呉ノ朱

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  最終話.  

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その日も、変わらない一日が始まるはずだった。
だが、目覚めると九雀の姿がない。
枕元には、原稿用紙が同じように置いてあった。
トイレにでも行っているのかもしれない。そう思い、須磨子はそれを手に取る。
そうして、その内容に目を見開いた。

――猫は、遂に決心する。鳥を閉じこめていたからたちで造った鳥籠を、猫は壊した。短い棘は、それを造り上げた時と同じように猫の手に刺さり血を流したし、深く痛んだ。そうしてようやく籠を取り去ると、ぐったりと衰弱していた鳥は、翼を広げて飛び立った。

須磨子は顔を上げて、自分の足下を見やる。
……足枷が、ない。
自分と柱を繋ぎ、自由を奪っていた足枷が、まるで初めから存在でもしなかったかのように、取り払われていた。
手の中の物語は、まだ少し残っていた。須磨子は急くような気持ちで続きに目を走らせる。

――鳥は飛び立つ一瞬、唄った。それは猫へのものか、それとも自由になったことへの喜びかは猫にはわからなかった。けれどあれほど猫が聞きたいと、自分のために唄ってはくれないだろうかと願った唄を、鳥は確かに唄った。
その歌声があまりに胸を焦がすので、猫は少しだけ泣いた。猫の側には、いまやもう誰も棲んではいない、壊れたからたちの鳥籠だけが転がっていた。


須磨子は浴衣の胸元をぐっと押さえた。
これは、九雀からの手紙だ。もう自分を縛るつもりはないと、九雀は自分に告げたのだと須磨子はわかる。
けれどこの寂寥感は何だろう。
須磨子は立ち上がった。2日ぶりに使った足は少しぐらついたが、今はそれどころではない。
――九雀がいない。
須磨子はまずトイレを。そして浴室やリビングを総て覗いた。けれどそのどこにも、九雀はいなかった。
鼓動が不安で早くなる。九雀はどうして姿を消してしまったのか、須磨子はなんとなく、わかっていた。
自分がここを去っていくと、九雀は思っている。
そしてその別れが辛いから、九雀が先に姿をくらましたのだ。
須磨子は階段を駆け上がった。確信があった。

――あの部屋に、九雀は、いる。
階段は随分多く、そして廊下は長く感じられた。浴衣はもう着崩れてしまっていたが、須磨子にとってはどうでもいいことだった。
倒れ込むように例の部屋のドアノブを掴む。ガチャガチャとまわした。鍵がかかっている。
拳で、ドアを叩いた。
「九雀さん!九雀さんっ……いるんでしょう!?」
ただここに隠れているだけならばいい。だがもし、九雀が自分が去っていくと思い、絶望していたら?
父と母を失った時、自分はどう感じた?どうしようとした?
須磨子は焦っていた。最悪の予感が、声を大きくさせる。
「九雀さん……っ!返事してください」
だが、返事はない。鼻の奥がツンと痛む。涙が滲んだ。
――鍵を。
須磨子は廊下を元来たように戻る。転げ落ちるようにして階段を降りて、本棚の一番下の洋書を抜いた。奥に、以前と同じ場所に、鍵がある。
それを見つけた時、須磨子にはひとつの確信が芽生えた。
九雀は、あの部屋で自分を待っている。
自分があの日、逃げだそうとしたあの部屋に、再び自分が入ってくることを、九雀はきっと、待っている。

手の中に鍵を握りこめて、荒い息で部屋のドアの前へと戻った。
鍵穴に鍵を差し、まわす。憶えのある手応えだった。
ドアを開き、中を覗く。
中はひんやりとしていた。暗いその部屋へと須磨子は入っていく。
恐ろしくないといえば、嘘になる。それは闇を怖がる本能のようなものだ。
だがそれよりも、いまは九雀に会いたかった。
積まれたつづらを崩し、その奥へと進む。ひとつだけ有る窓から差し込む陽光が眩しかった。
そのベッドの上に、九雀は座っていた。
「九雀さん……」
須磨子はゆっくりと、歩み寄る。足下には人形の残骸が無数に散らばっていたが、もう何も、怖くない。
九雀が顔をあげた。逆光になって、表情が見えない。
「……逃げなかったんですか?それとも別れを言いに?」
「いいえ」
須磨子は九雀の頬に手をあてた。夜、九雀がそうしたように、そっと包む。
手のひらには冷たい感触があった。――泣いている。
「愛していると、伝えに来ました」
須磨子は微笑んだ。愛していると告げて、胸が切なく締まる。
九雀が鳥の歌と表現したものが、猫が欲しいと願ったものが何なのか、須磨子が出した答えはこれだった。
そのまま、九雀の首に腕をまわす。そっと抱き寄せた。
九雀のふわふわとした頭が、須磨子の肩に沈む。
九雀を愛していると、須磨子は思う。
確かにこの部屋は恐ろしかった。初めは九雀の気が触れているのかさえ疑った。だがいまは、九雀の中に深い虚ろな場所を見る。
そしてそれは、自分の中にも確かに感じられる、失われた存在が抉っていった場所だ。
九雀はもう自分を失いたくないと言った。そして自分に枷をした。けれど九雀を失いたくないと思うのは、須磨子とて同じことだ。
「僕はこのとおり、あなたの代わりに人形を抱くような異常者だ。それでも?」
「どうして代わりが要るんですか。……私もあなたに抱いてほしいと思っているのに」
くすりと須磨子は微笑んでみせた。身体を離すと、九雀が一瞬絡んだ視線を、ふっと逸らして、はにかんで微笑む。
この笑顔だ、と、須磨子は思った。この笑顔に、初め、自分は惹かれたのだと。
ためらうように口を開き、そして閉じて、頭を掻く。
その仕草も、須磨子の好きな九雀の癖だった。
「あなたを抱けば……壊してしまいそうで、怖い」
小さな声で呟くようにそう言って、九雀は目を伏せた。
須磨子はもう一度、くすりと微笑んだ。

狭く暗かった部屋を出ると、廊下はあまりにも明るかった。
生け垣のからたちが、初めて須磨子がこの家に来た時にはまだ青かった実を、橙に染めはじめていた。
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