呉ノ朱

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  二.  

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翌朝、あるいは彼女に、会えるかもしれないという期待をもって、私はその棘の隙間を抜けた。
――彼女はそこにいた。
縁側に腰掛けて、庭の枸橘をただ見ている彼女の横顔に、胸が鳴る。
靴底が擦った土の音に、彼女がゆっくりと私を振り向き、おはよう、早いね、と、微笑んだ。
私は懸命に平静を保とうとシャツの胸元を掴み、彼女の元へと行く。
手に握りしめた学生鞄がカタカタと震えていた。
あなたにもう一度会いたかったからだとは、遂に言えなかった。
これから登校かと問われて、此処が最近近道だと知ってと、嘘をついた。
近道だと知ったのは確かだったが、わざわざあんな枸橘の生け垣を抜けてまで、他人の庭を通 ろうとは思わなかった。
昨日はただ気紛れで、そして今日は、彼女のためなのだ。
ふと、彼女の視線が私の腕のあたりで留められた。
視線を追って腕を見れば、白いシャツが切れ、赤く滲んでいる染みがある。
痛みはさほどなく、私はそっと指で押さえた。枸橘の棘で切ってしまったのだろう。
彼女の表情を曇らせるのが厭で、私が微笑んでみせると、彼女は立ち上がった。
私が制止する暇も与えず、彼女は縁側からまた窓を乗り越えて、館の中へと戻って行き、救急箱と裁縫箱、そしてタオルを手に戻ってきた彼女は私の隣に座って、私がボタンに手をかけるのを見ると目を逸らしてしまった。
シャツの下は、裸なのだ。
私もなんだか気恥ずかしくなって、まだ体温の残るシャツを彼女に手渡すと、枸橘へと視線を流した。
彼女のひんやりとした指が私の腕に触れる。
彼女に触れられたことで早鳴ってしまった鼓動が、腕から彼女の指へと伝わりはしないかと、私は緊張していた。
彼女はくすりと笑って、消毒綿を傷口へとあててくれた。その仕草はたおやかなものだったが、刺すような痛みが傷口から染みて、私は思わず腕を震わせてしまった。
彼女が覗き込むようにして痛かったかと私を見るので、私は彼女に心配さすまいと微笑んだ。
――どうしたらいいだろう。彼女が一秒ごとに、愛おしくなってゆく。
私は恋を知らなかった。
小説や映画の中だけに存在するものだと思っていた。
それがこんなにも唐突に、確かな体温をもって自分の目の前に現れる。
絆創膏を貼られた腕をそっと撫でて離れてゆく彼女の指を、握って留めてしまいたかった。
けれどそれをすることもできぬまま、彼女は私のシャツの染みをタオルで叩き始め、オキシドールを染みこませたらしい布巾は時折泡立って、シャツをまた元の白さへと戻していった。
彼女があまりにも真剣にその作業を行っているので、私はなんだか可笑しくなって、目を細めて、笑った。それに気づいたらしい彼女と私の視線は瞬間絡んで、顔をあげた彼女が頬を上気させた。
――あなたは優しい人ですね。
その私の言葉に、彼女は一度目を見開き、また照れたようにして、手元へと視線を戻してしまった。
私は初めて座るこの館の縁側で、枸橘の生け垣や、窓の中の部屋の風景を見やり、そして彼女がひとりで住むには、広すぎる館だということに思い至った。
一人で住んでいるのかと問えば、彼女の返答は少し淀んで、シャツを叩いていた手が止まる。
その指には指輪はなかったが、愛している人と暮らしているのだと、見てとれた。
胸がずきりと痛む。
その痛みを笑顔で私は、殺した。
私は彼女の顔を見ないようにしながら、裁縫箱へと手を伸ばし、針に糸を通した。
手渡すときに触れた指先が、もう既に誰かのものだという事実は、針の先端に触れた時のようにチクリと私の胸を刺した。
黙った私に倣うように、彼女もまた黙って、私のシャツを縫いかがり始めた。
ざわざわと風が枸橘の葉を揺らす。その音はまるで私の心情を表現しているようで、私はただ、枸橘の花を見ていた。
程なくして、彼女がかがってくれたシャツに袖を通しながら、ふと部屋の中の時計を確認して、私は少し、焦った。遅刻だ。
彼女のせいではないのに、心配げに顔を曇らせた彼女は優しく、私は笑顔で大丈夫だと告げて、背を向けた。
背中に投げかけられたいってらっしゃい、という明るい声に振り向くと、朝陽の中で笑顔になった彼女がいた。
眩しいその微笑みに、やはり彼女は美しく、愛おしさが胸を苛んだ。
――やはり須磨子さん、笑っていたほうが、ずっといい。
そう告げ、微笑んだ私に、彼女は再び頬を染めた。
目眩のような愛おしさが、さっき枸橘の棘で傷つけた傷のように胸を痛ませても、私は確かに幸福だった。




「おはよう」
義久を見送った後、裁縫箱と救急箱を両手に、窓枠をまたごうとしていた須磨子の向こう、和室の入り口に九雀が立っていた。
九雀はその須磨子の様子に一度目を見開き、そして眉を顰めて、苦笑する。
「お行儀が、宜しくない」
「すみません……」
須磨子は恥じ入って、けれど和室にそのまま足をついた。
九雀の目は赤く、昨夜夕食後に部屋に籠もってからいままで、彼が起きていたことを示している。
「新作、いかがですか?」
「なかなか難しくてね」
九雀は苦笑を続けたまま、作務衣の懐から煙草を一本取り出し、火をつけた。
それをふうと吐き出して、また微笑む。
「ある読者の女の子から前作の感想の手紙が届かない限りは……どうも調子が出ない」
窓際に腰掛けて、ちらりと須磨子を見た九雀の言葉を理解するのに、須磨子は少しの時間を要した。
「……もう、九雀さん!」
昨夜話した自分の手紙の話をからかわれて、須磨子も笑顔で九雀を窘める。
九雀が珍しく、可笑しそうにくつくつと声をあげて、笑った。
そしてふと、須磨子が持っていた救急箱らに視線を止める。
「怪我を?」
「あ、いいえ」
九雀に気づかれたことで須磨子はどきりとした。
別に罪悪感など感じる筈はないのだ。怪我をしていた少年の手当てをしただけ。それなのに須磨子は、なんとなくそのことを九雀に話すことができなかった。
――笑っていたほうがずっといい。
義久のはにかむような若い笑顔が思い出されて、鼓動がまたどきりと鳴る。
「さて」
煙草を消し、立ち上がった九雀の声に須磨子はハッとした。
「私はしばらく寝ます。夕食には起こしてください」
「はい」
微笑んだ九雀の手が優しく須磨子の頭に乗せられ、須磨子は返事を返した。
鼓動はまだ、止みそうにはなかった。




帰り際、あの枸橘の館をのぞけば、彼女が和室の窓に寄りかかるようにして昼寝をしている姿があった。
風邪をひくと思ったが、起こすには忍びなく、私はそのまま庭に立ち尽くしてしまった。
夕陽に枸橘の白い花が染まって、赤い。
ふとある考えが私の中に生まれた。
彼女に、礼がしたかった。





「須磨子」
肩を揺り動かされて目を覚ますと、畳に膝をついた九雀が見下ろしていた。
「こんなところで寝ていたら、風邪をひく」
「あ……九雀さん」
いつのまにか寝てしまっていたらしい。
もう窓の外は夕陽がすっかりと沈んで暗かった。
と、身体を起こした自分の身体から、ひらひらと白いものが畳にこぼれ落ちる。
――からたちの、白い花。
「こ、れ……」
畳に点々と落ちたそれは、数え切れないほどのいくつもの小さな花だった。
須磨子が手を伸ばすよりも先に、九雀がそれを取る。
「この花は、誰が?」
「あ……!」
思い至ったのは一人しかいなかった。そして、こんなことをするのも。
帰宅時にでも通りがかったのだろう、眠っていた須磨子を起こさないように、花だけを置いていった。
シャツや傷口の手当の礼、なのだろう。
義久のことを思って黙った須磨子を、九雀が静かに見下ろしていることに気づいて、須磨子は慌てて座り直す。
「あの、昨日の学生さんが、朝……怪我をしていて……」
「あなたは彼を手当した。その御礼というわけですか」
九雀は指の間で摘んだその花を弄ぶように、くるくると回す。
やましいことなどない筈なのに、九雀を真っ直ぐ見ることができない。
「これだけの花を集めるのは、おそらく大変だっただろうに」
はっとして見上げた九雀は、朝、義久がそうしていたように、切なげな微笑を浮かべていた。
「からたちはあの通り、鋭い棘がある。彼はあなたのために、これだけの花を摘んだのだろうね。……指を傷つけても」
九雀のその声には、どことなく棘があった。今までにない九雀の様子に、須磨子は戸惑ったまま、九雀の微笑を見上げる。
ちらりと視線を花から須磨子へと移して、九雀は摘んでいた花を指で潰す。
「あなたの心が動かない、筈はない」
「九雀さん!」
聞きたくない言葉だった。
声を荒げた須磨子の目の前で、はらはらと九雀が潰した白い花が落ちる。
まるで義久の気持ちを潰されたように感じられて、須磨子は怒りを込めて九雀を見た。
九雀は自分の言った言葉に気づいたようにハッとして、そうして顔を曇らせる。
「すまない。ただの、嫉妬だ」
瞳を伏せて、床に散った白い花びらを見やった九雀が掠れた声で呟く。
「あなたがその青年と、行ってしまうのではないか、と」
ちらりと須磨子へ向けられた視線に、須磨子の怒りは煽られた。
怒りというよりは、失望に近かったのかもしれない。
「どうして……どうしてそんなに、私を失うことを恐れているんですか」
ずっと訊いてみたかった問いだった。
いつだったか須磨子が九雀の部屋で、囚人となっていた時も九雀は言っていた。
"もう僕はあなたを失いたくない"と。
姉を失った九雀が、以来初めて情を交わした自分を失いたくない気持ちは、須磨子にも理解はできた。須磨子もまた、両親を亡くしたのだから。だが。
「そんなに私の心は、信じていただけないんですか……?」
叫ぶように言った自分の言葉に、気づかされたのは須磨子の方だった。
須磨子自身は、はたして九雀への愛情を揺るぎないものとして信じられるのか、と。
義久の顔が、ちらりと横切る。
彼の仕草に、微笑みに、胸をときめかせた自分が、いたのではなかったか。
表情を強ばらせた須磨子の心中を、九雀は察したように一度顔を歪めた。
そうして突然、抱き寄せられて、口吻られる。
「……九雀、さ……っ!」
大きな手のひらが、頬を滑り、髪をくしゃりと握った。
そのまま畳に引き倒されて、身体の上に慣れた九雀の重みが乗る。
「彼に惹かれるのならば、行きなさい」
「!?」
自分を真上から見下ろすようにして低く囁かれた言葉は冷静で、須磨子は九雀の心がわからなくなる。
九雀は静けさを湛えたままの瞳で須磨子を見つめ、下方、須磨子の足首のあたりを見やった。
「その足にもう枷はついては、いない。心まで繋ぐことは……できないでしょう」
諦めたような微笑で九雀が須磨子を見るので、胸が締めつけられたように痛んで、須磨子は息ができなくなる。
「それとも」
ごつごつとした手が、須磨子の太腿を滑り荒々しいままにワンピースの中へと侵入してくる。
もう一方の手が、強く強く須磨子の手首を掴んで、畳へと押しつけていた。
「また、あなたを繋いでしまおうか……!」
低い声が喘ぐように苦しげに、呟く。
呵責に未だ苛まれている筈の九雀にその言葉を口にさせる程に、須磨子は彼を傷つけていたのだと、気づいた。
唇は再び激しく重ね合わされながら、指が下着の隙間から須磨子の秘所を滑った。
「や……っあ!」
口吻で官能を得てはいても、九雀を受け容れられるほどには濡れてはいないそこに触れるのは、指だけではなかった。
熱い、何度となく自分の中に挿入されてきた九雀のもの。
ぐ、と、完全にほぐれてはいない入り口を、九雀の逞しいそれが微かに割った。
「その彼は……知らないのだろう、ね」
先端が襞に埋まる。もう易々と自分の身体は、九雀を受け容れてしまう。
いつもの九雀の慈しむような愛し方ではなく、九雀に初めて抱かれた時のような、乱暴なそれであっても、易々と。
「あなたがこんな顔を……、させることも」
きちきちと襞を擦りながら、九雀の男性自身が根元まで、須磨子の中に挿入されて、須磨子は仰け反った。
「どんな声で鳴くかということも……っ!」
「ぁ、は……っ」
揺さぶられる臀部が畳と擦れて痛む。
九雀が両腕で須磨子を抱き上げて、九雀の身体の上に座るような形になった身体にいっそう深々と、九雀のものが突き入れられた。
「信じ得ないのは、あなたの心では、ない」
「あ!!」
頭を抱きしめられて、耳元で籠もる声は何処までも寂しい。
九雀が腰を一度深く入れた。身体の中心を震わせるようにして、九雀のものが須磨子を穿つ。
「いまあなたと、繋がっていられる……ことだ……」
愛おしそうに須磨子の頬を手のひらで包んだ九雀は、低く囁きながら須磨子の唇を貪る。
「こうして触れていても、幻想なのではないかとさえ……!」
九雀の声は震えていた。
奥をくすぐるように細かく突き上げられて、須磨子は必死に九雀の身体にしがみつく。
この快楽の総てを、九雀が教えた。
「九雀……さ、ぁっ!」
掻き抱くように強く抱きしめられて、訪れたのは白い絶頂。
激しく上下する視界のすみで、畳に散ったからたちの白い花が揺れている。
それはもう、萎れて茶色味を帯び始めていた。
途切れた息の中で、声にならない声で、須磨子は何度も九雀を呼んだ。


「痣になってしまった」
畳にふたり横たわったままで、須磨子の手首に赤く残ったその痕を消そうとでもいうように、何度も何度も、九雀が撫でる。
「すまない……」
須磨子は微笑みながら首を振って、九雀を赦していた。
――何処までも、この人は臆病で、そして優しい。
どうしても、その九雀が愛おしいのだ。
「須磨子」
九雀が静かに須磨子の髪を撫でた。
「僕はどうも言葉が足りなくて、いけない」
目を細めて、すまなそうに腕の中の須磨子を見た九雀の表情はいつものもので、須磨子は少し安堵する。
「それでも、どんなに言葉を尽くしても、僕がどんなにあなたに会いたかったか、どれ程……その、あなたを、愛……しているか、決して語り得ないと、思っている」
ごほん、と咳払いをしてしどろもどろに言葉を繋げる九雀の顔は、赤く染まっていた。
あまり普段、九雀の口から語られることのない愛の言葉に、須磨子は鼻の奥がつんと痛んだ。
「九雀さん」
言葉を続けなければ涙になってしまいそうで、須磨子は九雀の名前を呼んだ。
「十三歳の時に、九雀さんの小説と出逢ってから……私にもずっと、あなただけでした」
引き寄せられるように手を伸ばした本屋でのあの記憶を、須磨子は生涯、忘れることができないだろう。
身体の向きを変えて、九雀を向く。
大きな腕を枕に借りたまま九雀を見上げれば、切なげな瞳がそこにあった。
「……竹河先生に出そうと思っていたお手紙の内容、ですけれど」
くすりと須磨子は笑う。
九雀の双眸が僅かに見開かれて、続けるように、と視線で催促される。
「先生の新作短編、"からたちの籠"、いつものように拝読させていただきました。……そして最後まで読んで、泣きました」
内容を思い出しながら、須磨子は一度、瞳を閉じた。
それは実際の九雀を知らなければ書けなかったであろう、感想だった。
「からたちの檻の中にいたのは少女のはずだったのに、私には、それが男のように思えてならないからです。彼を思って、泣きました」
九雀が驚いたように須磨子を、見た。
手紙の内容を反芻しながら、まさかこんな日が訪れるとは思わなかった、と、須磨子は思う。
竹河九雀その人の、腕の中で直接、感想を告げる日が訪れるなど。
「そしてもうひとつ」
竹河九雀の綴る物語は、辛いことを拭い去ってくれる力を持って、いつも須磨子を支えてくれた。
その思いを、文字に綴って送ることしかできなかった。それでもそれが唯一、孤独だった須磨子の世界を明るくしてくれた。
――思えばずっと、須磨子の世界には九雀しかいなかったのだ。
須磨子にとって、九雀は総てだった。 こんなにも総てだった。
「もしも私が少女だったのだとすれば、あれほどまでに自分を強く愛してくれる男を、おそらく愛おしく、思うのでしょう。……少女は、男に赦していたのではないでしょうか」
手紙の内容は、以上だった。
九雀はいまにも泣き出してしまいそうな顔をして、須磨子を見つめていた。
「……九雀さん」
須磨子はそっと、手のひらで九雀の頬に触れた。
「九雀さんがあの日のことでずっと、自分を責めていること、気づいていました」
ぴくりと、触れた頬が震えた。
指を滑らせて、頬を、そして唇をそっと撫でる。
「でも私は、あなたにずっと、繋がれていたいんです」
尽きない愛しさに微笑むと、目の端から涙がつっと、一筋こぼれ落ちる。
九雀が顔を歪めて、須磨子の頭を抱き寄せた。
「須磨子……」
静かな九雀の声は切なく愛おしげに須磨子の名を呼んで、耳に染みる。
須磨子の瞳から流れた涙は、散っていた白い花弁の上に落ちて、雨のように花を濡らした。
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