呉ノ朱

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  最終話.  

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その日の彼女の様子は、何処か違っていた。
窓枠に寄りかかりながら庭を眺めていた彼女は私に気づくと、切なげに目を細めて、私を見、昨日は花をありがとう、とまた微笑んでくれた。
笑顔を返しながら、私は縁側まで行き、ふと、彼女の変化に気づいた。
手首に、くっきりと痣がついていた。昨日まではなかったものだ。
それは私の手よりも少し大きく、明らかに男性のつけたものであろうと思われた。
驚きに私があげた声に、彼女は大丈夫よ、と、やんわりと微笑んだ。
そっとその痣の上へと手を乗せた彼女の仕草は、真実、その相手を想っているように見えて、私の胸は嫉妬に焦げる。
彼女の視線が、縁側へと乗せた私の手に留まった。
そうして手を伸ばして、私の手を包み込むように、彼女は触れた。
あの花のせいね、傷つけてしまってごめんなさい、と彼女が少し眉を寄せて、目を細める。
手を触れられているという喜びよりも、彼女の消沈した様が私の胸をざわめかせて、私はただ、呆然とした。
傷ついているのはあなたでしょう。そう言った私に彼女は、尚も切なげに微笑んだだけだった。
私は彼女のその手首に痣を残したその男を赦すことができず、傲慢にも、自分ならば彼女を傷つけず、寂しく笑わせることはしない、と、思っていた。
――そんなにまでしなければならない、恋ですか。
私が発した声は、くぐもって震えていた。
だが彼女は、窓枠に頭を寄りかかるようにして傾けたまま、微笑みながら頷く。
私は若さのままの傲慢さで、彼女の心を理解することなく、責めるようにして続けた。
――どうしてもその人でなければ、駄目なんですか。
ゆっくりと彼女が微笑んで、幸福そうに、頷いた。
いままでに見たどの彼女の表情よりもそれは美しいもので、私はもはや子供のように泣き出してしまいたかった。
そっと細い指が私の手を撫でて、もう此処には来ないで、と、諭すような声で彼女が言った。
その言葉は昨日、手を傷つけた枸橘の棘のように、私の胸にじくじくと刺さった。
僕が嫌いですか。問いかけると彼女は寂しそうに微笑んだまま、首を振った。
彼女は私を見上げたが、その瞳は私を見てはいないように思えた。
――あなたはとてもあの人に、似ているのよ。
残酷な声は優しく、私を絶望させた。煽られた絶望は、激情となって私の喉を震わせていた。
――僕は誰かの代わりではなくあなたを。
叫びかけた言葉は、続けることができないままに涙に変わった。
どうして彼女はこんなふうに傷ついても、その男でなければならないのか。
彼と彼女との間にどれほどの想いがあるのか。
わからなかった。傷つけられても尚、彼を愛しているのだと幸福げに微笑む彼女の心が、その若い日の私にはどうしても、理解することなどできなかった。
僕には、わからない。そう告げて再び目を伏せた私の頬を、涙が静かに伝った。私に重ねられていた手がそっと伸ばされて、指先が涙を拭い、彼女は眩しそうに私を見上げていた。
――あなたもいつか、そんなひとと出逢えるといいのだけれど。
彼女が眉を顰めて微笑みながら告げたその言葉に、私は遂に、踵を返した。
それが彼女と逢った、最後となった。




「九雀さん」
仕事部屋の扉を叩いて、文机に向かっているその背中を呼んだ声は震えていた。
振り向いた九雀は須磨子を見、一度目を見開いて、そうして総てを悟ったように微笑んだ。
「……おいで」
九雀が広げた手の中に、須磨子は吸い込まれるようにして行くと、その胸に抱かれた。
九雀の体温が優しくて、須磨子は堪えていた感情が吹き出したように、その胸に顔を押しつけて、泣いた。
どうしてこんなに胸が痛むのか、須磨子にはわからなかった。
彼と対峙している間ずっと、自分は上手に笑えていただろうか。
「彼が、好きだった?」
髪を撫でる九雀の声はまるで母親のような慈愛をこめて、須磨子の身体を包んでくれた。
須磨子は尚も首を振って、その言葉を否定した。
「彼には恋……だったのだろうね」
――義久は、九雀に似ていたのだ。
その声、その仕草、その表情の何もかもが、九雀のそれと同一で、須磨子は自分の知ることのできなかった九雀の少年時代を訪れたようで、彼を愛おしく、思った。
けれど彼の手は傷ついていた。須磨子のために傷つけられたあの指よりもずっと、須磨子の言葉はおそらく彼を傷つけただろう。
嗚咽をあげて九雀の鼓動を聞きながら、義久にもこんなふうに抱きしめてくれる腕がいつか、現れてくれることを須磨子は祈った。
「その彼にはすまないが」
九雀がくすりと微笑んで胸が振動したので、須磨子は九雀を見上げた。
「恋は、失われるものだ」
九雀の大きな手が、須磨子の睫毛に残る雫を拭っていった。
その双眸が何処か懐かしそうにして須磨子を見ているように思えたのは、須磨子の気のせいだったのだろうか。
窓の外で、からたちがちらちらと揺れている。
風はもう吹かなかった。
幻想のような青年の姿を失った庭は、いつもよりどことなく寂しげに白い花が土に落ちていた。




彼女の言葉を解せないまま、踵を返した私が生け垣で見つけたのは、棘にかかった白い紙だった。
開けばそれは彼女が書いた手紙のようで、私はその手紙を手に、どうするべきかと少し思いあぐねたが、いま彼女と別 れたばかりの庭を、元へと戻った。
そうして私は、ゆるやかに驚いた。
そこにもう彼女の姿はなく、縁側から見えるその館の中は、人が住んでいる気配を失って、廃墟となり果 てていたからだ。
私は思わずその窓を開け、中へと土足のまま踏み入れた。
その館はあちこちに埃を残し、長い主人の不在を私へ訴えていた。
彼女は、幻だったのだろうか。
私は愕然とした思いのままに、手の中の手紙を開いた。
竹河九雀という作家に宛てられた、物語の感想の手紙らしいそれ。
そこには美しい字で、折原須磨子、と、彼女の名前が記されていて、確かに彼女の書いたものなのだと私は確信した。
――九雀。
どうしてここに、私の名前が書かれているのだろう。
彼女には、義久、と、私は姓を名乗った。彼女が私の名を知るはずがないのだ。
その手紙を手に、私はそれから消えてしまった彼女のことを思い続けた。
同名の作家がいるのかと調べてみても、それもいない。
それでもただこの不可解な一通の手紙の存在だけが、そのまま彼女が確かにいたのだという証だった。
それから程なくして両親が亡くなり、私と姉は、やがて祖父に引き取られることとなった。
初めて会ったその祖父の姓は、竹河、と、いった。
私は"竹河九雀"になった。
こうなることを予知していたかのようなこの手紙は、私に何を教えようとしているのだろう。
以来、何度あの館を訪ねても、遂に彼女に再びまみえることはできないまま、歳月が彼女の微笑みを声を、私の中から奪っていこうとしていた。
私は彼女の幻影を追い続け、なんとはなしに、物語を綴ることを生業とするようになっていた。
小説を書いていれば、いつかあの時のような手紙が彼女から届くのではないか。そんな思いもあったのかも、しれない。
けれど処女作を書いてからの数年、私は思うように書くことができないでいた。
筆を折ろうかと、幾度となく思っては書き、それを繰り返しながら悪戯に時を費やした。
そんな鬱屈とした日々過ごしていた、ある日のことだ。
またしても一通の手紙が、私の手元へ残されることとなった。
中学生だろうか、幼い文字は鉛筆書きで、ヒバリの便せんが愛らしかった。
懸命に綴られた丁寧な感想は、拙いながらも少女の真剣さをもって、私の心へ響いた。
それはいままでに届いたどんな手紙よりも、どんな高名な批評家の讃辞よりも染みて、私は再び、筆を執ることができたのだ。
手紙にはその少女の名前も、住所も何も記されてはいなかった。
二作目を書き終えて、私はまたあの少女が手紙をくれるだろうかと、心待ちにしている自分に気づかされた。
そうして届いた二通目のヒバリの便せんには、手紙の作法を知らずに礼を欠いたことへの陳謝と二作目の感想、そして彼女の名前が、あった。
――折原須磨子。
決して忘れ得ることのできない、あの日、枸橘の庭で恋した人の名前が、そこに在った。
私は引きだしの奥にしまったまま、長く開くことのなかったあの手紙を取り出した。
"彼女"の文字と、ヒバリの便せんを照会するように丁寧に比べれば、幼いながらも、ヒバリの少女の文字は確かに、あのひとのものだった。
――彼女は、この世界に存在していたのだ。
程なくして祖父が亡くなり、私はあの、彼女が住んでいた枸橘の館が祖父の持ち物であったのだと知った。
遺産代わりにそれを貰い受ける際に、忠告を受けた。
あの館には時折幽霊が出る、奇妙な出来事が起こるのだと。
私は微笑んで、それを受け容れた。
もう既に私は、過去と未来とが瞬間交差する、その幻想を体感していたのだから。
ゆるゆると私の中で、憶測が確信に変わっていった。
私は、未来のこのヒバリの少女、つまりは須磨子に逢ったのだという確信に。
それからも私がひとつ小説を書き上げるごとに一通、ヒバリの少女から手紙が届いた。
一通ごとにその文字は、いつかの手紙に近づいていった。
ヒバリの少女は封筒の裏に住所を残してはいなかった。
ゆえに逢いに行くこともできなかった。
それでも私の書く物語で、彼女が書く手紙で、私たちは繋がっていられた。
――私は彼女のためだけに、小説を書き続けた。
高校生だったあの春、この枸橘の館で彼女に逢ってから、実に10年以上が経過していた。
私は遂に、枸橘の彼女を忘れることができなかった。
それでも私が恋した枸橘の彼女……須磨子という女性と、このヒバリの少女は何処か別 の存在のようで――私は二度目の、恋をした。
ヒバリの少女が現れたことで、そして彼女に心惹かれ始めたことで、枸橘の彼女の姿が急に、朧気になってゆくことを私は恐れた。
記憶の中に生き続けていた須磨子を思い、ヒバリの少女を思って、私は人形を、作った。
ひとりで生きるには、この館は広すぎたのだ。
ヒバリの少女には、逢うこともできないだろうと思っていた。
あの枸橘の彼女も、ヒバリの少女も、手紙だけを私に残して、記憶の中で朽ちていく。
少女は美しく成長し、あの春、枸橘の庭で高校生の私に出逢う。
……私はただ、ひとりだった。
それから数年が経過した頃、唐突に、ある機会が訪れた。
それは文芸誌の担当者からの手紙に添えられた、何気ない一言だった。
友人に竹河先生のファンがいます、憶えてはいないと思いますが、ヒバリの便せんで書いているそうです、と。
担当者に連絡を取れば、ヒバリの少女に会える。
あれほど思い続けた須磨子、そのひとに、もう一度逢うことができる。
その渇望を告げるには私はひたすら臆病で、代わりに私はある提案を、担当者にした。
家政婦を探している、と。
――いまとなれば可笑しな話だが、私はずっと、思い至ることができないでいた。
どうして未来の彼女が、この館で暮らしていたのか。
彼女が愛しいと微笑んだ相手が、高校生の私を似ていると告げた相手が誰なのか。
彼女に愛されることに、もう失わないことに私はただ貪欲であり必死で、随分と非道い仕打ちも、してしまった。
だがもう私は、恐れることはないのだろう。
窓の外では枸橘の花が、あの春から数えて十五回目の花を咲かせている。
いつだったか私が彼女に問うた言葉がふと浮かんだ。
そんなにまでしなければならない、恋なのか、と。
それに答えるいまの私の微笑みは、おそらくあの時の彼女と同じものだ。
彼女はもうすぐ、そこの扉を開けて私のもとへと来るだろう。
優しい人なのだ、"彼"を傷つけたと泣いて来るだろう。
私は彼女に伝えなければならない。
私は二度、あなたに恋をしたのだと。





「九雀さん、このお話……」
ひとしきり九雀の腕の中で泣いたあとの須磨子に手渡されたのは、原稿用紙の束だった。
九雀が書き上げたばかりだというその小説の草稿は、いままでの九雀が書いてきた文章とも物語ともあまりにも違って、散文のような、ともすれば九雀の自叙伝に思えて、須磨子を混乱させた。
「このお話、まさか」
文机を挟んで向かい合っていた須磨子が、驚愕のままに見上げたその顔に、九雀は微笑んだ。
「さあ……どうだろうか」
意味深げに微笑んだ九雀は文机から離れ、須磨子のところへと近づく。
「これは実のところ、あなたのためだけに書いた"小説"なのだから。出版するつもりもない。あなたが決めなさい」
須磨子は九雀の言葉にいっそう混乱を深めて、手の中の、長い長い小説を指でなぞった。
九雀の真意は、その微笑からはわからなかった。
だが小説だと言う九雀の言葉をそのまま受け取るには、この小説は総ての符合を示しているように思えて、怪訝に顔を顰めている須磨子に、くすりと九雀が声をたてて、笑った。
「……あの日のことを、いまでも憶えている」
穏やかな微笑みを湛えたままの九雀がそっと、須磨子の背後から身体を包むようにして座る。
懐かしむような九雀の声は、静かだった。
「ヒバリの手紙のあなたが、この館を訪れたことが奇跡のようで」
九雀が須磨子の指の上から、包むようにして原稿用紙に触れた。
それはいつか、義久がからたちの棘にかかったそれを取った時と同じ仕草で、須磨子は背後の九雀を見上げる。
九雀は懐かしむような目で、須磨子を見ていた。
「白いブラウスが、眩しかった」
一度、深く目を閉じた九雀は、泣き笑いのような複雑な微笑を浮かべた。
染み渡るような、深い声だった。
「愛している」
囁きでそう言って、瞼を閉じた九雀が須磨子の髪に頬を寄せた。
強い力で抱きしめられて、須磨子の手の中の原稿用紙がばさりと文机の上に落ちる。
「あなただけをずっと、あの日から……愛していた」
九雀の声は掠れていた。
もしこの小説に書かれていることが真実なのならば、この人は気が遠くなるような時間をずっと、自分にこの言葉を伝えるためだけにひとりでいたのだ。
その九雀の胸の中で、張り裂けそうに胸が痛い。けれどそれは、悲嘆からではない。
「九雀……さ……ん……」
須磨子はたまらない気持ちになって、身体を九雀へと向き直すと、手を伸ばして、九雀のくしゃくしゃの髪を抱き寄せる。
いまや触れられない義久を思い、九雀を想って、須磨子は九雀の頬に唇でそっと触れた。目眩がするような愛おしさは潰えなかった。
「私はずっと、此処にいます」
須磨子は強く強く、九雀の背中を抱いた。
幻想のような、奇跡のようなこの彼を失わないように。
彼にもう自分を、失わせないために。
「ずっとこうして、九雀さんの腕の中に、います」
「……うん」
九雀は須磨子の言葉のひとつひとつを噛みしめるように、目を伏せた。
須磨子から顔を近づけて、優しく押しあてるようにして、微笑んで唇を重ねた。
「愛しています」
須磨子の言葉に、九雀は打たれたように目を見開いて、そうしてゆるやかに微笑みに変わった。
眩しさを、その言葉を噛みしめるような、笑みだった。
それがきらきらと眩しくて、細めた須磨子もまた、微笑った。
「枸橘の花が何度咲いても、ずっと」
目眩がするような愛おしさは潰えずに、須磨子は九雀の胸に額をつけて、瞼を閉じた。

そうして須磨子はついに、気づくことはなかった。
文机に広がったその小説の下、積み上げられた本の隙間に、一枚の便箋があったことに。
それは、まるで長い年月を経過したかのように色褪せ、日に灼けて黄ばんでいた。
外はもう、夜だった。
春の月明かりの下で、からたちの白い花が灯りのように無数に灯っていた。
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