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  七.  


やがて幸福感を溶かした浅い眠りから呼び戻したのは、鼻をつく、厭な匂いだった。
「雀蓮……?」
呼んでみても、声が夜に吸い込まれてゆくだけだ。
代わりに耳を澄ませば、遠くで喧噪が聞こえた気がした。
縁側に出て、空を見る。 奇妙な変化に気づかされた。
生け垣に囲まれた庭のむこうは竹藪で、その奥は山のはずだ。
夜明けまではまだ時間がある。山の向こうに人家はない。
それなのに、この空はどうしてこんなに明るいのだろう。
気づけば、ぞくりという寒気が来た。
真っ暗なはずの夜空が、やけに赤灰色の、厭な色に染まっている。

ひばりは裸足のままで庭に立つと、邸の玄関の方へと走った。
邸の周囲は、鬱蒼とした竹藪と細い道、そうしてゆるやかな長い坂が伸びている。
見渡しても、雀蓮の姿はどこにもなかった。
春といえど、袖のないワンピース一枚では震えがくるはずだ。それなのにどうしてこんなに空気が熱を含んでいるのだろう。
裸足のままの足は擦れて痛んだが、そんなことももう忘れていた。
「雀蓮!」
呼んでみても、声が夜に吸い込まれてゆく。
細い道を縁取るような枸橘の生け垣に、ほとんど白い花は残っていない。
錯覚ではなかった。鼻をつく、何かが焦げる匂いが空気に満ちている。
----火事だと悟れば、全身をびり、と電流が走った。
邸を囲む生け垣へと戻り玄関を開ければ、その悪寒はくっきりとした恐怖に変わった。
「雀蓮!いないの!?」
邸の中には既に煙と熱とが充満していて、火がこの邸にまで及ぼうとしていることを示していた。
頬を、次第に近づいてきている熱がちりちりと刺すように舐めていく。
「雀蓮!」
視界の悪い玄関を出て、庭へと続く生け垣を抜ける。その先には縁側と、さっきまでいたあの部屋がある。
空を赤く焼いている熱はどんどん温度を増して、口を塞いでいなければもう息をするのもつらい。
自分が寝ていた間に、そしてまたこのたった数十分に、何が起こったのか。
「!」
邸の角、生け垣を抜けるあたりで、人影にぶつかった。
「ひばり!……大事ないか!」
突然に肩をつかまれ揺すられて、ひばりは瞬間、何が何だかわからなくなる。雀蓮だ、と気づくまでに少しの時間を要した。
「これ、何!?一体何処に……」
「裏山から火が出て、このへんの人間で消火に回っとったけど……あかん」
ひばりが問うより先に、雀蓮が捲し立てるように言った。
ひどく興奮している彼は煤だらけの顔や手で、ひばりの顔や肩を確かめるように掴む。
「あんたが無事で……よかった……」
強く強く、抱きしめられた。ひどく安堵した溜息とともに吐き出すような声だった。
ひばりもまた、雀蓮を見つけたことに安堵はしたが、すぐに、彼の背の向こうに見える空を焦がす目が眩むほどの炎に、意識が研ぎ澄まされる。
「ダメって……どういうこと?」
「火の勢いが強すぎて、消火が間に合わへん。避難した方がええ」
青ざめたひばりに、真剣な顔に戻った雀蓮が振り返るようにして早口で言った。
ごうごうという火の手が迫る轟音と、その向こうで大勢の人間の喧噪。
「避難……?この家は?」
「燃える」
きっぱりとそれだけ言って、雀蓮はひばりの腕を掴むと、いまひばりが駆けてきた道を早足で戻ろうとした。
「だって!荷物とか……あの絵は……どうするのよ!」
もう話しているのも辛いほどに、煙が濃さを増している。
ちりちりと肌がひりつくような痛みを伴う熱が、躊躇している猶予などないのだと、知らせてはいた。
「絵なんざまた描ける!!」
初めて聞く、雀蓮の怒声だった。
ひばりの腕を掴んだ手に一層の力がこもって、もはや有無を言わさずに雀蓮は駆け出すようにして、生け垣を抜けた。
「雀蓮!」
雀蓮はそれきり、振り返らなかった。
ただ腕に込められた力が、本当は、ひばりより誰より彼自身が、残してきたあの絵を惜しんでいるのだと叫んでいるように思えて、ひばりは何度も何度も振り返る。
生け垣を抜け、邸の門を出ようか、というところだった。
メキメキという耳を裂くような厭な音とともに、空から何かが降ってくる。
燃え落ちた木だ、と気づいた次の瞬間には、地響きが身体を揺らした。
「雀蓮、からたちが……!」
叫んだひばりの肩を、雀蓮が抱き寄せる。
ひばりの震える両手を強く強く、包むようにして握った。
木は、丁度邸の右半分あたりを潰した。古い木造の屋敷だ、飢えた炎にとっては格好の餌食だろう。
ふと、きつくきつくひばりの手を握りしめていた雀蓮が、突然に何かを思ったように、表情を変えた。
一度視線を落とし、次に苦渋の表情のままで邸を見やった彼の表情は、何かを思索し、そうしてやがて決意のそれへと変わる。
「……ひばり。ひとりでも、このまま坂を下れるな?」
低い低い、煙に枯れた声だった。
「雀蓮……なに……」
「ちいと、わすれもんしてな」
眉根に深い皺を刻んだままで、それでも雀蓮は、笑った。
その背が、その輪郭が赤く燃えている。
「ええか、どんなに俺が遅れても、絶対に探しにこんといて。絶対や。ええな。必ず、戻るよって」
「だけど……!」
雀蓮の両手がぎゅうと、きつくきつくひばりの肩を掴む。
「待っとるって、約束、できるな?」
瞬間的に、凄まじい恐怖感が降りてきた。
なんだかもう、このまま雀蓮が帰らないのではないかという恐怖。
ひばりは雀蓮を見た。雀蓮もまた、ひばりを見ていた。
頷くことは、どうしてもできなかった。
「すぐ戻る」
短くそれだけひどく静かな声で言って、雀蓮は踵を返した。肩から雀蓮の重みが消えていく。振り返らない。
駆けだしてゆく雀蓮の背を、邸を包んでいく炎が赤く照らす。
彼はもう、赤を失ったのではなかったか。
「雀蓮!」
叫んでも、もう雀蓮の姿は煙と生け垣の向こうに消えてしまっていて、ひばりはただ、立ち尽くした。
「雀蓮……っ!」
邸が燃えてしまう。
からたちが、燃えてしまう。
それにしても厭な音だ。
雀蓮は火の中に行ってしまった。絵はまだ燃えずに残っているだろうか。
きっとすぐに、戻ってくるはずだ。 すぐに。
煙に誘われた涙が頬を伝って、それをぐいと拭えば、煤で真っ黒に汚れていた。
……泣いてなどいられないのだ。大人しく待っていてなど、やるものか。
坂の下には、ぽつぽつと人家の灯りが見える。
ひばりは邸と反対の方角、坂を駆け下りることを選んだ。
雀蓮はきっと、戻ってくる。放っておいたって、勝手に戻ってくる。
ならば、いまは人を集めて、火を消さなければならない。
最後に見た視界に、邸の奥、ひばりが髪をつかまえられたあの枸橘が、炎に包まれる姿だけが映った。



裏山と、邸の半分を剔っていった火事は、夜が明ける前に収束を迎えた。
雀蓮は、戻らなかった。