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  三.  


「九雀さん、これ!」
何かを手に駆け寄ってきた須磨子を、九雀は生け垣に水をやっていた手を止めて振り返った。
「これ、納戸を整理していたら見つけたんですけれど」
「……懐かしいな」
水道の水を止め、濡れた手を腰に引っ掛けていたタオルで拭うと、九雀は縁側に座る。須磨子も和室側に正座して、床にそれを広げた。
----それは、古びて色褪せた数枚の絵とスケッチブックだった。
風景画、生物画、人物画、そしてデッサン。
様々なタッチで何枚も何枚も描かれたそれらを、九雀はわずかに切なげに目を細めて見た。
「姉が遺したものだ」
「お姉さんって、亡くなった……?」
畳に広げられたその絵を懐かしむようにひと撫でして、九雀は須磨子の言葉にこくりと頷いた。
そうして、須磨子が必要以上に案じることのないように、と、言葉を続ける。
「うちは父も祖父も絵描きだったから、姉もやはり絵の道に進んで……けれど、ある時を境に、ぴたりと描くのをやめてしまって」
昔話のように九雀が遠い声をするので、須磨子はどことなく、切なく思う。
「……両親が亡くなった頃かもしれないな。僕と姉のふたりきりになって、だから彼女は……」
「……………」
須磨子は彼の横顔を、そっと見つめるに留めた。
もしかしたなら、九雀は自分を責めているのではないだろうか、と感じながらも、なんと声をかけてよいのか、わからなかったからだ。
「そういえば、あなたのことを彼女に伝えるのを忘れていた」
察したように和らげるように、九雀が淡く微笑んで須磨子を見るので、須磨子はなんだかたまらない心地になって、九雀の肩口へとそっと手を伸ばした。
いつもならば自分の身体がすっぽりと埋まってしまうほどの大きな肩を、包み込むようにそっと隣から抱く。
首に伸ばした腕に、さわさわとくせのある髪が揺れた。
「……花が咲いたら、会いにゆきましょうか」
須磨子の白い腕の柔らかさに酔ったようにそっと頬を寄せた九雀が、庭のからたちへと目をやった。
須磨子もまた、緑に揺れるからたちを見やって、静かに微笑む。
三度目の春が、すぐそこまで来ようとしていた。
生け垣のからたちにもぽつりぽつりと白い蕾があらわれて、そう日を置かずして開くだろう。
須磨子は眩しくて、目を細めた。
誰よりも愛おしい人を腕に抱きながら、慈しむように切なく思う人がいる。この気持ちは、裏切りだろうか。
それでもきっと、あの花が開く頃、きっと自分は思い出す。きっとずっと思い出す。花が咲くたび思い出す。
あの緑に映える白いシャツの少年を。
----彼はいまごろ、どうしているだろう。





姉が絵を描かなくなったのがいつ頃からだったのか、私は記憶していなかった。
若い頃画家を志していたのだという両親は、姉が自分が諦めた道を志すことを、いつも嬉しそうに微笑んでは見ていた。
だからこそ彼女は絵を描いていたのかもしれないと、そうして私たちから抉られていった彼の存在が、姉の中からもまた、絵画というものを抉っていったのだと……私はそう、思いたかったのかもしれなかった。
祖父という人の存在を知る少し前のことだったろう。
進学を諦める、と告げた私の頬を、彼女は初めて両手で張った。
「バカね、あなたは私と違って才能があるんだから」
そう言って笑った彼女の笑顔は強く眩しいものだったが、私の頬を腫れさせた赤い手のひらの形をしたそれは、小さいものだった。






「ひばり、あんたも絵、描いてたんやろ?」
雀蓮からの思わぬ指摘に、ひばりはぎくりと身体を強ばらせて、彼を見た。
「どうしてそう思ったの……?」
「手」
雀蓮は画板の向こう側からちらりと片眉を上げ、視線でひばりの手のひらを指すようにした。
「あんたの手ぇな、油の匂いがした。よう見たら指紋の間にも爪の間にも、絵の具が刷り込まれとる」
ひばりは反射的に、自分の手のひらを見た。
その行為自体が雀蓮の言葉を肯定することに他ならず、気づいて彼を見たときには、彼はもう微かに口元を歪ませて、小さくやっぱり、と呟いていた。
「なんでやめたん?」
低い声が、糾弾のようにひばりの耳を刺した。
目の前に持ってきていた指先が震え始める。
「……両親が、亡くなって、それで、弟を大学に行かせてあげたかったし、それで」
「ちゃうやんなあ」
違うだろう、と、感情の籠もらない声が即座に嘘を見抜いて言葉を詰まらせた。
「で、ほんまは?」
体温が下がっていくのがわかる。
----厭だ。
この男はあの赤い目で、何もかも見透かしてしまう。
「…………いやに、なったのよ」
声は震えていた。
「何が」
「絵を描くことが。うまく描けないことが。他の人の才能に嫉妬することが。自分はこんなものしか……描けないんだって……うんざりすることが、厭になったの……」
両手で顔を覆うようにすると本当に微かに、まだ油絵具の匂いが残っていた。それは懐かしい香りで、ひばりを当時に引き戻す。
「そうか」
静かな、優しい声だった。
だからこそ、話してしまいたくなってしまった。
「両親が……亡くなったとき、私、どこかでほっとしていたの。ああこれで、もう期待に応えなくていいんだ。これでもう描かなくていいんだ、楽になっていいんだ……って」
覆った指の隙間から、涙が溢れだして止まらなかった。
ああずっと、こんなふうに誰かに吐き出してしまいたかったのだ、本当は。
「でも、そんな風に思ってしまう自分は、最低だと思ったわ。こんなに悲しいのに、こんなに苦しいのに、それでもほっとする気持ちは消せなくて、私……私」
「そんなもんやろ、人なんて」
子供のようにしゃくりあげて泣き出してしまったひばりのすぐ隣に、雀蓮が来ていたことにひばりは気づかなかった。
「泣いたり笑ったり怒ったり、愛したり憎んだり、忙しゅうてかなわん」
頭に触れるものがあって、それがわしわしと、乱暴にひばりの頭を掻きむしるように乱れさせる。子供にするそれだ。
「なあヒバリ。俺がなんであんたやったんか、わかるか?」

ひばりは首を振った。涙はもう止まっていた。
「俺はいままで、人物画を描こうやなんて思うたことなかった。すましてちょこんと座っただけの女の絵なんざ、おもろないやろ」
初めて耳にする彼が人物を描かないできた理由に、ひばりの耳が澄まされる。
雀蓮が、真っ直ぐにひばりを見た。澄んだ目をしていた。
「けど、あんたは違った」
ひばりの斜め横に、あぐらをかいて座る雀蓮の瞳が、強い赤に変わる。
「初めて会うた日……燃えるみたいな目えして、俺のこと睨みよった」
思い出すように遠くを見て、くすりと笑った。猫の目だった。
ひばりもまたその言葉に初めて会ったときのことを思いだし、思わず唇を噛む。
なんて失礼な男と、思ったのだ。その評価はおそらく的確で、いまも変わってはいない。
けれどもう、それだけでもない。
「こいつはおもろい、なんかある、そう思ってな」
雀蓮の手のひらが伸びて、ひばりの頬に残った涙の痕をぐい、と拭って去る。
「で、描いてみたら予想以上や。……欲が出た」
「欲?」
ちろりと赤い舌が唇からのぞいて、唇を舐めて、彼が口を開く。
「こいつを泣かせたらどないな表情するんやろ、笑かしたらどないや、悲しませたら喜ばせたら……そうゆう、我が儘やなあ」
「まさか、それで!?」
それでいままでもいまもあんな態度をと、身を乗り出したひばりに、雀蓮は薄笑いのまま手をひらひらと振って、
「まあ、なきにしもあらずってとこやけど」
悪びれもせずに言い放つので、ひばりは思わず手をあげて、雀蓮の肩をばしばしと叩いた。
叩くうち、自分が怒っているのか笑っているのかよくわからない心地になって、気づかされたのは、胸のつかえがとれたように呼吸が楽になっているということ。
「ちったあ楽になったやろ?」
雀蓮は豪快に、からからと笑った。
その笑顔に、ひばりはまた、たまらない心地になる。
どうしたら心を止められるだろう。どうしようもない。
この男を、愛してしまいそうだ。