしたものばかりだった。祖父の人柄を思わせる、柔らかく、優しい筆だった。
私は私が生まれる少し前に亡くなった祖母という人を知らなかったが、 思えばあれが、祖母なのだろう。
「……祖父は、何も言っていませんでした。それに、お恥ずかしい話なんですけれど……私たちは、画家としての祖父をあまりよく、知らなくて」
姉は恥じ入るようにして俯いた。
無理もない。血のつながりもなく、出会ったのは二十歳を超えてからだ。
祖父としての彼は少しは知ることができたように思えても、画家としての彼の話を、彼自身の口から聞くことは遂にはなかった。
私も、そしておそらく姉もまた、調べようとは思わなかった。
「家族はそんなもんさ。もしかしたなら、遺品に何か残されているかもしれないね。いや、力になれなくてすまない」
最初に姉が話しかけた男性が小さく会釈をして、姉と私もまた、それに倣った。
「姉さん……?」
「………………」
私が声をかけても、姉はどこか虚ろな表情をして、俯いていた。
「……変なこと、言ってたわね。あの人」
姉は急に私を振り返って無理な笑顔をした。
「雀蓮とお祖父さんが同一人物、なんて。私は二人とも知っているのに----」
彼女の手が微かに震えていることに私は気づいていたが、それでも微笑むことで気づかないふりをした。
「それとも松山雀蓮なんて、本当はどこにもいなくて……、私は幽霊にでも会ったのかしら」
「………………」
自嘲気味に微笑んだ姉に、私は喉の奥に鉛が詰まったような苦しさに囚われた。
「案外、そうかもしれないよ」
自分自身のその思いを打ち消すために、明るい声で首を傾げてみせる。
「さっきもさんざん言われた。本当にこの邸を相続するのかって。この邸はお化けが出たり、変なことが起こるって有名だ、って」
「あはははは」
姉がようやく声をたてて笑ったことに、私は安堵した。
祖父の遺書の中に書かれていたいくつかの文章のうちのひとつが、この邸を私と姉に継いでほしい、ということだった。
さっきの客人たちの言葉にもあったように、この邸を欲しがる人間は少なくないようだった。そういった人たちの嫉妬から生まれた噂だったのかもしれない。
「……それでも」
姉の声が、急に静かに響く。
「幽霊でもいいから、会いたいわ」
姉はもう、笑ってはいなかった。
庭のからたちを見つめるその横顔は切なもので、私はまた言葉を無くす。
----私も、そんな切な思いを知っているように思えたからだ。
「全部終わったら……一緒に暮らさないか、この邸で」
姉は少し驚いた顔をして、私を見上げた。
「ここで暮らしていれば、いつかその画家も戻ってくることがあるかもしれないのだし」
私はこの邸が祖父の持ち物だと知って、僅かに興奮した。
高校時代、このからたちの咲く邸の庭を近道として抜けるたびに、惹かれていた、特別な思い入れのある邸に他ならなかった。
「そうね。そうなったら、素敵ね……」
けれど私の誘いに、姉は曖昧に、微笑むだけだった。






九雀の言葉は、いつしか弟がもう少年ではなく、大人の男に成っていたことをひばりに教えた。
その九雀も自宅へと休息に帰り、ひばりは未だ、ぼんやりと縁側に腰掛けていた。
ボーン、と低い音を響かせて時刻を知らせた音に顔をあげて見れば、時はもう夜半である。
どれくらいそうしていたかわからない。
庭に出た頃にはもう陽は落ちてあたりは暗く、けれど庭は月明かりにか、やけに明るく感じられた。
「……?」
蛍のようにぽつりぽつりと、からたちが白くてらされている。
花だ、と気づいたのは少し後のこと。
「……あ……」
ひばりは縁側から立ち上がり、一歩、足をついた。じゃり、と土が鳴った。
暖かい風に煽られて、長い髪が視界を遮る。
指を伸ばした。花にふれそうになって、その手を握る。
「……咲いたわよ、雀蓮」
ぽつりと呟くように言った。
この一年、はじめは毎日彼を待った。
次第に彼を待たなくなった。土を整え、枝を守ることにただ必死になった。
彼の輪郭を、あの声を思い出すのに時間がかかるようになったいま、ひばりに彼が遺していった焦げるような思いも、ようやく静かに燃え尽きようとしている。
彼もまた、そうなのだろうか。どこかで幸せに暮らしているのか。
いまでもこんなふうに、ひばりを思うことがあるだろうか。
あの絵を、彼はまだ持っていてくれるだろうか。
ひばりは背筋を伸ばして空を見上げた。雲があまりにも早く流れていった。
----雀蓮はもう、この邸に戻らないかもしれない。
それでも、この庭は残るのだ。
「咲いたら……会えるって言ったじゃない」
花が咲いたら、雀蓮に会えると思っていた。
花が咲いたら、祖父は喜んでくれるだろうと思っていた。
けれどいまやひとり、再び巡り来る春の匂いを運ぶ風に、葉が静かに揺れるだけ。
どうしようもない虚ろな気持ちだけが、さみしく胸を満たしていた。
彼はいまも何処かで、あの赤い瞳をして描くことを続けているのだろうか。
……きっとそうだ、と、ひばりは思った。
「いた……っ!」
振り返った髪を、からたちの枝が引き留めるように絡め取った。
「もう……」
棘に気をつけるようにして、手を伸ばして髪をほどく。
いつかのあの日、雀蓮が切ったこの髪ももう伸びてしまった。
「……っ」
ほどこうとすればするほどに絡まる髪は、まるで未練のようで、いつしかぽつりと手の甲に雫が落ちる。
----忘れることなど、どうしたってできない。
「あーあー、つかまりよって」
よく響く声だった。
----幻聴ではなかった。幻聴でもよかった。
「なんやあんた、別嬪さんやなあ」
植物にまるで取り押さえられたような格好で斜めになった視界の先から、男が一人こちらに近づいてくるのがわかる。
影に塗られていた彼の姿が、次第にくっきりと人間の姿へと変わる。 年の頃は20代にも30代にも見えた。くせのある茶色がかった長めの髪で----。
「雀……蓮……」
「そんな、化けもんでも見るような顔して。……約束したやんか、必ず戻る、て」
雀蓮はひばりのすぐ近くまで来て、低くそう言って、にいと微かに目だけで笑った。強い光の宿る目だった。
ああまるで、あの日と同じ光景だ。
しかし雀蓮は、ひばりの髪を丁寧にほどき終えると、そのまま抱きしめた。
「ようやっと……会えたなあ……」
自分の身体を抱くその腕は強いもので、ああもうこれが幻でもかまうものか、と、ひばりは思った。
「心配、したのよ」
「すまん」
少しも悪びれもしない声で、そう言った。
ひばりは雀蓮の身体から自分の身体を引き離すと、手を振り上げた。
振りおろそうと、した。
「ひっぱたいて……やろうと、思ってたんだから……」
けれどできなかった。
握りしめた拳をどん、と、雀蓮の胸に叩きつける。重く響いた。
着物の襟元からのぞく皮膚に、痛々しくひきつった皮膚がのぞく。火傷の痕だ、と気づけば余計に胸がつまった。
雀蓮がそのひばりの震える肩を抱いた。
「花が咲いたらおまえに会える、おまえに会える思うたら、死んでも死にきれのうて……」
そう言って振り返った雀蓮の向こうで、からたちの花が眩しい。
燃え尽きたのではなかったか、彼への思いは。
一緒にいた時間よりも、離れていた時間の方が長かったのに、それでも心は死んではくれなかった。
「……切らなくて良かったんじゃない、髪」
「せやで」
赤い目をさせたまま鼻声混じりで言ったひばりに、雀蓮はからからと笑った。
わざと切ったのか、と、その笑顔でわかった。
「もう取引、できないわよ」
「せやなあ。どないしよ」
左手につけた指輪を顔の前に、その指の隙間から睨みつけるようにそう言うと、彼は僅かに困った顔をさせて微笑う。
「けど……帰さへんて、言うたやろ」
そう言って見つめた雀蓮の瞳は、懐かしい、あの赤い色。
「そうね。そうだった……」
ひばりは微笑んで、降ってくる唇に応えた。
いままで彼がどこで何をしていたのか、どうして会いにこなかったのか、祖父は何かを知っていたのか、彼は本当に松山雀蓮なのか、それともひばりが見ている夢なのか。
既に答えを知っているのかも、何もわかっていないのかもしれなかった。
それでもいま触れてくる唇がある。抱きしめられる腕がある。それが総てで、確かなことだ。
そうしてもう、何もいらないと、本当にひばりは思うのだ。
「一緒に、いてくれへんか。----枳殻の花が枯れても」
ひばりが見上げた雀蓮は、いままで見たことのない瞳をして言葉を待っていた。
ああそういえば、雀蓮と出会ったのも春だった。
枳殻の咲くこの庭でしか、花の咲くこの邸でしか、彼には会えなかった。
「……あかんか?」
返事をするには少しの決意が必要だった。
けれど首を横に振るには、その瞳が愛おしすぎた。
なんとなくもう二度と、弟に会うことはできない予感がした。
ただ一言、手紙を書こうと決めた。
だからそれは、あるいは遺書かもしれなかった。