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  二.  


閉じた瞼の裏は、まだ赤い。
あの、燃える瞳が離れていかなかった。
焼けた夕刻の空気を吸い込んだ胸は、焦げて熱い。
けれどもう空は赤を失って、紫紺に変わっていた。


"それ"を失くしたことに気づいたのは、家に着いて随分と時間が過ぎてからだった。
手紙ではない。もっとずっと、大切なものだ。
失くすとすれば、この邸しか考えられなかった。
だからそれを取りに来ただけだ、と、何度も繰り返すように思うのは、或いは言い訳に違いないのかもしれなかった。

「……ごめんください……」
昨日と同じように、古い引き戸を開く。けれどやはり人気はない。
しん、と静まった邸は、人が住んでいる気配さえ感じさせず、また裏にいるのだろうか、と、細い枳殻の生け垣の間を通 って庭へと行っても、そこにあの男の姿はなかった。
庭に面した縁側のガラス戸は閉じられていて、埃で曇ったそこからは中の様子は伺えない。
ひばりは一息吐いて、縁側に座った。
この邸を切り離すように植えられた緑のからたちの生け垣の、白い花はもう開きはじめていて、 緑と白のコントラストが目に鮮やかだった。
どちらもそういえばどちらの色も赤とは対極とされる色だ、と、そんなことを考えながら、午後の陽射しに手のひらをかざす。
違和感があった。いつもその指にあった、慣れた重みが失われて、なんとなく心許ない。その指の間から空が透けて見えて、それはじきに夕暮れが来るのだと、ひばりに教えた。
----夕暮れが、来る。あの赤い時間になる。
そう思った途端、なんだか落ち着かない心地にとらわれて、ひばりは立ち上がった。立ち上がって、振り向いた先に、影ができた。
「おう、来とったんか」
影の主は、昨日のあの男。
心臓がどくりと鳴ったのは、彼の登場があまりに絶妙だったからか。
「忘れ物、したから……」
今日の彼は着物姿ではなく、シャツにスラックスといったごく普通の洋装で、手にたくさんの荷物を抱えていた。
長めのくせのある髪を後ろに撫でつけて、まるで昨日とは別人の彼に戸惑いを覚えながら、ひばりはそれだけ言った。
ひばりの言葉に片眉を上げて応えたままで、男は縁側にどさりと乱暴に荷物を置き、ガラス戸を開けると腰を降ろす。
肺の奥から吐き出したような息を一呼吸おいて、男はようやくひばりを見た。そうして右手の手の甲を見せるように、顔の前へすっと上げた。
「これやろ?」
その手の小指にはまっていたのは、指輪だった。
ひばりは目を見開く。
「それ……っ!」
「そやさかい、"またな" って、言うたやんか」
に、と男は悪戯げに口端を歪めて笑う。
その一瞬の表情で、ひばりがそれを忘れたのではなく、彼が故意に抜き取ったのだと悟ることができる。悟れば、それは怒りに換わった。
「返して!大事なものなの!」
「へえ」
ひばりが声を荒げたことなど少しも気に留めずに、男は自分の小指にはめた指輪を観察するようにひらひらと手を動かして、ちろりと視線をひばりへと流した。
「……返さへん、て言うたら、どないする?」
「それでも返して!」
ひらひらと舞うように動くその手を捕まえようと、ひばりは身体を乗り出して、男に掴みかかる。けれどその動きは素早くて、なかなか捕らえることができない。
苛立ちのままに手を伸ばし、ようやく手首を掴んだ。
「ちょお、危な……っ!」
ひばりが渾身の力で掴んだことでバランスを崩した二人の身体はもつれ、そのまま部屋の中へと倒れ込む。
倒れた先には、さっき男が置いたばかりの荷物があった。
「わあっ!」
畳の上に、何枚もの紙が散らばる。散らばった紙の上に、男の身体が横たわっていて、そしてその上に、ひばりの身体が乗っていた。
男の手首を掴んだままの姿勢で、まるで抱き合うように床に二人倒れて、視線を上げればすぐ近くに彼の顔があった。
「あなたが、子供みたいなことするから!」
反射的に手を離し、起きあがろうとしたひばりの身体に重力がかかる。
肩口に体温。それが男の手のひらだと、その温度で理解できた。
熱が染みてきて、また胸を焦がしてしまう。
「お願いだから……返して。本当に大切なものなの」
懇願するような口調になったのは、戸惑いを悟られたくなかったからだ。
視線を逸らしたのは、瞬間で上気した顔を見られたくなかったから。きっとそうだ。
それなのに、男の視線を感じる。
見られている。あの瞳が見ている。そう思うと堪らない心地になる。
「返しとうないなあ……」
離したばかりのひばりの手首を、今度は反対に掴み返して、男はにやりと笑んだ。
奇妙な笑みだった。口元は笑っているのに、あの瞳が赤く燃えている。
「指輪も、あんたも」
ぞくりとした。低い声だった。
掴まれた腕の先が燃えてしまいそうに熱い。熱いのは彼の手のひらだ。その瞳だ。
忘れていた。赤は警告の色だ。
どうしていま、そんなことを思い出すのだろう。
「----なぁんてな」
に、と瞳を細めて笑って、ひばりを縛っていた力がほどける。
けれど男はひばりを組み敷いたまま、やはり真剣な目をしていた。
「返したってもええけど、取引しようや」
「取引?」
よくもそんなことが言えたものだ、と、反論する気力も失って、ひばりはぐったりと男を気だるく見上げた。
瞳の色が変わってゆく。
あの色に変わる、と、はっとして振り向けば、窓の向こうは夕暮れの赤。
「俺は、あんたを描きたい」
強い声が、ひばりを見開かせる。一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。
「描くって……私を?」
「ああ、あんたや。この女やと思った」
まるで愛の告白だ。
ひばりは絶句したまま、何と返事を返して良いかわからない。
ちらりと、襖のあの赤い絵画が視界に入る。
頬のあたりで、男の髪が揺れてぞくりと鳥肌が立つ。
唾液を嚥下するのにも、勇気が要った。
「……わかった。でも、交換条件よ」
「なんや。なんでも言うてみい」
それくらい安い御用だ、とでも言いたげな表情をして、男がひばりの言葉を待っている。
僅かに目を逸らしたのは、たまらない心地になったからだ。
「名前を、聞かせて」
拗ねた子供のような口調だったかもしれない。
「あなたの名前。教えてくれるって言ってたでしょう」
そう言って、ようやくひばりは真っ直ぐに彼を見つめることができた。
数秒の沈黙の後、男がふっ、と、息を吹き出した。笑ったのだろう。
「きゃ……っ」
続いて急にぐい、と腕が引かれて、身体を起こされる。
そのひばりの真向かいに、男もまた、どっかと腰を降ろした。
男は一度息を吸い込んで、そして、
「----雀蓮」
静かな声が、そう言った。
射し込む夕陽が、男と、男の背のあの赤い屏風を染めた。
瞳は赤く、ぎらりと燃えた。
「松山雀蓮、や」
男の声しか、聞こえなかった。
あれほどざわめいていた庭のからたちさえ沈黙して、代わりに男の名前と鼓動だけが、耳の奥で幾度も響いている。
「あなた、が、松山雀蓮……?」
「せやで」
男はこくりと頷いて、ちらりと視線だけ、背後の屏風を指すようにした。
これが証だ、と、示すように。
----ああ確かに、この男は雀蓮に違いなかった。
あの一枚の緑の絵から受けていた、松山雀蓮という作家のイメージからはほど遠くとも、彼のこの画力は、本物だ。
「よう知っとんなあ俺の名前なんて」
雀蓮は照れたようにからからと笑う。けれど……信じられない。彼の言葉の真偽ではない。
松山雀蓮が描いた人物画など、未だ誰も見たことがない。
残されたあの一枚以外は総て習作の類のもので、風景画や生物画ばかり。
人物画を描かない画家なのだ、と、誰かが言っていた。
その事実に、ぞくりと肌が粟立ってゆく。
「松山雀蓮が……私を、描くのね?」
「……不服か?」
確認のように問えば、わずかに眉が歪んだ。ぞくりとする瞳は、あの夕焼けの色に燃えていた。
----見たい。ああまったくもって単純に、見たいのだ。
松山雀蓮でなかったとしても、この男をもっと、知りたい。
この男が、あの赤を描く男が、どんな風に自分を絵に換えるのか、見たい。
何よりもう既に、あの瞳を----あの瞳で見られることを、欲している。
あるいはその思いが、最も強くひばりを突き動かしたのかもしれなかった。
「絵ができあがったら、その指輪も私も……返してくれる?」
しばし視線を絡ませた後で、ひばりは自分からそれを緩めた。
男は不意をつかれたような、驚いたような複雑な表情をさせて、けれど笑った。
カラカラと声をあげて、いかにもおかしそうに笑ったのだ。
そうしてひとしきり笑ったあと、その笑い声は萎んでいき、やがて溜息に変わる。
「……ほんまはな、この指輪、抜けへんねや」
「そんなことだろうと思った!」
ちろりとひばりを伺うようにして見る男に、心底呆れた声で叫んで、ひばりは息を吐き出し----そして、くすり、と笑んだ。