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  六.  


いつのまに寝てしまっていたのだろう。
身体を起こしかけて、肩口に雀蓮の服がかけられていることに気づく。そうして、その下の自分の身体が裸のままだということも思い出した。
雀蓮の服をたぐり寄せるようにして身を起こすと、ひばりは彼の姿を探した。
外はシンシンと更けて、夜の音しか聞こえない。
隠れるようにして服を着て、部屋を見渡す。けれど、家の中に人の気配はなかった。
ふと壁のあたりに、見慣れない大きさの、布がかけられた板状のものが立てかけられていることに気づく。
そっと歩み寄って、布を落とした。それは描いたばかりというふうの、まだ完成されてはいない、一枚の絵画だった。
最初に見た彼のあの赤い紅葉ではない。次に見た、空を仰ぐ自分の姿でもない。
一面の、緑。
「……!」
それはひばりが恋い焦がれた、あの松山雀蓮の『枳殻邸にて』とそっくり同じ絵で……けれど、違っていた。
万緑の葉を背にして、女がこちらを振り返っている。
枸橘の緑と、そうして白。葉の隙間からのぞく空の青。
振り返る彼女は手のひらに無数の細やかな白い花を、こぼれ落ちんばかりに抱えて、それを絵のこちらにいる、誰かに差し出そうとしているのだろうか。
その髪には白い花が悪戯にからまって、けれど彼女は……微笑んでいた。
赦しているのだ、と、その表情が言っていた。
こちら側にいる誰かを、彼女は赦している。こちら側にいる誰かに、心を許している。
描いた人間に対しての、描かれている人間に対しての、愛おしさがこぼれ落ちるような、眩しい白の笑顔。
----たまらない。
「…………っ」
私が、描かせた。
私が松山雀蓮に、この絵を描かせた。私でなければ彼は描けなかった。
そう思えば思うほど誇らしいのに、こんな自分を彼が描いてくれたことがこんなにも嬉しいのに、どうしてこんなにも、喉が、胸がつまる。
彼の絵はもう赤を失って-----彼は、"松山雀蓮"を取り戻したのだ。
「いい……絵やろ?」
声に振り向けば、雀蓮が柱にもたれるようにして、立っていた。
「ひばり、ありがとうな」
そんな言葉を、そんな表情で言うのか。
ひばりは首を振った。首を振ることしかできなかった。
喉がつまる。言葉にならない。
「ありがとう」
雀蓮が、ひばりの手をとって、その手のひらに何かを乗せた。
……指輪だった。
ああそういえば、これは取引だったのだと、今更になって思い出す。
何か言えば終わってしまいそうな気がして、それをぎゅっと一度握って、そうして開いた。
「填めて……くれる?」
終わりの予感に、声が震える。
雀蓮もまた無言で、恭しくそれを摘むと、ひばりの手の甲を包むようにした。左手だった。
薬指に、吸い込まれるようにして指輪が通ってゆく。
緑の翠玉。
祖父が祖母に贈ったという、いまや母の形見でもあるそれ。
雀蓮の背の向こうで、幸福な自分が微笑みかけている。
その絵が、指が取り戻した指輪の重さが、あなたの役目は終わったよ、と、優しくひばりに教えた。
「雀蓮」
ひばりは顔をあげて、ようやく名前だけ、呼んだ。
「ん?」
憔悴してはいるが、けれど柔らかい瞳がひばりを向く。
相変わらず喉はつまって、うまく言葉が出てはこない。
「これを描いている間……どんなこと、考えてた……?」
怖れるように問うたひばりを、雀蓮は真っ直ぐに見つめ返した。
「……あの絵見て、わからんか」
雀蓮がくすりと笑う。そして、しばらく黙った。
彼は書き上げたばかりの絵を振り返る。
見とれるような、遠い目をしていた。
「ええ女やなあ、世界中どこ探してもおらんなあ、そんなふうに」
冗談めかして言って、笑う。ひばりもつられてくすりと笑えば、細めた目の間から、涙が落ちた。
思えば、怒らされたり泣かされたり笑わされたり、本当に、忙しい。
むしろ泣かされてばかりいる。もう長いこと、両親が死んだときでさえ、泣くことができずにきたのに。
「なんや、ほんまにあんたベソかきやなあ」
仕方がない、というふうに笑って、雀蓮の両手がひばりの頬を包んだ。
見つめた先のその瞳に、いまはあの赤は見えない。優しい色をしていた。
「……愛しい愛おしいて、思っとったよ」
ふれたくちびるは、痺れるような熱だった。
頭の奥がくらりと眩んだ。
一度重ねてしまえば、止まらなかった。
「雀蓮…っ!じゃく、れ…っ」
飢えているように、唇を貪った。飢えていたのかもしれなかった。
ずっと触れたかった唇は柔らかい熱をもって、甘い舌がひばりのそれを吸っては絡み取る。
「……っ!」
しなやかな躰が、ひばりの上で幾度と跳ねた。
やがて貫かれたそれは、やはり熱く熱く、掻き抱いた背中に爪を立てれば、雀蓮は寄せた眉根のままで、にやりと笑った。
不意に途切れた息の最中、雀蓮がぽつりと、けだもののようだ、などと言うので、ひばりはそうね、と、くすりと笑った。