呉ノ朱

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  一.  

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彼女は美しい人だった。
その日、私はいつものように細い道を抜け、枸橘(からたち)の生け垣にぐるりと囲まれたその館の庭へと立った。
高校への道筋に在るこの館の生け垣を抜けたのはその日が初めてで、古びたその庭の枸橘の花が、陽射しに白く眩しかった。
その日は風が強く、ざあと枸橘を鳴らした風にはらはらと、白いものが私の目の前に舞った。
瞬間、枸橘の花かと思ったそれはどうやら紙のようで、一枚手に取ると、遠くからすみません、と、声が聞こえてくる。
声に振り向いた私の鼓動は、彼女を見て時を止めた。
枸橘の緑に、彼女の白いブラウスが映えて眩しい。
彼女は腕に紙の束を抱え、窓から身体を乗り出すようにして私を見ていた。
慌てた表情の彼女は、窓をまたいで縁側の板へと足を降ろし、翻ったスカートから伸びた白い足に、私は思わず目を反らして、土に落ちた何枚ものその紙を拾い集めた。
ありがとう、と微笑んだ彼女が、裸足で土を踏んで此方へと、来た。
その笑顔に鼓動がまた少し、強く鳴る。
手の中のその紙は、原稿用紙のようだった。
手渡すと、また花が開くように彼女は微笑った。
黒い軽く波打った肩口ほどの髪が、風にさわさわと揺れる。
――この家の方ですか。
咄嗟に口から出たのはそんな言葉で、私が自分の愚かさ加減に気づいた時、彼女は微笑んだままで眩しげに私を見上げた。
年の頃は、私より一つか二つ、年上といった程だろう。
須磨子といいます、と名乗った彼女は風に音を立てる原稿用紙を抱きしめて、軽く首を傾げて会釈した。
私もまた義久です、と名を名乗り、彼女の微笑につられて微笑むと、彼女はじぃと私に視線を止めた。
私の微笑みが、ぎこちなかったせいだろうか。
ひときわ強い風が、窓際に置いてあったらしい原稿用紙を再び風に飛ばし、庭へと舞わせた。 枸橘の生け垣、その棘にかかってしまったそれを取ろうと彼女が手を伸ばしていた。
私は咄嗟に、彼女の手を追った。
危ないですよ。そう言って、紙を取ろうとした私の手は、包むようにして彼女の手に触れた。
私の鼓動はいまや、彼女に聞こえたのではないかという程大きく鳴っていた。
彼女は心なしか頬を紅潮させて、私が手渡した原稿用紙を胸へと抱いた。
その彼女の黒い髪に、ぽつりと咲くようにして、枸橘の花が絡んでいる。
――花が。
私は指を伸ばすと、その花を摘み、そして彼女の目の前へと差しだしていた。
枸橘の小さな白い花弁が震えていたのは、風のせいだったのか、私の指が震えていたのか、わからなかった。
その花を受け取った彼女が、私を見上げる。表情の変化が愛おしく思えて、私は少し、笑った。
ありがとう。そう言った鈴の音のような彼女の声に、私は会釈をして踵を返した。
名残惜しい気さえした一瞬の出会いだったが、登校中であることを思い出したのだ。
館の角を曲がる時、生け垣の庭を一度、振り返った。
そこにもう彼女の姿がなくなっていたことに、落胆した自分に気づく。
風はいつの間にか収まっていた。





「今年も、咲きましたね」
掃除の手を止めて、窓の外のからたちの花を見やっていた須磨子の背後に影が差す。
見上げれば、大きな体躯を屈めるようにして、九雀が微笑んでいた。
「あの花を見るといつかの日のことを思い出して……時折胸が痛みます」
九雀の大きな手が、そっと須磨子の肩に乗った。
じんわりとした体温は、まるで九雀の存在そのもののように身体に染みてくる。
「もう、気にしなくていいって、何度も言ったじゃないですか」
須磨子は微笑んで、九雀を見上げた。
くしゃくしゃのくせの強い髪、大きな身体、ぶっきらぼうでも優しい笑み。もう何ヶ月も寝起きを共にしているのいうのに、愛おしさは潰えない。
――いつかの日。
それは、九雀が須磨子を監禁していた、あの数日のことを指している。
須磨子が九雀を愛していると告げてからも、彼はあの時のことを思い出しては、罪の意識に苛まれているようだった。
窓の外のからたちの花が風に震えている。
鋭く尖った幾重もの枝の間に咲くささやかな花は、確かに九雀が思うように、まるで檻に囚われているようにも見えた。
「そういえば今日、原稿用紙を風に飛ばしてしまったのですけれど」
不意に須磨子は、朝方、まだ九雀が眠っていた頃のことを思い返す。
「高校生くらいの男の子が、拾ってくれて。この家に誰かが訪れるなんて初めてなので、なんだか不思議な気持ちでした」
「ふむ、高校生」
九雀は微笑んだ須磨子をちらりと見て、九雀は顎を撫でた。
ここ数日籠もって新作の執筆をしていた九雀の顎には、うっすらと無精髭が生えて、初めて九雀に会った頃を思い出して須磨子は懐かしい。
「それでその時、手紙を失くしてしまったのですけれど、九雀さん、もし見つけても読まないでくださいね」
「手紙?」
珍しく興奮気味にそう言って、九雀に頷く。
「誰への手紙です?」
「……竹河、先生」
須磨子は顔を紅潮させて、覗き込むように九雀を見た。
九雀が一度、目を見開いて驚いた顔をさせる。
「僕に?」
「九雀さんに、ではなくて、竹河先生に、です」
九雀の顔がますます怪訝げに曇る。須磨子はなんだか恥ずかしくなってしまった。
「一緒に暮らしてから……私、新刊の感想、お送りしていなかったから……。手紙にしようかと、思って」
須磨子はぼそぼそと、消え入るような声でそう言って、九雀を見た。
目を見開いていた九雀が、少し眉を寄せて、ゆっくりと瞼を閉じる。
「あなたは……ほんとうに」
九雀の口元がゆっくりと笑みの形になった。
そうして、頭をがりがりと掻いた。照れた時の、九雀の癖だ。
「私の手紙で、九雀さんといまこうしていられるんですから……ずっと、そのことを忘れていたくないなと、思ったんです」
内緒でこっそりとそれをして、九雀を驚かせるつもりだったのだ。
だが今日の強い風に吹かれた手紙は、集めた原稿用紙の束の中か、それともこの敷地の外へと行ってしまったのか、遂には見つけることができなかった。
「ありがとう、須磨子」
九雀の手が、そっと伸ばされて須磨子の身体を抱き寄せた。
「思えば僕たちは、あなたの手紙で繋がっていられた」
九雀の微笑みは何処か懐かしげで、眩しそうに目を細めて須磨子を見た。
――須磨子はいまでも時折、九雀とのこの生活が幻想のようで怖くなる。
それは九雀も同じようで、 日々という日々をこの家で二人重ねてきても、九雀はまだ、須磨子を失うことを恐れているようだった。
それを須磨子は、ただ微笑んで抱きしめることでしか、癒すことができない。
隣に立った九雀の大きな腕に包まれながら、須磨子はそっと目を閉じた。
ふと、あの義久と名乗った学生の微笑が浮かび、鼓動が一度鳴る。
黒髪と白い制服のシャツ姿がからたちの緑に映えて、眩しかった。
からたちで囲まれた、ふたりだけだったこの館に初めて訪れた、青年。
彼の存在は風となって、須磨子の胸をさわさわと、からたちの葉を揺らすようにざわめかせていた。
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