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  五.  


両親が亡くなってのち、私たちがひきとられた先の祖父は、元々は父が師事していたという画家だった。
名を、竹河といった。
「竹河さん、姉は?」
私はこの年になってから突然その存在を知ったこの祖父という人を、おじいさん、と呼ぶことがどうしても躊躇われて、このように呼んでいた。
祖父は穏やかな人だった。
「さっき出かけていったようだが……」
そう言って玄関の方角を見やった祖父の視線を追った。
姉はここのところ随分と、元の明るさを取り戻したように見えた。
祖父という安堵できる存在が現れたという理由だけではないはずだった。
私は微かに微笑んで、ふと、祖父が手にしているものに目をとめた。
「それは……?」
「ああ、さっき納戸を整理していてね」
祖父はその深い皺の刻まれた目尻を緩めて、手の中の何枚かの絵画を撫でた。
「君たちのお父さんから、時々送られてきていたものだ。君たちが生まれて以来会うこともなかったが……時折こうして手紙をくれていてね。これは彼の若い頃の絵、そして……これは、ひばりさんか君か、どちらかの絵だろう?」
「姉の絵です」
私は父の血を継がなかったのだろう、絵の才能というものはからきしなかった。
二枚の絵はどことなく似通っていて、どちらも素人目で見れば、はっとするような秀逸なものに思えたが、いまや そのどちらもが、筆をとることはない。
ふと、その二枚の絵の下に、もう一枚、古びた皺だらけの絵があることに気づいた。
「それは……?」
「ああ、これは私が若い時分、描いたものだね」
そこには、緑の茂みに揺れる白い花々が描かれていた。
「からたち……」
私はその花の名を、呟いた。
私が愛した、花だった。





庭のからたちが、ひとつ、またひとつと、土に落ち始めていた。
春が、逝きすぎようとしていた。
雀蓮の筆は止まらなかった。
完成を間近にして、加速しているようにさえ思えた。
そして……彼がその手を動かせば動かすほど、絵が完成に近づけば近づくほどに、自分たちは遠くなっていくのだと、ひばりは思った。
----いっそ、あの絵がなくなってしまえば。
絵が描きあがらなければ、雀蓮にずっと会える。
そんなことが頭をよぎるたびに、両親の時と同じく、自分が随分と浅ましいもののように思えて、ひばりは喉の奥がくっと締めつけられるような心地になるのだった。
と、突然の紙を裂く音に雀蓮を向けば、筆を持った片手で頭を抱え込むようにした雀蓮が俯いていた。
「どうしたの……?」
「いや」
見れば、畳には何枚も何枚も、ぐしゃぐしゃと、丸められた和紙が転がされている。
がくりと落とされた肩からは、まるで生気が抜けていくかのようで、しかし空気は張りつめて、春のそれとは思えないほどに冷えている。
「あかんなあ……。描けへん」
暗い声が冷えた部屋に響いて、それきりシンと音を無くした。
「描けない……って……」
ひばりは畳を擦るようにして、雀蓮が向かっている水張りのキャンバスを見る。そこには紙の白だけ。
床には何枚も何枚ものひばりが散らばって、様々な表情を、姿をしているのに、何かが欠けているように感じられるのは、気のせいではないはずだ。
ひばりの知る、そしてこの目の前の"松山雀蓮"の描いた絵画には、見る人間を圧倒するような生命力と生気があるはずだった。
それが、デッサン画にすら宿っていない。----致命的だ。
「……足らんな。なんやろな……何が足らへんねん……」
呻きのような呟きだった。
焦燥する雀蓮の姿を痛ましく思うのに、けれど同時にどこかで安堵もした。彼のような画家ですら、自分と同じ苦しみがあるのだと。
そう感じれば、救われるような心地になって、またひとつ、呼吸が易くなる。
「………………」
どうして彼が、自分を思うように描くことができないのか----
ひばりには、ある直感のようなひらめきがあった。
ちらりと目をやれば、過日、ひばりが強引に巻いた雀蓮の左手の包帯は、既に墨で汚されていた。
彼はあの日あの後、炎を味わった右手で炎を描いた。
鮮やかな、赤だった。
「…………」
ひばりは思い出すように目を閉じて、少しの息を吐き出した。
「……ちょっと、目を閉じていてくれる?」
そう言って、ごくりと喉が鳴った。少しの決意が必要だった。
それでも……私は見たいのだ。
彼が見せたいと言った、私でなければならないと言い切った、その絵を……見たい。
「こうか?」
疑わしそうに眉根を寄せた彼は、それでも意外なほど素直に、ひばりの言葉に従った。
机には、雀蓮の左手に巻いた残りの、包帯というよりはただの白い布であるそれが投げ出されたままで、ひばりは手に取る。
両手で挟むようにして広げた布を、そっと雀蓮の目元にあてる。
ぴくりと彼は身体を動かしたが、ひばりの行為に抗うことはしなかった。
雀蓮の目をぐるりと覆って、頭の後ろできゅっと結ぶ。
「なんや?なんかのまじないなん?」
「もう少し、そのままでいて」
巫山戯るように笑った雀蓮を留めるようにそう言って、ひばりは自分のワンピースのジッパーに手をかけた。
一度指をかけてしまえば、それを下ろすことに勇気は要らなかった。ただ布擦れの、しゅるりという音が妙に生々しく耳に届く。
春とはいえ、やはりまだ、あらわになってゆく肌は微かに粟立つ。
「ひばり?」
「もうすこし」
丁寧に、ワンピースをたたんだ。
緊張で、胸が上下しているのが見てとれた。
「目隠しは、取らないでね」
雀蓮の正面にきちんと正座したひばりは、そう告げて、彼の手をとった。
自分が施した包帯を、するすると解いてゆく。
手のひらは、僅かにただれていた。
どれほど熱かったろう。痛かったろう。
導くようにして、雀蓮の手のひらを、そっと自分の頬に押しあてる。
熱いかと思われたそれは、ひんやりと冷たかった。
突然の質感に、ぴくりと雀蓮の指が動く。
「な、なんや……」
「私を、描いてくれるんでしょう?」
声は震えていたかもしれない。
両手で雀蓮の手を導くようにして、頬から首筋へ、そして、鎖骨へ。
「見せて……くれるんでしょう、私に。あなたの、私の絵を」
確認のように、それだけ言った。それだけ言えば充分だと思ったからだった。
「……ああ」
そうしてやはり、彼はそれに応えた。
いままで導かれるままだった手に、力が満ちてゆく。
指先は張りを取り戻し、鎖骨の輪郭を皮膚の上からなぞる。そして肩へ。肩の筋肉を確認するようにぐっと掴まれる。ぞくりと、指先から熱が放たれる。
手は腕を滑り落ちてゆき、爪のひとつひとつを確認するように撫でて離れた。そうして、左肩へ。
ついには胸へ。
「……!」
鎖骨の下からなぞってきた小指の腹が、乳首を弾いて、ぴくりと雀蓮の眉が上がった。
よもや雀蓮も、予測していなかったのだろう。
ひばりは下着さえ、着けていなかった。
「つづ……けて」
しんとした部屋の中で、声は震えていた。寒さからだと、ひばりは自分を誤魔化した。
指の腹が、乳房の形にそって再び動き出す。親指と人差し指が、先端をつまむ。
それは固くなっていた。 寒さからだと、ひばりは言い聞かせるように思った。
----奇妙な光景だろうと思う。
目隠しをした男が、裸の女の肌を撫でている。愛撫ではなく。
そう、愛撫ではないのだ。
彼の指が筆ならば、自分はただ一枚の、紙。
「……っ」
だのに、どうしてこんなにも声を漏らすことを躊躇う。
雀蓮の手は、ひばりの体温を吸い取って暖かかった。それが脇腹を越えて背中を抱く。
抱きしめられれば、目が眩むような夕陽が雀蓮の背の向こうに見えた。
肩甲骨を、背骨を、ひばりの身体の部品ひとつひとつを、雀蓮が確かめていく。
「……っう」
「こそばいか?」
ひばりは首を振った。揺れた髪が、彼にそれを伝えたはずだった。
彼が自分を、この女だと思ったのなら、私を知らしめたい。
いま触れている皮膚の下に、流れる温かい血液がある。指が滑るたびに、収縮する筋肉がある。
あなたが描こうとしているのは、人間の、女なのだと。
「ああ……温いな」
ひばりの心を読みとったかのように、くすりと、雀蓮が静かに微笑んだ。
それだけでもう、目眩がするような心地になった。
抱きしめられたままで、そっと横たえられる。
慎重に、のしかかるような体勢で、雀蓮がひばりの臍のあたりに手を伸ばした。
数秒の躊躇のあと、茂みに指がうずまる。ひばりの身体がびくりと跳ねた。
「…………っ」
自分の指を噛むようにして、喘ぎを殺す。
濡れているであろうことなど、触れられなくてもわかっていた。
雀蓮の指が、泥濘に沈む。ぬるりとした質感の指は熱い。
「っ……、ぅ……!」
軽く膣口に挿し込まれた。
びくびくと、太腿が震えることを止められない。
しかしすぐに指はそこを離れ、太腿に、てらてらと光る筋を残して過ぎていった。
「……ふ……っ」
ようやく息を吐き出して、噛んでいた人差し指に赤くぽつりと残る自分の歯形を見た。
いま雀蓮の指が去っていった奥が、痺れるように熱い。
女を抱いたことくらい、雀蓮にもあるだろう。
男に抱かれたことくらい、ひばりにだってある。
これはその営みでは決してないのに、けれど、肌は、心は、彼を求めている。
ひばりは目を閉じることなく、じっと雀蓮の様を追い続けていた。
白い目隠しの下で、彼はどんな色をして自分を感じているのだろう。
「……目隠しがあるんが、惜しい」
押し殺したような切なげな声で、くすりとまた、雀蓮が笑ったので、ひばりはなんだか、泣き出したくなってしまった。
ひばりは視線を、庭のからたちに向けた。横に動かした目尻から、つ、と涙が流れて畳に染みをつくった。
雀蓮の指は、もう膝のあたりにいた。
からたちの花がひとつ、またひとつと散ってゆく。
あれが総て散るころには、おそらく、もう彼に会うことはない。
絵はほどなく、描きあがるだろう。
この数日で、彼は見違えるほどに痩せてしまった。
もうあの指輪は、彼の指からすんなりと外すことができるだろう。
緑の枝にはぽつぽつと、もはや数えられるほどにしか、白い花は残されてはいなかった。