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  九.  


「九雀さん」
庭の掃き掃除をしていた須磨子が、縁側の九雀を振り向けば、床に敷いた新聞紙に足を乗せて、ぱちりぱちりと、爪を切っていた九雀が顔をあげた。
「どうしてここのからたちだけ、他より花が咲くのが遅いんでしょう?」
「ああ」
爪切りを置いて、九雀は立ち上がる。
縁側の下に置いてあった木製のサンダルに足を通すと、カランカランという小気味良い音がした。
「この庭に続く細い生け垣、あるでしょう。昔、火事に遭って……あのあたりまで全部、燃えてしまったらしい」
すっと手を上げて指さしたあたりまでのからたちは、確かに玄関の方をぐるりと囲むそれらと僅かに色味も違っていて、また、花も遅い。
九雀は生け垣に近づくと、そっと葉を一枚弄ぶようにしてとった。
「後から知ったことだけれど、この新しいからたちを植えたのは、姉なのだそうです」
「これを……全部、一人で……!?」
須磨子は驚いてぐるりと生け垣を見渡す。
庭といっても書斎部分を取り囲むだけのこじんまりとしたものではあるが、それでも、これだけのからたちをひとりで植え替えるのは、どれほどの労力を要したろう。
「時折祖父が手伝っていたようだけれど、僕はその頃大学とアルバイトで忙しくて、ほとんど家にはいなかったから」
少し寂しそうに、九雀が微笑みかけた。
「からたちを植えて、育って、初めて花が咲く頃……だったのかな、姉がいなくなったのは」
大変だったろうに、と、小さい呟きが言った。
「お姉さんは、どうして……?」
ずっと聞いてみたいことだった。けれど触れてはいけないこととも思っていた。
須磨子の問いかけに、九雀は少し首を傾げて、 困ったような表情のまま、微笑むと踵を返した。
そのまま書斎へと戻り、文机の引き出しの奥の方を粗雑にあさった九雀は、何かを手に庭へと戻ってくる。
「姉の、遺書です」
須磨子は少し瞳孔を拡げて、九雀を見上げた。
その表情は逆光になって、よくはわからなかった。








「これは……」
祖父が座った車椅子を押して、以前彼とこうして並んで見ていたときと同じく、縁側で庭を眺める。
次の春が来ようとしている今、邸の修繕は既に終わり、何もかもかが同じとまではいかずとも、邸は以前の姿を取り戻しつつあった。
「ここまで植えるのは、大変だったろうに」
祖父の労いの言葉に、ひばりは静かに首を振る。
たやすいわけはなかった。枯れてしまった古い木々を除き、土質を整え、苗木を植える。
からたちは生け垣には適した樹木だが、それでも最近は、他の生け垣の礎として植えられることが多いようで、これほどに背の高い生け垣にできるほどのからたちを見つけるところから始めなければならなかったのだ。
「すばらしいな……」
いまや若い緑は、以前ここにあったあのからたちよりも瑞々しく、邸は以前と何ら遜色ないものに思われた。
ただひとつをのぞいては。
「----それでも花が、咲かないんです」
眩しげにからたちを見やっていた祖父が、怪訝げにひばりを向く。
ひばりの背の向こう、邸の表側を囲む残った僅かなからたちは、もう白い花をひとつ、またひとつと土に落とす季節だった。
それなのに、この庭のからたちだけが咲かない。
「蕾をつけても、みんな落ちてしまって……残ったのは、これだけです」
ひばりが髪を絡めたからたちが、雀蓮が描いたこの庭を囲むからたちだけが、どうしても花に成らない。
ひばりは眉根を寄せて、視線ですぐ向かいにある緑にぽつりと残されたささやかな白いそれを示した。
もう春だ。次の春が来てしまった。
あれきり、雀蓮とは会っていない。
ひばりは毎日この邸にいた。それでも雀蓮がこの邸を訪ねてくることは一度たりとてなかった。
元気ならば、彼は必ず、戻ってくるはずだ。
忘れることなどできなかった。会いたい思慕だけが積もって、喉をつまらせた。
夏は暑かった。白かった肌を焦がしながら、それでも接ぎ木をした。
秋には、いずれまろい橙色の実をつけるはずの枝を、丁寧に剪定した。
冬は雪で凍えないようにと、必死で守った。
そうして来た、春である。
花が咲いたら。花が咲いたら……彼がこの庭に戻ってくるような、そんな予感がするのだ。
だからこそ、焦るような気持ちで、花を待っていた。
「なあに、桃栗三年柿八年、と言うだろう」
祖父は明るい声で、車椅子に座したまま隣に立つひばりを見上げて微笑んだ。
この一年で彼の身体ももう随分と弱っていて、だからこそひばりは、彼にもまた、あの花が咲く庭を、もう一度、見せたかった。
彼が愛していた人が愛したというこのからたちの咲く庭を、もう一度見せてあげたかった。
雀蓮に対してとはまるで違う思いではあったが、柔らかい気持ちで、ひばりはこの祖父をもまた、愛していた。
「やがて咲くだろうて。きっと、咲くよ」
ぽんぽんと、車椅子のへりを支えていたひばりの手の甲を、皺だらけの手がなだめるように撫でていった。
「ありがとう、ひばりさん。……ありがとう……」
祖父はしゃがれた声でそう言って、いま見たばかりの景色を刻み込もうとするかのように、目をゆっくりと閉じた。




祖父を自宅へと送り届けた後、ひばりはもう一度、枳殻邸へと戻ってきた。
空はいつしか焼けて、あの赤い色をしていた。
ああもう、一年が経ってしまう。
この色をした夕暮れの空気を胸に吸い込んだあの日から、一年だ。
ひばりはいつかもそうしたように、縁側へと腰掛けると、そのまま身体を倒した。
伸ばした両手の、指の間から透ける空は絵の具を溶かしたように赤く染みて、いつかの日と同じように、またあの時間が来るのだと、ひばりに教えた。
ふいに、違和感を感じた。
いつかと同じ指の隙間からの光景なのに、何かが違う。
----指輪だ。指輪が、ない。
「まさか……!」
ひばりはがば、と身体を起こして、左手を見つめた。すっかりと陽に灼かれた手は、かたかたと震え始めていた。
いつからだろう。あれほど大切だった形見の指輪をこの一年、すっかりと忘れてしまえていた。
最後に見たのはあの夜だ。あの、火事の夜、雀蓮がこの指に填めた。
青ざめたままで、背後のアトリエを振り返る。
アトリエはすっかり一年前のままに修繕され、雀蓮の姿だけが足りない。
燃え残ったいくつかの家具のうち、ひとつ、古びた金庫があったことをひばりは記憶していた。
這いずるようにして和室へと入り、金庫を捜す。
押入の奥あたりにひっそりと置かれ、埃をかぶっていたそれを取り出すと、力をこめた。
鍵はかかっていなかった。
中にはたったひとつ、くしゃくしゃに皺を作り、丸まった和紙があった。
「…………!」
ころりと、出てきたのは指輪だった。
和紙には墨で一筆、『ひばりへ』、と、書かれていた。
----あんなにも探しても見つからなかった彼が、こんなところにいた。
「……これを……取りに、戻ったのね……?」
指輪は薄汚れ、すっかりその翠玉の輝きを失くしてしまっていた。
ひばりはいまのいままで、自分がこの指輪をあの日、燃え落ちる邸に落としていったことなど、忘れていた。
あの夜、最後に見た雀蓮の表情が唐突に蘇る。彼はひばりの手にこれがないことに気づき、そして。
「これを私に、返すために……」
指輪を残したのが、祖父であるはずがなかった。
祖母の形見というこの指輪がひばりに受け継がれたことも、祖父はきっと知らなかったはずだ。
「雀蓮……!」
握りしめて胸元に寄せたひばりの手の甲に、ぽつぽつと涙が落ちる。
絵を描き上げ、指輪を遺し、松山雀蓮は消えてしまった。
取引だったはずだった。
絵が描き上がるまでの。指輪を返してもらうまでの。
その指輪が戻ったいま、もうきっと、雀蓮とは二度と会えない。そんな予感がしてならない。もう会えない。
----彼は本当に、いなくなってしまった。



その夜のことである。電話が鳴った。



病室はからたちの花の色をして、祖父の死を待っていた。
ひばりの到着に、祖父はうっすらと瞳を開け、そうしてぎこちなく微笑んだ。
「からたちが、さいた……」
ゆっくりとした口調だったが、はっきりと祖父はそう言い、そうして手を伸ばした。
ひばりは一度目を見開いた。まだからたちは咲いていない。けれど何も言わず、その手を両手で包むようにして握る。
「さいた、ら、おまえにあえる、おもっていた」
強い指がぎゅうと握った。
祖父の指がひばりの指輪を確かめるように撫でた。
灰色になった瞳はどこか遠く、愛おしそうに細められてひばりを向く。
そのことで、ひばりは彼が自分と祖母を混同しているのだと気づき、けれどこくりと頷いた。
「わるかった」
握りしめた手にふわりとかかったひばりの長い髪を、祖父の震える指がそっとつまむ。
「きれいなかみなのに、きってしまった」
ひばりはまた少し目を見開いて、けれど無理に微笑った。
いつか祖母も、自分と同じように髪をからたちにとられて、祖父に切られたことがあったのかもしれない。
「いいのよ」
優しい声で、囁くように言った。
その微笑みは、雀蓮が描いたひばりのものだった。
赦しているのだ、と、ひばりの瞳が祖父に伝えた。
「しあわせ、だった、か」
それはもう声にはなってはいなかった。
一年前、枯れたからたちを見ていた祖父の表情が蘇った。
ひばりは一度目を閉じて、雀蓮を思う。
「しあわせだったわ」
微笑めば祖父は安堵した子供のような表情をさせて、呼吸を楽にさせた。
皺の寄った手を、強く握りしめた。
「愛してるわ……」
雀蓮に伝えたかった言葉。ついには伝えられなかった言葉。
ずっと声にしたかったそれが、噴き出すように喉から零れた。
どうしていまその言葉を発したのか、ひばりにもわからなかった。
涙で滲んだ祖父の輪郭が、雀蓮と重なってひどく懐かしく思えたせいか。
手の中の体温は、緩やかに失われていこうとしていた。
目元の皺を深く刻ませて、祖父はもう一度微笑んだ。
『ありがとう、ひばり』
唇だけで、彼はそう言った。
そうして閉じた瞳が開くことは、もうなかった。