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  四.  


ひとたび筆を手にすると"彼"は消失し、代わりに"松山雀蓮"が現れる。
降りてくる、という言葉の方が正しいかもしれなかった。
瞬間にひばりを見て、そして手を動かし続ける彼はもう、"ひばり"を見てはいない。
自分が女であること、彼が男であること、ましてや自分が人間であることさえどうでもいいといった表情をした雀蓮の気迫が、ひばりの心を黙殺する。
この男に対して、どのような評価をしてよいものか、ひばりにはわからなかった。
雀蓮は無言のまま、シンとした部屋に紙を擦る音だけが聞こえている。
その指が、自分をただの色に換えていく。
見つめられればたまらぬ心地で、逃げるようにぐるりと部屋を見渡す。一体いつ建てられた屋敷なのか予測もつかない、古い家。
窓の外を見れば、からたちの葉が揺れている。
その葉を見て、ひばりは過去、松山雀蓮が唯一残したあの絵を思った。
----枳殻邸にて。
それはただの新緑の一場面を切り取った風景画であったが、緑の葉がいまにも揺れ動きそうな瑞々しさの、見ていて胸がすっと軽くなるような、優しい生命力に満ちた一枚の絵。
この目の前の男が真実、雀蓮なのだとすれば、あの絵に描かれた緑の葉は、このからたちなのだろうか。
それにしても随分と、いまの彼が描く色とは違う。
----姿を消している間に、彼に何かがあったのか。
そんなことを、ぼんやりと思った。だが、別段問い質す気にもならなかった。
もう赤に変わりつつある窓の向こうから、虫の鳴き声が、葉擦れの音がする。夜の音が近づいてくる。
邸を訪れるのは決まって夕暮れ時だった。この時間を指定したのは雀蓮だ。
「……そういえば、どうして夕方なの?」
"自由にしていてくれ"という唯一の注文のまま、畳に足を投げ出して本を読んでいたひばりが雀蓮を見れば、彼は視線をふっと窓の向こうに向ける。
すぅ、と、その身体に彼自身の魂が戻ったようにその瞳に生気が宿るのを、ひばりは見逃さなかった。
「仕事終わって、帰ってくるんがこの時間やしなあ」
「仕事って?」
雀蓮はひばりの言葉に、山積みのようになった文机に手を伸ばすと、一枚の画用紙を引っ張り出し、手渡す。
そこには拙い、けれど伸び伸びとした絵が描かれていた。
「絵画教室のセンセイ」
「あなたが、先生!?」
耳を疑うような言葉に吹き出したひばりを、雀蓮が軽く睨む。拗ねた子供の顔だった。
「なにがおかしいねや」
「だって……」
雀蓮が子供達を指導している姿など、想像もつかない。
けれども先日、泣きだしてしまった自分をあやすために彼がしてくれた、あの手のひらの暖かさは、その言葉を、得心させるには充分だった。
あの手は存外に、優しかったのだ。
くすくすと忍び笑いを続けるひばりの頭に雀蓮がまたポン、と、子供にするような慣れた仕草で手を置いて立ち上がったので、笑い声を止めた。
「夢だけじゃ、腹はふくれへんのよ」
どこか淋しい声だった。
そのまま伸びをしながら縁側へと立った雀蓮の背中もまた淡色に煤けて見えて、ひばりは目を細める。
年齢と作品の経緯から鑑みれば、おそらくは早成の天才と呼ばれる画家だったはずの彼。
しかしどういう理由と経緯があってからかはわからないが、突然に画壇から姿を消し、称賛も栄誉も手放した、もはや少年ではない雀蓮の背中が、ちくりと再び、胸を刺す。
----夢は夢でしかないと、ひばりもまた、いつしか知ってしまっている。
切ないのは、夕暮れのせいか。
ひばりもそっと、雀蓮に寄り添うようにして縁側へと腰掛けた。
並んで見るのは庭のからたちで、白い花がぽつりぽつりと土の上に落ちて白く発光している。
「でも私、あなたの絵、好きよ」
微笑んで、雀蓮を向く。
ひばりから向けられた思いがけない笑顔に、ほうけた顔をさせて雀蓮は、思わず手に持っていた筆を取り落とした。
「……なんやあんた、そんな表情もできるやん」
「それは、あなたが怒らせてばかりいるから。それにね、あんたっていい加減やめてくれない?」
微笑みを指摘され、なんとなく照れ隠しに口を尖らせてみせたひばりが雀蓮を向けば、意外な程に真摯な表情が、そこにあった。
「ヒバリ」
雀蓮こそ、こんな表情もするのか、と意外なほどのどこか寂しい笑みをして、優しい声で名を呼ぶので、ひばりはなんだか、たまらない心地にさせられた。
「ええ名やなあ、ヒバリ戟B……うらうらに照れる春日にひばりあがり、か」
「なあに、それ」
ぽつり、と呟くように呪文のような言葉を続けた雀蓮に首を傾げれば、彼は呆れた視線をひばりに向ける。
「学がないのう、お嬢。本は読まなあかんで」
嘲るようにそう言って、雀蓮はすい、と視線を庭へと向けた。
「春になると、そこの枸橘に来てええ声して鳴いてな。ああ、きれいやな、なんて思うてるうちに居のうなって----」
ひばりは雀蓮の視線の先ではなく、遠い視線の、その横顔を見ていた。
「----さ、早よ描かんと、夜が来る」
しばらく黙った後、雀蓮はそう言って立ち上がると、和室へと戻っていった。
ひばりは何を言うことも、できなかった。
ただこの雀蓮という男が、本当によくわからなくなってしまった。
芸術家とは皆、こういう生き物なのだろうか。
ふと見れば彼は、ちろちろと燻っている七輪へと和紙を近づけようとしていた。
「なにして……」
ひばりが声をかけたと同時に、ポウ、と和紙が燃え上がる。
その炎を、突然に雀蓮は手で覆った。いや、掴んだ、と言ったほうが正しいだろう。
「なっ……!」
雀蓮が握り込めた炎は、瞬間燃え上がったのち、炭へと変わって畳を汚した。
駆け寄ったひばりは、慌てていま炎を握りつぶした雀蓮の手のひらを掴み上げ、払う。
「何考えてるの!?火傷するじゃない!」
雀蓮の手のひらは、まだ熱を帯びていた。慌てて視線で水を探すが、見つからない。
しかし当の本人は痛がる様子でもなく、まるでひばりの焦りが理解できないといった表情をしてひばりをじっと、見ていた。
「何って……しゃあないやろ、炎を描くんやで?」
「だから!どうしてそれでこんな……っ」
苛立つ気持ちに眉根を寄せながら、ようやく見つけた水差しの底を手のひらにあてる。
雀蓮の口端が、くい、と歪んだ。
「炎を、描くんや。どんな熱か、どんな色か、触れたらどうなるんか、全部味おうた手で描かな」
「-----!」
不遜な笑みだった。狂人のそれに似ていた。
けれど、ひばりの細く白い手の中に包まれたごつごつとしたそれは、微かに震えて痛みを訴えていた。
「ひばり……?」
触れた手は、なかなか冷えなかった。
もしかしたなら、自分の手のひらが熱いのかもしれなかった。
何度も何度も、水差しの硝子の体温で熱を吸い取りながら、ぽつりと落ちてしまった雫を、涙ではなく水差しの水滴だと、誤魔化すことはできなかった。
「どうして……ここまでするの……?」
きっと顔をあげて、雀蓮を睨みつけるように、見た。
「たかが絵でしょう!?どうして……こんな……っ」
私には、できない。できなかった。
そう思えば思うほどに苛立ちが煽られて、胸が焼けつきそうだ。
たかが絵、と言ったひばりを、雀蓮は怒るかと思われた。
怖れるように顔をあげれば、彼は、さっきと同じどこか寂しげな笑みをうっすらと浮かべるに留めていた。何も言わなかった。
その向こうに、一枚の白地の墨絵。
「…………!」
その絵に、ひばりは射抜かれた。
それはまだ描きかけではあったが、肌を震わせるような気迫をもって、ひばりを圧倒する。
画面の中央に、しゃがみこむ女。彼女は首を上げ、空を仰いで、微かに眉を寄せてどこか遠くを見ている。
その身体を、炎がごうごうと包んでいる。色がなくとも熱を感じる鮮やかな炎。
彼女は手のひらを胸のあたりに上げて、何かが降ってくるのを待っているようにも見える。
ひばりはぞくぞくと駆け上がってくる感情を抑えられなかった。どうしてこの男は、こんな自分を描けるのだろう。
いつ見せた?……見せなかったはずだ。
「……たかが絵、なんやろな」
雀蓮の声は静かだった。
「それでも描きたい絵がある。あんたに見せたい絵が……ある。そのためやったら、俺は何だってしたる」
静かにそう言った赤い瞳が、強い力をもってひばりを射抜いた。
もう少年ではないことを知っているこの男は、それでも、未だ夢を見ている。
「言うたやろ。この女やと思った、て。……あんたを、ずっと待っとった」
子供のような顔をして、雀蓮は笑った。
春の陽だまりのような色の、瞳をしていた。
その笑顔を見ていることに耐えきれずに、ひばりは、俯いてしまった。
ああ、自分はこの男の描く絵が、この男が、好きで……そして、嫌いだ。
「ひばり?」
雀蓮が怪訝に首を傾げて、ひばりへと近づいてくる。
喉が詰まったように苦しい。
雀蓮が戻ってきて、頬に手を触れた。
「……大キライよ、あなたなんか……」
くぐもった低いひばりの言葉に、雀蓮はなぜか嬉しそうに微笑んで、ぐいと、袖でひばりの頬を拭ってくれる。
その輪郭が夕陽に透けて赤く灼けている。
できることなら自分も赤く染まって見えればいいと、ひばりは願った。
頬が赤いのは、涙を流しているのは、ただ夕陽のせいなのだと、雀蓮がそう思ってくれればいいと、ひばりは願った。
愛してしまったと気づくには、あまりに眩しい夕暮れだった。