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  一.  


ひばりはその古い邸の前に立っていた。
周囲を、生け垣がぐるりと囲んでいる。
鋭い棘を持った緑のその木々は、まるで外界を拒絶しているようだ。
大正時代に建てられたという、このあたりでは有名らしいこの邸はお化けが出るよ、と、ここまでの道筋を教えてくれた老婆に散々脅された。
ひばりは手の中の封筒を見やる。
先立って事故死した、父親宛ての手紙。そこに書かれていたのは他愛もない季節の挨拶。けれど差出人の名前は、松山雀蓮。

----松山雀蓮。

彼、または彼女の描いた一枚の絵画を、ひばりは忘れることができない。
ただ一面の緑の葉が描かれた、彼の唯一の代表作……『枳殻邸にて』
その傑作一枚きりを残し、画壇から姿を消してしまった松山雀蓮は、決して巨匠でも有名なわけでもなかったが、そういった謎めいた存在感も相まって、ある種、特殊なファンを獲得していた。
その松山雀蓮から父親への手紙なのだ。少なくともひばりには、目を見開かせるに充分だった。
「その手紙だって随分と古いものなんだろう?その人が生きていたとして、父さんのことを覚えてなどいるだろうか」
と、心配性の気のある弟は言ったが、それでもひばりがいま、こうしてその手紙に書かれた邸の前に立っているのは、父の死を伝えなければという義務感より、雀蓮その人に会いたい、さらに言えば正体を暴きたい、という好奇心の方が勝ったからだ。

ごくりと一度息を呑み、埃のかぶったチャイムを押した。
掠れた音が響いていくが、返事はない。
風がざあ、と吹いて、からたちの葉がざわざわと揺れた。
ひばりは曇り硝子の填められている引き戸に手をかけた。カラカラと音を立てて、古い玄関扉が開く。
「ごめんください」
玄関から奥に伸びる板張りの廊下は暗い。そして随分と埃っぽかった。
ガタン、と最奥の暗い部屋から人の気配を告げる音がした。
恐る恐る、ひばりは玄関に入ると、後ろ手で引き戸を閉める。
「あの、どなたかいらっしゃいますでしょうか」
さっきよりも少し小声だった。玄関のすりガラスから、外の陽射しが差し込む以外は、この邸はどんよりと暗い。老婆の「お化けが出るよ」という言葉もあながち嘘ではないかとさえ思う。
玄関には作りつけの大正モダン風の下駄箱があり、その上には花瓶が置いてあったが、差された花らしきものは枯れている。
ひばりは一呼吸の後、玄関を出た。
松山雀蓮がどのような人物か、その生死の噂さえ耳には入ってこないのだ。もうここには住んでいないのかもしれない。出直そう。
そうして玄関を出て、ぐるりと邸をまわる。
春を迎えて生け垣の緑は一層青々と美しく、白く点々とした蕾がふくらみはじめていた。
「きれい……」
引き寄せられるように近づき、蜜柑の香りにも似たその葉と花に顔を寄せた時だった。
「誰や?」
大声、しかも張り上げたような声が遠くから聞こえて、ひばりは思わずびくりと肩を揺らし、そちらを向こうとした。向こうとしたはずだった。
「いっ……痛っ」
ピン、と痛みを伴い強く引っ張られたのは自分の髪で、その先はその鋭い棘を持つ枝に絡まってしまっていた。
植物にまるで取り押さえられたような格好で斜めになった視界の先、庭であろう方向から、男が一人こちらに近づいてくるのがわかる。
逆光で、影に切り取られていた彼の姿が、次第にくっきりと人間の姿へと変わる。
年の頃は20代にも30代にも見えた。くせのある茶色がかった長めの髪で、その隙間から見える眉がひばりの格好を確認するとぴくりと上がる。
「あーあー、つかまりよって」
男はひばりのすぐ近くまで来て、低くそう言って、にいと微かに目だけで笑った。強い光の宿る目だった。
着ているのは灰がかった緑の着物。ごつごつと骨張った指で顎を一度撫でて、けれどひばりに手を貸す様子もない。彼はそのまま隣にしゃがみこんで、下から眺めるように、ひばりを見上げた。
「……あんた別嬪さんやなあ」
そのせせら笑うような表情に、ひばりの苛立ちが煽られる。
「そんなことどうでもいいから、なんとかして」
必死に外そうと引っ張ったとて、ひばりの髪はもともと細くクセが強く、あがけばあがく程に絡まっていくのがわかる。
少し生け垣との距離を近くして、顔をようやく真っ直ぐに戻すと、男もまたすい、と近くに来た。そうして手を伸ばす。
「まあ助けたってもええけど。----貸しやで?」
一度、確認するようにちらりとひばりと視線を絡めた男は、袂から何かを取り出し、素早くそれをひばりの髪に添えた。男が取り出した物が何かをひばりが認識するまでには時間を要し-----そして。
「えっ、ちょっ……!」
抵抗する時間さえ、なかった。
男の手の中には剪定鋏が握られていて、パチン、という音が瞬間聞こえたかと思えば、さっきまでの痛みが嘘のように引いていく。
「ほい」
「信じられない!普通は枝を切るでしょう?」
思わず怒鳴っていた。男は面を食らったような顔をして一度ひばりを頭の先からつま先まで眺める。
「威勢のええネエちゃんやのう。勝手に人んち入って、勝手に髪絡まして、助けてくれ言うたから助けたっただけやんけ」
呆れたようにそう言い、興を失ったように肩を竦めて、男は踵を返そうとする。
いま男に一束切られた背中まで伸ばした髪は澄んだ亜麻色で、ひばりにとっては自分の身体で最も気に入って大切にしているものだったのだ。
男の言う言葉に反論はできなくとも、苛立ちは拭えない。
「勝手に……って、玄関で何度も呼んだのに、誰もいなかったから探しに来たの!」
「こんなボロ邸に何の用事で?」
男は訝しむようにひばりを見て、けれどすたすたと元来た庭の奥へと歩いていってしまうので、ひばりは必死にそれを追う。男の歩みは早く、ひばりを振り返ろうともしなかった。
「松山先生に用事があって!」
苛立ちを込めてひばりが一声怒鳴るようにして言うと、ようやく男はくるりと振り返って、ひばりを見た。
「へえ。……あんたみたいな若い娘が訪ねてくるやなんて、めずらし」
強い力を宿した瞳が、怪訝そうに細められてひばりを見ている。
ひばりは握りしめていた父親の遺品の手紙を彼に差し出そうとして、やめた。この男の口調、そして態度は、ひばりの信用には値しない。
「父が、生前懇意にしていただいていたみたいで、手紙を」
「名前は?」
この男はしかも、短気なようだった。ひばりの言葉を半分も聞かずに遮って、腕を組む。
「義久です」
「……よう知らんなあ」
がっしりとした体躯の野性的なその男は、少し思いあぐねたあとそう言って、またひばりを眺めるようにして、見た。
ああ、と、また思わされる。この男の視線は強い。まるで見透かされるような目をしている。
「で、あんたの名前は?」
「人に名前を聞く前に、あなたが名乗ったら!?」
けれどひばりはその瞳に負けなかった。春にしてはまだ冷たく感じられる風に舞う髪は、妙な位 置で切れてしまって、考えると泣きたくなる。
最初からこんな男に助けを求めたりしなければ良かったのだ。彼を責めるのも何かが違う。
ひばりの声と、睨みつけたその目の光から何を言いたいのか解したらしいその男は、何故か嬉しそうににい、と嗤って、そして、踵を返してしまった。
「ちょっと!」
「ええからこっち来ぃ」
振り返らずに張りのある声でそう言って、彼が邸の角を曲がる。貸しどころかこっちが髪を返してもらいたいくらいだったのだが、このまま帰ることもできず、ひばりはしぶしぶとそれに従った。
生け垣角を曲がれば、こじんまりとした庭と縁側があった。ずらりと並んだ盆栽と、緑の生け垣。
「そこ座って。そう、横向きでな」
顎で指すようにして、縁側の板間を示され、ひばりは黙って腰を下ろす。開け放たれた部屋に続く硝子の嵌った窓から、部屋の中が見えた。
「……!」
絶句、とはこのことだ。 部屋の壁にはふすまが立てかけられていて、そこに和紙が貼られている。その和紙には、書きかけの、絵らしきもの。
松山雀蓮のあの絵とはあまりに対照的な、荒々しい、激情を迸らせたような一面の赤。
……その絵は燃えていた。
「これ……!」
「ちょぉ、動かんときや!」
身を乗り出そうとしたひばりの髪が、ぴん、と張る。反射的に振り向けば、男がその先を握っていた。そしてもう片方、左手には先程の剪定鋏が。
「なっ、何!?」
「動くなて!」
剪定鋏が髪をはさみ、シャキ、と、繊細な音を立てる。
また切られた、という落胆と、けれどそれをする男の表情の真剣さに、ひばりは沈黙して男の動向を見守るように見つめた。
「----で、あの絵がどないしたん?」
「凄い、と思って……」
凄い、という簡単な一言で片付けられる衝撃ではなかった。
よく見れば、あれは紅葉だろうか。白かったはずの襖を埋め尽くすような、赤、朱、紅。見つめれば肌が粟立つ。
これでも審美眼には自信があるつもりだった。そういう観点で見れば、まだ拙く若い作品のはずだ。それなのに、惹きこまれる。
渦のような、嵐のような絵は、ただ凄い、という一言を述べることしか許さなかった。
「ふうん」
男は真剣な表情のまま、ひばりではなく自分の手元、髪とそれを切る鋏を見つめて呟くように言った。
髪がはらはらと縁側の板間に落ちる。それを悲しいとは、もう思わなかった。あれほど苛立たされた男だったのに、どうしてだろう、いまの彼にひばりは何の感情も湧いてはこない。
「さ、これで格好はついたやろ」
「ありが……とう」
剪定鋏を縁側に置き、男がまずひばりの肩口を、そして自分の手をパン、とはらう。
すりガラスにぼんやりと映った自分の姿は、至極自然に、どの束が途中で切られていたかもわからない程、なじんでいた。
男はどっか、と、ひばりのすぐ隣に寄り添うようにしてあぐらで座り、また観察するように見つめてくる。それに気づいたひばりと目が合うと、にい、と、満面 の笑みを浮かべて、一度頷いた。
----変人だ。
さっさと用事を済ませて、家に帰りたかった。というよりも、この男といるとペースを崩されるのだ。けれど当の松山雀蓮に会わなければその用事も終わらない。
「あの、それで松山先生は……どちらに」
人懐こい笑顔をさせたままの彼に笑顔ではなくそう言うと、男は笑顔をあのせせら笑うような眉を上げたものに変えて、縁側から部屋へと行った。
そしてひばりと正面から向き合うようにして、平たく潰れた座布団にまた胡座をかくと、床に置かれていた筆を取る。
「さあなあ。そのうち帰ってくるんちゃうか?」
その男はまるでどうでもいいといった風にそう言って、薄い板のようなものをあぐらの上に乗せると、その向こう側からじ、とひばりを見た。
「そのまま」
「え?」
一言それだけ言って、筆を握った男の手が、板の向こうで滑り始める。
まさか、ひばりの絵を描いているのだろうか。
この失礼で粗暴な印象しかない目の前の彼が、自分の絵を?
「貸しや、言うたやろ。返してもらわんと」
軽い口調でそう言いながらも、しかし、画板とひばりとを交互に見つめる男の瞳はさっきひばりの髪を切っていた時よりずっと真剣なもので、ひばりは息さえもしてはいけないような心地に囚われる。
さわさわと、背後の生け垣の葉が風に揺れるのが、音だけでわかる。
遠くで鳥の啼く声がする。もうじき夕暮れが来る。
筆が紙を滑る音がする。墨の匂い。膠の匂い。
「……あの生け垣……なんていう植物?」
「からたち」
男はひばりをちら、と見て、否、ひばりではなく絵画の対象物としての自分をちらと見て、一言だけ言った。
からたち。聞いたことのない名前だった。どういう漢字を書くのだろう、と、ぼんやりと思いながら、ひばりはただ、男を、そして彼がいま座っているアトリエらしき部屋を見渡した。
絵の具を載せた陶磁の小皿が床に細々と広がり、七輪の上には膠を溶かしてあるらしい小鍋のようなものが乗っている。
何巻きもの紙の束が転がり、筆も散らばり、雑然とした、けれど何処か居心地の良いこの和室に、風が葉をざわめかせる音が静かに聞こえてくる。
鳴っているのはからたちだろうか。
ひばりはただ、その音を聞いていた。
筆の滑る音。鳥の鳴き声。風の音。からたちの音。
男は、どこか遠い目をして自分を見ていた。
ひとつ、鼓動が鳴って、夕暮れの音に加わったそれは、しばらく止むことはなかった。

「……嬢、お嬢」
肩を揺り動かされてぼんやりと覚醒すると、視界が薄赤く、窓から差し込む風ももう冷たかった。
「私……寝て……?」
いつしか居眠りしてしまっていたようで、壁にもたれていた身体を起こすと、膝の上に一枚の紙が載っている。手にとって、驚いた。
「これ……!」
「涎は描かんといたった」
そう言って男はカラカラと笑い、 ぐしゃぐしゃとひばりの頭をかき乱すようにして撫でた。
描かれていたのは、自分の寝顔。
優しく、暖かい、けれど力強いタッチだった。どこか懐かしさがあるように感じられたのは、彼のそのタッチがどこか松山雀蓮の匂いをさせているせいだろうか。
ひとつだけ確信があった。 ----間違いなくこの男が、あの襖の赤の絵を描いたのだ。
彼がこんな絵を描けることに驚いているのか、その対象が自分であることにとまどっているのか、それともいま頭を撫でていった手があまりに優しいものだったからか、ひばりの胸は喉を詰まらせるほどに鳴っている。
くしゃくしゃになってしまったであろう自慢の髪も、その髪を切られたばかりだということも、窓の外がもう随分と日暮れていることも、どうでもよくなってしまう程に。
「あ……りがとう」
震える声でそう言ったひばりに、男はまた一度にっか、と笑っただけで応えた。
「そういや名前、聞いとらんかったな」
立ち上ろうとしたひばりの背中に、男が被さるようにひばりを見ている。
その視線はきつい印象を与えるのに、あの瞬間の満面の笑みが重なって、胸が鳴る。
「……ひばり」
眩しい。男の背後で、赤が燃えている。
逆光になった男が、少し驚いたように目を見開いて、また、笑った。
「偶然やなあ。同じスズメか」
ひばりという名を"雲雀"と変換し、松山雀蓮と比べてそう言ったのであろうか。彼は立ち上がると、パン、と手を叩いて庭を向く。
「暗くなる前にお帰りよし。この邸はお化けが出るて、皆噂しよる」
迷信やけどな、とまた破顔笑して、男は袂に手を入れた。
そういえばこの邸の場所を訪ねた老婆にも、お化けが出るよと脅された。
古びて見えるものの、この彼もまた時代錯誤的なせいだろうか、おどろおどろしい雰囲気はなく、けれどどこか、非現実的な時間の中にある、からたちの邸。
ひばりはまだ惚けた気分のままで縁側から靴を履くと、庭に降り立つ。
からたちの生け垣が、春の夕暮れの中でさわさわと風に揺れる。
歩き出そうとして、ひばりはふと足を止めた。忘れていたことがあった。
「私、あなたの名前を聞いてない」
振り向けば、夕暮れの庭に立つ彼の姿が、赤く染まって一層目映い。
耳の奥がざわざわと鳴っているのは、からたちかこの胸か。
耳元で誰かが何か囁いているようだった。ささやいているのは庭のからたちの葉か。
男はああ、と思い出したように一言頷いて、少し口を開きかけた。
しかし悪戯っぽく、ニィと笑っただけに留めると、ひばりを覗き込むように、見た。
「----やめた。次に会うたときに教えたるわ」
強い声がそう言って、その瞳が赤く揺れている。
「またな、ヒバリ」
男はひらひらと手を振って、それでも尚、夕陽の赤の中にいた。