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  八.  


あの火事から程なく、あの邸へ続く坂は厳重な柵と扉とで封鎖されてしまった。
----雀蓮の遺体は、見つからなかった。
ならばどこか病院に収容されて、行方がわからなくなっているのだろうと、邸の周囲の人間に雀蓮について聞いても、様々な方法で彼を捜すことを試みても、"松山雀蓮"という人間など知らない、という答えが返ってくるばかり。
……当然かもしれなかった。
思えば、ひばりは彼の本名すら、知らないのだ。
松山雀蓮、という名が、筆名でないはずがなかった。
遺体がない、ということが唯一の救いとして残されてはいても、だからといって、彼の総てを忘れらろうはずもなかった。
躰の奥には、まだあの日、彼が遺していった熱が燻っている。
そうして今日もまた、手がかりのないままに邸へと続くあの坂道へと訪れたひばりを呼び止めたのは、いつか「お化けが出るよ」と忠告していったあの老婆だった。
「ひどい火事だったねえ。死人が出なくてなあ、ほんによかった」
老婆が顎をあげて邸の方を見やったので、ひばりも坂を振り向き、見上げた。
人を拒絶するような鬱蒼とした竹藪と林に囲まれ、ぽつりと灯りもない黒い屋根がのぞいている。
「あんた、前にもあの邸に行ったようじゃけど、なんか用事でもあるのかい?」
「人を、探しているんです。あのお邸に住んでいた……」
「あの邸に?まさか、まさか」
老婆はひばりの言葉を、ゆっくりとした動作で手をひらひらと振って否定した。
「昔はなんとかっちゅう画家の先生が住んでたらしいけんども、いまはずうっと廃墟でなあ」
「その人、松山雀蓮という画家ではないですか?」
迫るようなひばりの表情と声にも、老婆は尚もゆったりとした所作のままで、記憶を辿るように首を傾げる。
「さあて、名前まではわからんが……そうさの、誰があの邸の持ち主かくらいは調べてやれると思うよう」
「本当ですか!?」
それは初めての進展だった。すっかりと腰を曲げてひばりの身体半分ほどの小柄な老婆は、ついておいで、というふうに手招きをすると、また坂を下っていく。ひばりはそれに従った。
聞けば、坂下の小さな屋敷に住むその老婆は、このあたりの住人名簿を何十年と管理してきた家らしく、やがて差し出されたのはずいぶんと古びた帳簿のようだった。
ひばりにとっては達筆すぎて読むことが難しいその帳簿の名前に一度、目を細める。
「竹河、十郎」
声に出して、少し息を止めた。
祖父の名が、そこにあった。




「松山……雀蓮……」
縁側に向けられた籐椅子に腰掛けた祖父はそう呟いて、眉間を揉むようにして顔を覆った。
「その画家の、絵のモデルをしていたんです。それで……あの火事があって」
ひばりは縋るように祖父を見た。いまや手がかりは、この祖父ひとりきりである。
「あの邸を若い画家がアトリエにしたい、という話は聞いていたが……すまないね、私も、その画家については何も知らないんだ」
祖父はしばらく思案した後、静かに首を振った。
「でも、竹河さんがあの邸の持ち主だと聞いて……」
責めるような口調だったかもしれない。それほどに必死だったのだ。
深く皺を刻んだ目元を一度伏せたのち、祖父はひばりの手に握らせるように鍵の束を渡して、じっと見つめた。
「邸に、行ってみなさい」
顔をあげて祖父を見つめかえすと、彼はひばりの視線から逃げるようにもう一度瞳を閉じた。
「力になれなくて、本当にすまない……」
「いいえ、いいえ……!」
祖父が謝ることではない、と、ひばりは首を振って、渡されたばかりの鍵をきつく握る。
「気を、つけるんだよ。中はかなり酷い状態だと聞いているから……」
そう言って、祖父は眼鏡を上げると、もう一度目元を揉むように押さえた。




祖父の言葉通り、 邸は廃墟と化していた。
雀蓮がアトリエとして使用していた部屋の反対側に位置する、邸の右半分は木に潰されたまま、燃え落ちて原型を留めていない。
玄関を開けた手にはべっとりと煤と灰とがついて、それをひばりはごしごしとスカートで拭った。
奇妙な話だが、玄関からこの邸に入るのは、思えば初めてのことである。
広々とした玄関ホールから、右手側に二階へと通じる階段が伸び、けれど今やその階段も、燃え落ちていた。
外は酷い状態だったが、中に入ってみれば、燃え落ちているところと無事に残っているところの差異は激しく、時間と金をかけて修繕すれば、なんとか住むことができるまで、回復が期待できるのではないかと思えた。
そうして玄関からまっすぐに続く広い廊下のつきあたりに、あのアトリエはあった。
「…………っ」
あちこちが焼け焦げ、汚れ、また、消火の際の水で酷い有様ではあるが、ひばりが過ごしたあのときのまま、アトリエは、在った。
けれど足りないものがふたつ。
雀蓮と……そして、あの絵だった。
「雀蓮……」
名前を呼ぶ。応える声はもうない。それでも、ひとつの希望がひばりの胸の内に生まれた。
……雀蓮は、きっと生きている。
無事に絵を持ち去って、どこかにいる。そうしてきっといま自分がこうして彼を捜しているように、彼もまた、自分を捜してくれているのではないか----。
絵がこの部屋から失われていることで、むしろそう信じることができた。
それでも雀蓮の本当の名を、ひばりは知らない。
彼もまた、ひばりが本当は "一雀" と書いて "ひばり" と読ませる珍しい名なのだと、知らない。
「雀蓮……」
名を呼べば、尚さみしかった。けれど不思議と、涙が出ることはなかった。
「会いたいわよ……バカ!」
胸をかきむしられるような、のたうちまわるようなたまらない心地に、ひばりは悲しむよりむしろ、いま彼がここにいないことが、腹立たしい。
初めて彼に会ったときもそういえば自分は怒鳴った。
怒るのも笑うのも、思い起こせば、雀蓮が相手だったからこそ。
大きく一度息を吐き出して、縁側に続くひび割れたガラス戸を開ける。
からたちは燃え尽きて、もう緑を失っていた。
残されたそれらも根がやられてしまったのか茶色く変色し、もう生きてはいないことを示している。
雀蓮がいまここにいたら、からたちを失ったことを、共に悲しんでくれるだろうか。
そんなことを切なく思ったときだった。
足音が近づいて、生け垣の向こうから、人影が来る。
……期待しないはずがなかった。けれど。
「これは……ひどい」
「竹河さん……」
心配になってね、と、祖父は縁側に腰を下ろした。
現れたのが雀蓮ではなく祖父だったことに落胆したことで、改めて、どれほど自分が彼を求めているかを改めて、悟らされる。
祖父は縁側にゆっくりと座り、ぐるりと庭を眺めて、ああ、と声を漏らした。
「からたちが、枯れてしまった……」
本当に残念そうに、ぽつりと祖父が言ったその言葉に、ひばりは、迫り上がってくるものを止められなかった。
「…………っ!」
枯れてしまった。からたちが、枯れてしまった。
雀蓮と出会ったからたちの生け垣が。彼が描いたからたちが。
祖父の一言は、雀蓮がいまここにいても同じように言ってくれただろうと……まるで雀蓮に言われたように思えて、声をあげて、ひばりは泣き出してしまった。
「……っ……ひっ……!」
縁側に膝をついて、子供のようにしゃくりあげながら泣き出してしまったひばりの頭を、祖父はまるで子供の頃からそうしてきたかのように、そうっと撫でてくれた。
その暖かさがいつかの彼の手とよく似て、なお泣ける。
何度も、何度もそうして、やがてひばりが落ち着きを取り戻した頃、彼はしゃがれた声で言った。
「妻がこれを見たなら、同じように泣いてくれたんだろうね……。彼女はこのからたちをとても大切にしていた」
「お祖母さんが……」
祖母という人はひばりが生まれる前に亡くなっていた。
だからひばりは祖母を知らなかったが、母が時折祖父と同じ表情をして、ひばりに話してくれることがあった。
ふいに、高い歌声が遠くから響く。聞き慣れない鳥の声だった。
美しくさえずるそれに、祖父とひばりは同時に遠い空を見やる。
「……やあ、めずらしい。ヒバリが来るなんて」
そう言った祖父の横顔に、いつかの雀蓮の横顔が重なった。
----うらうらに照れる春日にひばりあがり、情悲しも独り思へば----
いつだったか、雀蓮が諳んじた句を、思い出す。
思い出せば一層会いたい。
身体を抱きしめるようにして 両腕で肩を抱いたひばりの頬に、長い睫毛が影を落とした。
「大切な、人だったのかい……?」
「……大切といえるほど、私たちは一緒にいたわけでは、なかったから」
それでも、彼にだけ見せられた顔があった。
その燃える目をした男を、どうして忘れられるだろう。
「火事の夜、彼は、絵を取りに戻ったんです
あの夜のことを人に話すのは初めてだった。九雀にさえ言わなかった。
再び邸に入って絵がないことで生まれた希望とともに、もうひとつやってきたのは絶望。
やはり彼は自分よりも絵を選んだのだと。
ひばりは眉根を寄せたままの泣き笑いのような表情で、祖父を見た。
「絵を取りに、戻ったんです」
もう一度繰り返して言えば、祖父は傷ついたような顔をして、瞳を曇らせた。
「……ごめんなさい、変な話を」
「いいんだよ。いいんだ……」

そう言って彼はまた安心させるようにゆっくりと、皺の寄った手のひらでひばりの頭を撫でた。
私も少しいいかな、と、祖父は静かな眼差しのままに口を開いた。
「……からたちを見るたびに、時々思っていたことがあってね」
祖父は遠い目をしていた。どこか寂しそうに見えた。
「妻と出会ったのは、ちょうどからたちの花が咲くころで」
つい、と視線を庭の端あたりへと向ける。ひばりもそれを追った。
ひばりと雀蓮が出会ったのも、ちょうどあのあたりだった、と思えば、あのときは瑞々しかった青葉が失われたことが切なかった。
「かけおちのように、一緒になった」
祖母についての話を祖父から聞くのは、初めてのことだった。
「けれど果たして、彼女は本当に幸せだったのだろうか、と……いまでも思うんだよ」
何かを悔いている、横顔だった。
「このからたちが咲かなければ、もしこのからたちが----あんなに美しくなかったなら」
そう言って、祖父はしばし黙った。彼の目の前にはもしかしたらいまも、まだあの緑が広がっているのかもしれなかった。
「だから……からたちは……枯れてよかったのかもしれない」
額のあたりに手をあてて、思い悩むような表情をさせた祖父の言葉は、ひばりを一層寂しくさせた。
「そんなさみしいこと、言わないでください」
ひばりはそっと、祖父の肩に手をあてた。
ああ確かに自分も、もしからたちが咲かなかったならば、雀蓮と出会うこともなかったかもしれない。こんな胸が潰れる思いもきっとなかった。
それでも、それでも。
「幸せになりたくて愛したわけでは、なかったんですよ。私も」
ひばりはようやく微笑むことができた。
あれは、激情だった。あんなのたうちまわるようなたまらない思いを、ひばりは知らない。
「……幸せ、だったのでしょう?お祖父さんは」
初めて名前ではなく、おじいさん、と呼んで彼を見た。
今度こそにっこりと、目を細めて笑った。
「ははははは」
試すようなひばりの視線に、かなわないな、と言いたげに、いかにも愉快そうに祖父もまた笑った。
「そうだね、そうだった……」
ひとしきり笑った後、眼鏡を上げて、目元を抑える。
「……愛していたよ。愛されてもいた。彼女が亡くなるまでずっと……出会った頃からね」
目元を抑えたまま、口元に笑みの形で刻まれた皺は深いままで、穏やかな声が、そう言った。
「とても、幸せだった」
それだけ言って、黙った。
またしばらく、燃え落ち、枯れてしまったからたちの葉が擦れる、かさかさという寂しい音だけが、沈黙したままのふたりの間を過ぎてゆく。
先に口を開いたのは、ひばりだった。
「彼に……会いたいわ」
「そう、だろうね」
ひばりはかたく瞼をとじた。祖父の静かな声が、包むように響く。
生きているのか死んでいるのか、どこにいるかさえ、わからない。
「ひっぱたいて……やりたい……」
結局のところ、雀蓮はひばりよりも絵を、あのひばりの絵を、選んだのだろうか。例え自分が命を失い、ひばりに彼を失わせることになったとしても、あの絵を。
自分は結局、彼にとっての絵という存在に、敵わなかったのだろうか。
それが悔しい。
置いてゆかれた自分が惨めで哀れで、彼の不在がとても、寂しい。
それでも、それすらどうでもいい程に、いまは彼の無事な姿が見たい。
いくつもの感情が、入り混じり乱れては、溢れる。
それでいいんだと、彼はいつか言ってくれた。
人なんてそんなもんだと、笑い飛ばした彼の、あの笑顔に会いたい。
「……からたちを、植えるといい」
突然の祖父の言葉に、ひばりは顔をあげた。
「花が咲いたら、もしかしたなら彼に会えるかもしれない」
願掛けのような話だがね、と、祖父が明るく笑ったので、ひばりもつられて自然と笑顔になった。
ああ、本当にそうかもしれない。
「なにより、私が一番見たい」
彼はそう言って、もう一度からからと笑った。
祖父からしてみれば、両親に続いて愛する人までも失ったひばりへ何か生き甲斐を、という気遣いだったのかもしれない。
そして、それは確かに正解だった。
ずっとかたく閉ざしていた瞳を開けば、そこには空の青が鮮やかに映っていた。